エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世(Johann Baptist von Lampi the Elder画/美術史美術館蔵)©Public Domain

ピョートル3世

パーヴェル1世

エカチェリーナ2世 (1729〜1796) ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(在位1762年〜1796年)。夫ピョートル3世を廃し、啓蒙専制君主として国内改革をおこなう。オスマン帝国と戦い、南下の足がかりをえ、ポーランドを分割し、ロシア領土を広げた。

エカチェリーナ2世

夫を廃位し啓蒙専制君主となる

ドイツの小貴族の娘、エカチェリーナは、ピョートル1世の孫、ピョートル3世に嫁いだ。ところがピョートル3世は、プロイセンのフリードリヒ2世に心酔しており、七年戦争ではいきなり戦線を離脱。プロイセンを勝利させ、ロシア発展のチャンスの目をみずから潰した。 無能と呼ばれたピョートル3世にひきかえ、真摯に勉学に勤しみ、ロシアに溶け込もうとするエカチェリーナに人望が集まった。エカチェリーナは、近衛兵と手を結び、クーデターを敢行。夫を廃位させみずからが皇帝に即位した。 思想家のヴォルテールやディドロらと交流のあったエカチェリーナは、彼らの思想をバックボーンに、啓蒙専制君主としてさまざまな国政改革を始める。当初は、保守的な貴族らの反対で成果はあらわれず、農奴制廃止を主張するプガチョフの乱が勃発するなど、順風満帆の船出とはいえなかった。 しかしエカチェリーナは、貴族の優遇、地方都市への特権付与、ときには急進的改革主義者の弾圧、農奴制の強化と、臨機応変に舵取りをおこない、ロシアの国力を強めていった。
エカチェリーナが32歳のときピョートル3世が即位。クーデターはその半年後。失脚したピョートルは幽閉されるが、まもなく死亡。エカチェリーナが暗殺させたとされている。

戦争外交で得た広大な国土を地方分権化で統治

エカチェリーナは、外交でも手腕を発揮する。オスマン帝国との2度の戦争(露土戦争)で、ワラキア、モルダヴィア(現ルーマニア、モルドバ)から黒海沿岸に領土を広げ、さらにオスマン帝国配下のクリム・ハン国を破り、これを併合した。この結果クリミア半島を入手し、不凍港を求めての南下政策の足がかりをつくった。 西方では、プロイセンとの友好関係を利用して、オーストリアとともにポーランドの分割をおこなった。ポーランドで反発の戦争がおこると、それを利用してさらに支配を広げる。3回の分割で、3国中もっとも広い領土を手に入れ、ポーランドを消滅させた。エカチェリーナは広大な領土を新しい区分に制定し、有能な人材を送りこんで地方分権化を実現した。
エカテリーナ宮殿
エカテリーナ宮殿 Wikipedia

サンクト・ペテルブルクにあるエカテリーナ宮殿。日本人漂流者の大黒屋光太夫が帰国を願ってエカチェリーナと謁見した宮殿として知られる。

エルミタージュ美術館
エルミタージュ美術館 (冬宮殿)Wikipedia

エルミタージュ美術館。その起源はフランス文化に傾倒したエカチェリーナが建設した自分専用の美術館であった。

ピョートル3世には愛人がいたが、エカチェリーナにも10人を超える愛人がいたという。その中のひとりが、戦艦の名称にもなっているポチョムキン。忠実な臣下として粉骨砕身、女王のために働いたという。

参考

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ダメな夫にかわり軍に担がれ皇帝となる

北ドイツの小貴族アンハルト・ツェルプスト家の長女に生まれる、1745年、ロシア皇太子ピョートル3世に嫁ぐ。子供染みた娯楽にふけり、またプロイセン好みを隠さなかったことから周囲の失望を買ったピョートル3世に対し、エカチェリーナ2世はロシア語を熱心に学ぶとともに、その習慣にとけこむよう懸命に努力した。このため宮廷の人心は彼女へと集まり、1762年に近衛連隊が政変をおこした際、彼らによって皇帝に担がれることになった。 啓蒙専制君主のひとりに数えられるエカチェリーナは、1767年に発した訓令のなかで大々的に改革をうたった。ロシアのような広大な国家には専制君主による統治がふさわしいとして、自己の強大な権力を正当化するかたわら、市民の自由、法の前での平等などの法治理念、および経済活動の自由などを掲げたのである。しかし、改革推進の中心機関になるはずであった、農奴を除く各身分代表からなる立法委員会がわずか1年4ヶ月という短命に終わるなど、この時の改革は成果をあげることができなかった。

地方に活を入れるべく郡県制を再編

農民一揆が頻発するなか、1775年、エカチェリーナ2世は地方行政について基本法を発布した。一県あたりの納税者は30万から40万人の規模が適正としたうえで、一県あたり10から30の郡を置き、一郡あたり2万から3万人を標準とする新しい地域区分を制定したのである。各県には知事と副知事、重要な県には総督が配置され、そこには有力な政治家が送り込まれた。その下で行政と裁判実務を担う人材として、宮廷勤務から解き放たれた貴族たちをあてた。これらの改革によって、実質的な地方分権化が図られたのである。 エカチェリーナ2世は外交でも手を抜くことなく、西方ではプロイセン、オーストリアと結んでポーランド分割をおこなった。また南方ではオスマン帝国と2度戦火を交え(露土戦争)、黒海北岸地域を獲得するとともに、ワラキアとモルダヴィアを保護領とした。この結果、ロシア人の比率が50パーセントを割るなど、女帝の治世末期には、帝国は多民族国家への道を歩みだしていた。
エカチェリーナ2世
エカチェリーナ2世(Johann Baptist von Lampi the Elder画/美術史美術館蔵)©Public Domain

1762年、6月28日〜30日にかけて起こったクーデタで夫ピョートル3世は失脚。その直後に暗殺された。その後、実権を握ったエカチェリーナ2世は、日々徹底的に新しい政治計画を企て、みずからの野心にしたがってすべてを支配しようとした利己的な女性政治家だった。

エルミタージュ美術館
エルミタージュ美術館

現在多くの人々が訪れるエルミタージュ美術館の起源は、1755年にエカチェリーナ2世がつくった専用の美術品展示室だった。中核をなす冬宮殿は、1754〜1762年に建設され、最初にこの宮殿を使用したのもまた、エカチェリーナ2世であった。

参考

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ヨーロッパ主権国家体制の展開

危機の時代の主権国家

ロシアの台頭
ロシアの領土拡大地図
ロシアの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ
18世紀後半になると、女帝エカチェリーナ2世(位1762〜1796)が登位した。啓蒙専制君主として、ヴォルテールらとも親交のあったエカチェリーナ2世は、国内では、特権を認可して貴族と協力関係を強め、都市にも自治権を与え、経済活動の促進をはかったが、農奴制には手をつけなかった。 それどころか、プガチョフ(1742〜1775)の率いる大農民反乱(プガチョフの乱 1773〜1775)を鎮圧したのちは、かえって農奴制を拡大・強化した。とくにフランス革命勃発後は、反動的になって自由主義思想を弾圧したといわれている。アメリカ独立戦争では武装中立同盟を提唱したほか、南方では2度にわたってオスマン帝国と戦って、クリミア半島など黒海沿岸を奪った(露土戦争)。この結果、黒海はロシアの内海となった。この時代のロシアは、東方でもベーリング海峡を超えてアラスカにまで進出し、日本にも外交使節ラクスマン(アダム・ラクスマン 1766〜1796以後)を送るなどした。また西方では、3度にわたって、プロイセン、オーストリアとポーランド分割をおこない、自国領土の拡大に成功した。
プロイセンとオーストリアの絶対王政
啓蒙専制君主
ヴォルテールなどの啓蒙思想の影響をうけながら、中央集権化、近代化を推し進めた18世紀の専制君主。このような君主は、中・東欧に多く、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエカチェリーナ2世などがあげられる。彼らは、啓蒙思想の影響で、一般に農民保護などの社会改革をめざす開明的な一面をもっていたが、他方では、国内の経済発展が未熟で貴族に対抗すべきブルジョワがなお力をもっていなかった、みずから「上からの改革」に乗りださざるをえなかった。
ポーランド分割
ポーランド分割
第1回ポーランド分割風刺画 ©Public Domain

左からエカチェリーナ2世(ロシア)、スタニスワフ2世アウグスト(ポーランド・リトアニア共和国王)、ヨーゼフ2世(オーストリア)、フリードリヒ2世(プロイセン王)。

七年戦争後、王位継承をめぐって再びポーランドの国内が混乱した。この機会に乗じて、1772年、ロシア・プロイセン・オーストリア3国が、第1回ポーランド分割をおこなった。その結果、ロシアはドヴィナ、ドニエプル川以東の白ロシア(ベラルーシ)、プロイセンは西プロイセン、オーストリアはガリシアを獲得した。
さらに、フランス革命の余波で国内が改革派と保守派に分かれて混乱すると、ロシアのエカチェリーナ2世は、プロイセンとともに再び分割を強行した(1793)。これによって、ロシアは白ロシアやウクライナの一部を奪取し、プロイセンもダンツィヒ(グダニスク)などをえた(第2回ポーランド分割)。これに対して、ポーランド側でも、コシューシコ(タデウシュ・コシチュシュコ)(1746〜1817)が抵抗運動を組織したがおよばず、1795年には全土がオーストリアを含む3国に分割されて、ポーランドという国はいったん消滅した(第3回ポーランド分割)。
ポーランド分割(18世紀)地図
ポーランド分割(18世紀)地図 ©世界の歴史まっぷ

欧米における近代社会の成長

アメリカ独立革命

戦争の経過とパリ条約
フランスとの同盟のため、大陸会議から代表としてフランスに派遣されていたベンジャミン=フランクリン(1706〜1790)は、フランス人の間に非常に人気があった。彼の人気に加え、七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランス政府は、参戦には慎重であったが、ひそかに金銭的援助や物資補給で植民地の支援を続けていた。サラトガの勝利のしらせは、このフランス政府を参戦にふみきらせた。1778年、フランスは合衆国と和親・通称の条約を結び、正式にその独立を承認し、軍事同盟に同意し、イギリスに宣戦を布告した。こうしてフランスの陸海軍が戦争に加わることになった。翌年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦をおこなった。また、イギリス海軍が大陸への援助を妨害したことから、1780年、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱でヨーロッパ諸国の参加する武装中立同盟がつくられ、イギリスは国際的にも孤立した。

参考

詳説世界史研究

子女

  • 公式にはピョートル3世との子女、実際にはセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵との子女 パーヴェル1世
  • 公式にはピョートル3世との子女、実際にはスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)との子女 アンナ・ペトロヴナ ナターリア・アレクセーエヴナ
  • グリゴリー・オルロフ公爵との子女 ナターリア・アレクセーエヴナ エリザヴェータ・アレクセーエヴナ アレクセイ・ボーブリンスキー
  • グリゴリー・ポチョムキン公爵との子女 エリザヴェータ・ポチョムキナ(チョムキナ)

参考 Wikipedia

同時代の人物

大黒屋光太夫(1751〜1828)

イルクーツクで博物学者のエリク・ラクスマンと懇意になり、その奔走のおかげで帰国の許可を得たうえ1791年(寛政3)エカチェリーナ2世への謁見を果たした。

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