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イスラーム文明 イスラーム文明とは、イスラーム教とアラビア語を主体とし、さまざまな諸地域の文明とまざりあって形成された融合文明である。イスラーム教は、民族差別を否定し、ムスリムの平等を説く教えであったため、その普遍性が各地の文化の融合を可能とした。主に、イラン・イスラーム文化、トルコ・イスラーム文化、インド・イスラーム文化にわけられる。また、西方ではイベリア半島西ゴート王国の首都トレドを中心にイスラーム文明がヨーロッパ世界にもたらされた。

イスラーム文明

イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム文明の特徴

融合文明

イスラーム帝国は、古代オリエント文明やヘレニズム文明など、古くから多くの先進文明が栄えた地域に建設された。そこに生まれたイスラーム文明は、征服者であるアラブ人がもたらしたイスラーム教アラビア語を核とし、征服地の住民が祖先から受け継いだこれらの文化遺産を母体として形成された融合文明である。たとえば、生活の基準となる貨幣制度は東ローマ帝国とササン朝から受け継ぎ、また初期の代表的な建築であるエルサレムの「岩のドーム」は、シリアやイランの建築家、コンスタンティノープルのモザイク師などの多様な技術を集めて建設された。 アラブ文学の傑作とされる『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』も、インド・イラン・アラビア・ギリシアなどを起源とする説話の集大成であり、諸文明の融合ぶりをよく示している。 イスラーム教は民族による差別を否定し、信者の平等を説く。この世界宗教としての普遍性ゆえに、イスラーム教は多くの人々に受入れられ、やがて各地の地域的・民族的文化の特色も加味して、イラン・イスラーム文明トルコ・イスラーム文明インド・イスラーム文明が形成された。モスク建築を例にとれば、礼拝の場としての機能は全てに共通しているが、建築様式や壁面の装飾にはイラン・トルコ・インドなど各地に固有な文化の伝統がいかされた。地域や民族の特色を残しながらも、諸地域に共通する普遍性を備えていたことが、イスラーム文明の大きな特徴であろう。
岩のドーム
岩のドーム ウマイヤ朝 イスラーム文明の発展
岩のドーム 初期イスラーム建築の傑作で、八角形のプランをもち、いっぺんの長さが21m, 高さが43m である。ここは基壇の岩を保護するための寺院で、中央の聖石からムハンマドが光のはしごを登って昇天した場所とされている。
千夜一夜物語
起源は、ササン朝時代にパフラヴィー語で書かれた『千物語』。これはインド説話の影響を強くうけ、ひとつの枠物語の中に多数の説話が挿入されていた。8世紀後半に、バグダードでアラビア語に翻訳され、イスラームに固有な物語が付け加えられた。『千夜一夜物語』と呼ばれるようになったのは、12世紀の頃である。バグダードの焼失(1258)後は、カイロでさらに多くの物語が加えられ、マムルーク朝の滅亡(1517)時ころまでに、ほぼ現在の形にまとめられた。多数の著書の手をへてつくられ、原作者は不明である。日本には、1875年に英訳からの重役によってはじめて紹介された。

都市文明

またイスラーム文明は本質的に都市の文明であった。これは、古代オリエント時代以来、西アジアでは古くから都市文明が栄え、しかもイスラーム教自体が商人の町メッカに誕生したことによっている。学問の研究や教育は都市を中心に行われ、商人によって運ばれた外来の商品や農村からの富は都市に集中された。イスラーム教徒として文化的な生活をおくることは、都市に生きることにほかならなかったのである。 このような都市文明の担い手は、商人や手工業者であり、文学の重要なジャンルであった詩や説話文学には、彼らの生活や意識が反映している。また学問や文学・美術などの文化活動を保護したのは、カリフやスルタンをはじめとする都市の権力者・富裕者であった。アッバース朝治下のバグダードやマムルーク朝治下のカイロでは、宮廷文化が花開き、多くの学者や文人が権力者の保護をうけて活躍した。

学問の発達

神学・法学

最初に発達したイスラーム教徒の学問は、アラビア語の言語学と『コーラン』の解釈学、およびこれにもとづく神学や法学であった。 とくに法律は、イスラーム教徒の生活と密接に関連する。8世紀以後、イスラーム教徒の数の増大によって係争事件が複雑になると、『コーラン』だけにたよって裁判をおこなうことは不可能となった。このような社会の状況の変化に対応して、マーリク・イブン・アナス(709頃〜795)やシャーフィイー(767〜820)らの法学者たちは、『コーラン』やムハンマドの言行にもとづいて、イスラーム法を体系化することに努力をかたむけた。彼らのもとには多くの弟子が集まり、のちに「四正統法学派」と呼ばれるシャーフィイー派・マーリク派・ハンバル派・ハナフィー派などスンナ派の法学派や、これとは別にシーア派の法学派が次々と誕生していった。

歴史学・伝記

これらの学問の拠りどころとして、ムハンマドに関する伝承(ハディース)の収集が熱心におこなわれ、これが歴史学伝記の発達を促した。イラン生まれの歴史家タバリー(839〜923)は、バグダードでイスラーム諸学を修めたのちに、人類の誕生から始まる年代記形式の大部な世界史「諸使徒と諸王の歴史(預言者たちと諸王の歴史)」を著し、アラブ歴史学の伝統を確立いした。北アフリカやイベリア半島で諸スルタンに仕えたイブン・ハルドゥーン(1332〜1406)は、その経験をいかして世界史『考察の書』を執筆し、その「序説(歴史序説)」で都市と遊牧民との交渉を中心に、王朝興亡の歴史に法則性のあることを論じた。
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またイブン・ハルドゥーンから歴史学を学んだエジプトのアル=マクリーズィー(1364〜1442)は、その主著『エジプト誌』のなかで、マムルーク朝治下のエジプトの社会生活を生き生きと描きだした。

伝承の収集

8〜9世紀にかけてムハンマドの言行に関する膨大な数の伝承が集められた。各伝承の真偽を確かめるためには、その伝承を伝える人物の素性を調べることが必要となる。そのためにイスラーム世界では、伝記のジャンルがとくに発達し、カリフの列伝やスルタンの伝記のほかに、政治家・軍人・知識人・商人などの事績を集成した大部な伝記集が数多く著された。歴史の分野でも、列伝は重要な位置を占め、たとえば11世紀に書かれた『バグダード史』では、全14巻のうち第2巻以降はすべて列伝によって占められている。

外来の学問

イスラーム教徒の外来の学問は、9世紀初めにギリシア語文献がアラビア語に翻訳されはじめてから飛躍的に発達した。イラン南西部にあるジュンディシャープールの学院では、イスラーム以前からギリシアやインドの学術が、シリア語やパフラヴィー語(中世ペルシア語)によって研究されていた。この町を征服したアラブ人は、この学院での成果を受け継ぎ、ヘレニズム化したギリシア学術の継承者となることができた。さらにアッバース朝のカリフ・マアムーン(813〜833)は、バグダードに「知恵の館」を建設し、ここに学者たちを集めて、ギリシア語やペルシア語からアラビア語への翻訳を組織的に推し進めたのである。 イスラーム教徒は、まずこれらの翻訳によってギリシアの医学天文学幾何学光学地理学などを学び、これらを臨床や観測・実験によってさらに豊富で正確なものとした。ブハラ生まれのイブン=シーナー(980〜1037)は、臨床によって病理を綿密に分析した『医学典範』を著し、イスラーム医学界の最高権威とみなされた。またティムールの孫で第4代君主ウルグ・ベク(1447〜1449)によってサマルカンドに建設された天文台では、高度な観測の結果に基づいて『ウルグ・ベク天文表』がつくられ、ギリシア天文学の成果を一新した。 イスラーム教徒はインドからも医学・天文学・数学を学んだが、とくに数学の分野で数字(後のアラビア数字)と十進法ゼロの概念を導入したことが注目される。これによって代数学幾何学はめざましい進歩をとげ、錬金術・光学で用いられた実験方法とともに、ヨーロッパに伝えられて近代科学への道を開くものとなった。 アッバース朝第7代カリフ、マアムーンに仕えたフワーリズミー(780から850)を始めとする数学者たちは、三角法を代数学に応用し、また円錐曲線を用いて三次方程式を解く方法をすでに知っていた。

哲学

イスラーム教徒はギリシア哲学、とくにアリストテレスの『形而上学』『自然学』『オルガノン』などの著作を熱心に研究した。イブン・シーナ―は哲学の分野でも優れた成果をあげ、アリストテレスの学問を継承して独自の形而上学を完成した。またコルドバ生まれのイブン・ルシュド(1126〜1198)も、医学者として活躍するかたわら、アリストテレス思想の現像を復元することに力を注いだ。10世紀以降のイスラーム思想界では、神秘主義思想(スーフィズム)がしだいに影響力を強めてくるが、信仰と理性の調和はよく保たれていた。それは、ガザーリーをはじめとする神学者が、ギリシア哲学の用語と方法論を学び、合理的で客観的な神学体系を樹立したからである。

イスラームの学問分野と学者

フワーリズミー, タバリー, フェルドウスィ, イブン・ハイサム, ビールーニー, イブン=シーナー, アフリカヌス, イブン・ファドラーン, ウマル・ハイヤーム, ガザーリー, ジェラルド, サアディー, イブン・ルシュド, ラシード・ウッディーン, ウルグ・ベク, イブン・ハルドゥーン, イブン・バットゥータ, マックリーズィー

人と物と知識の交流

イスラーム社会ではアラビア語が公用語として用いられ、また各地の都市を結ぶ交通路の安全が確保されたことによって、人と物の交流はさらに活発となった。 毎年おこなわれるメッカ巡礼(ハッジ)も人の交流を盛んにし、イスラーム文化の統一に大きく貢献した。『コーラン』は貧者や旅人への保護をくりかえし説いているが、たとえばマリーン朝の探検家・イブン・バットゥータ(1304〜1368)が大規模な旅行をすることができたのも、旅人を歓待する社会慣行の賜であった。このような人の移動をつうじて、学問の成果や新しく開発された織物・灌漑の技術などが遠隔の地にすばやく伝えられたことが、イスラーム社会の著しい特徴である。 アッバース朝時代になると、ムスリム商人(タージル)たちは、香辛料や陶磁器、金、奴隷などを求めて、イスラーム世界の外へも積極的に進出した。遠隔地貿易には、ラクダを用いる隊商貿易と、三角帆をつけた縫合型のダウ船を用いる商船貿易とがあった。 隊商貿易はシルク・ロードをつうじて西アジアと中国・南ロシアとの間を往復し、また東ローマ帝国の小アジアや内陸アフリカへと出向いていった。 一方、商船貿易は季節風を利用し、羅針盤を用いて地中海やインド洋を自由に航行し、遠く東南アジアの島々や中国沿岸の杭州や泉州にいたるものもあった。 中国・東アフリカ・東南アジアの海港都市や内陸アフリカの集落にはムスリム商人の居留地が設けられた。中国では彼らはタージー(大食)と呼ばれ、清真寺せいしんじ(モスク)を建設してイスラーム教徒としての生活を営んだ。12世紀以後になると、これらの居留地には法学者や神秘主義者(スーフィズム)も移り住むようになり、彼らは先住民をイスラーム信仰に導くうえで大きな役割を果たした。特に中国では、モンゴル帝国の成立以降、西アジアからアラブ人、トルコ人、イラン人など多数のイスラーム教徒が来往し、これを機にイスラーム教は中国各地に広まりはじめた。また、医学・薬学・天文学・暦法などイスラームの学術が中国に伝えられたのも、この頃のことである。 イスラーム教徒の子弟の教育は、『コーラン』の学習から始まる。家庭やモスクで『コーラン』の暗記を終えた青年たちは、すぐれた師を求めて各地の学院(マドラサ)をめぐる「学問の旅」を続け、法学・神学・哲学・歴史学などのイスラーム諸学を習得した。このような過程をへることによって、初めて一流の知識人(ウラマー)となることができたのである。たとえば、中央アジアのサマルカンドやイベリア半島のコルドバに育った青年が、イラクのバグダードやバスラ、シリアのダマスクス、そしてエジプトのカイロやアレクサンドリアと旅を続けてイスラーム諸学を身につけることは、決して珍しいことではなかった。しかも、これらの学院は寄進財産(ワクフ)の収入によって運営されていたから、入学を許可された学生は、衣服や食事を提供され、無料で学問を続けることができた。メッカ巡礼に加えて、遠隔の都市を訪ねるこのような「学問の旅」は、知識と情報の交換を盛んにし、イスラーム文化の発展に大きな影響をおよぼしたのである。

ヨーロッパのイスラーム文明

東ローマ帝国や西ヨーロッパの人々は、拡大を続けるイスラーム世界に恐れを抱き、イスラーム教には根強い敵対意識を持ち続けた。彼らはイスラーム教徒をサラセン人と呼んだが、この言葉には侮蔑と敵意が込められていた。また、イスラーム教を「コーランか、剣か」の二者択一を迫る宗教とみなすことも、高度なイスラーム文明に対するコンプレックスに根ざしていた。 カール大帝が神の戦士としてサラセン人に懲罰を加える『ローランの歌』には、当時のキリスト教徒の意識が如実に示されている。近代にいたるまでのヨーロッパでは、ムハンマドを好色な背徳者とし、イスラーム教を偽りの宗教とみなす考えが一般的なイスラーム認識であった。 しかしこのような敵対関係にも関わらず、東ローマ帝国とイスラーム世界の交易は活発に行われ、西ヨーロッパとイスラーム世界を結ぶ地中海貿易が途絶えることはなかった。11世紀以降には、ヨーロッパのキリスト教徒は、イベリア半島の中部の町トレドに赴いてアラビア語を学び、イスラーム教徒による哲学や医学研究の成果を吸収することに努めた。アラビア語の著作はつぎつぎにラテン語に翻訳され、来るべきルネサンスの基礎づくりが進められた。

翻訳

カルタゴ生まれのイタリア人コンスタンティヌス・アフリカヌス(1017〜1087)は、40年近くをイスラーム世界で過ごし、アラビア語によるアリストテレス研究をラテン語に翻訳した。同じく北イタリアのクレモナに生まれたジェラルド(1114頃〜1187)は、トレドでアラビア語を学んだのち、天文学・数学・医学などの著作をつぎつぎとラテン語に翻訳した。 こうして13世紀半ばころまでには、アリストテレスの哲学書とイスラーム教徒によるおもな著作はほとんどラテン語に翻訳されたが、なかでもイブン=シーナーとイブン・ルシュドの哲学研究は、ヨーロッパの思想界に大きな影響を与え、カトリックの神学体系の樹立に貢献した。

自然科学

また自然科学の分野でも、クレモナのジェラルドによって翻訳されたイブン=シーナーの『医学典範』は、ヨーロッパでもっとも権威ある医学書とみなされ、16世紀まで各地の医学校で教科書として使われていた。

代数学

また代数学では、フワーリズミーの数学書がラテン語に翻訳された時に、代数学を意味するアルジェブラ Algebra (アラビア語の al-jabr) の用語が確定した。

光学

さらに光と色の伝播や光の屈折を論じたイブン・ハイサム(965〜1040)の『光学の書』は、12世紀末に翻訳が完成し、ヨーロッパ近代科学の誕生に大きな影響をおよぼした。

製糸法

ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図
ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図 ©世界の歴史まっぷ
イスラーム教徒は、751年タラス河畔の戦いで唐(王朝)軍隊を破り、その捕虜から麻布を原料とする製紙法を学んだ。かれらはサマルカンドやバグダード、カイロなどに製紙工場を建設し、やがてその技術はイベリア半島とシチリア島をへて、12世紀ころヨーロッパに伝えられた。 同じく中国起源の羅針盤火薬も、イスラーム世界を経由してヨーロッパに伝えられた。 インドから伝えられた砂糖や木綿は、10世紀ころまでに西アジア社会に普及し、十字軍の将兵によってヨーロッパにもたらされた。

参考

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