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イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラム王朝

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イスラム王朝 ムスリムの皇帝や国王が支配する国家。ムハンマドの指導によりムスリムたちがイスラームの教えの下に結束して、アラビア地域をはじめとする西アジア周辺のオリエント全域に興した国が最初で、分裂、建国、征服活動や貿易活動などにより、さまざまな地域にイスラームが伝播し、北アフリカ、東アフリカ、西アフリカ、トルキスタン、スペイン、インド、マレーシア、インドネシアにもイスラム王朝が誕生した。 中でもイスラム世界の中心的なイスラム王朝をイスラム帝国と呼ぶ。 カリフやスルタンを擁する中近東に拠点を置いた中心的な大帝国を築いた正統カリフ4代とウマイヤ朝、アッバース朝を代々まとめてサラセン帝国(ヨーロッパで使われていた呼称)、大食(唐で使われていた呼称)という。この大帝国をイスラム帝国と呼ぶことが多く、特にアッバース朝が真のイスラム帝国と考えることができる国家体制を築き上げた。

イスラム王朝

イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

ムハンマド時代

メッカの大商人の家に生まれ、40歳でアッラーの啓示を受けた預言者ムハンマドが、622年にイスラームを創始。 メッカで迫害されメディナに移り、教団(ウンマ(イスラム))を形成、630年にメッカを征服してカアバを一神教の神殿とした。その結果、諸部族が次々と帰順しアラビア半島の政治的・宗教的統一を果たし、632年に死去した。その言行録『コーラン』はイスラームの聖典とされている。

正統カリフ時代

イスラームの開祖ムハンマドの死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者となった4人のカリフたちが構築した国家。 首都:ムハンマド以来のイスラム共同体の所在地であるマディーナ(メディナ)がそのまま使われた。 カリフは、ムハンマドが保持していた宗教的権限と政治的権限のうち、政治的権限だけを継承する共同体の指導者であった。 初代カリフ・アブー=バクルが即位すると、盟約を結んでいたアラブ部族は次々と共同体から離反しはじめた。彼らはアラブの伝統に従って、盟約はムハンマド個人との間に結ばれたものとみなしたのである。アブー=バクルは、これらの離反者を討伐するとともに、イスラームのエネルギーをイラクやシリアなど「肥沃な三日月地帯」の征服活動(ジハード=聖戦)にふりむけた。 イスラームによって統制されたアラブ軍は、カーディシーヤの戦い(636)、ニハーヴァンドの戦い(642)でササン朝の軍隊を破り、シリア方面でもヤルムークの戦い(636)で東ローマ帝国に壊滅的な打撃を与えた。 642年までには、シリアに続いてエジプトの征服も完了した。ササン朝の滅亡とエジプト・シリアからの東ローマ帝国の撤退により、古代オリエントの世界は崩壊し、かわって新しい理念によって統合されたイスラーム世界が誕生したのである。

■正統カリフ

アブー・バクルからアリーにいたるまでの4人のカリフは「正統カリフ」と呼ばれる。 しかし、征服活動の進展によってカリフ権が強大になると、その継承権をめぐって共同体の内部には深刻な分裂が発生した。第3代カリフのウスマーンは不満分子によって殺され、第4代カリフのアリーも過激派の手で暗殺された。シリア総督であったウマイヤ家のムアーウィヤは、シリアのダマスクスにウマイヤ朝を開くことによって、この政治的混乱をようやく収拾することができた。
  1. アブー・バクル(632年 - 634年)
  2. ウマル(634年 - 644年)
  3. ウスマーン(644年 - 656年)
  4. アリー(656年 - 661年)
正統カリフ - 世界の歴史まっぷ

ウマイヤ朝

アリー(正統カリフ)暗殺後、アリーの政敵であるウマイヤ家のムアーウィヤがカリフに就任してシリアのダマスクスに開いた政権。ウマイヤ家によるイスラム史上最初の世襲イスラム王朝。アラブ帝国とも。 8世紀初めになるとウマイヤ朝は政治的にも安定し、その領土をさらに拡大した。 東方では、アム川以東のソグディアナやインド(西北インド)の征服が行われ、これらの地域にイスラームが浸透する端緒がつくられた。 西方では、先住民であるベルベル人の抵抗を排して北アフリカを西進し、711年までにはイベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼした。このときからグラナダ陥落(1492年)まで、イベリア半島には800年近くにわたってイスラーム政権が存続する中で、高度な芸術・哲学・科学・医学・商業・建築などが生み出されることになる。 イラクのバスラやクーファ、エジプトのフスタート、北アフリカのカイラワーンなどが新しく建設された軍営都市であった。 商人たちはこれらの新都市や既存の都市(ダマスクスやアレクサンドリアなど)を結ぶ緊密なネットワークをつくりあげ、「イスラームの平和」のもとに広大な経済圏が形成された。 7世紀末から「コーラン」の文句を刻んだアラブ貨幣(ディーナール金貨とディルハム銀貨)の発行が始まったのは、このような経済活動の進展に対応するための施策であった。 しかしウマイヤ朝時代には、支配者集団であるアラブ人ムスリムは多くの特権を享受し、土地所有者となっても、規定どおり十分の一税(ウシュル)を支払うものは稀であった。一方、国家財政の基礎である地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民だけに課せられ、たとえ彼らがイスラームに改宗しても免除されることはなかった。帝国内のキリスト教徒やユダヤ教徒は、ズィンミー(被護民)として人頭税の支払いを条件に信仰の自由を認められたが、この時代時はまだ身分的に不平等な状態に置かれていた。 ウマイヤ朝 - 世界の歴史まっぷ

■シーア派とスンナ派

ウマイヤ朝の成立後、アリーとその子孫に共同体を指導する権利があると主張する人々は、シーア派(分派)を結成した。これに対して預言者の言行(スンナ)に従って生活することを重視する多数派のイスラーム教徒は、スンナ派と呼ばれる。 スンナ派の4法学派とシーア派はそれぞれ独自の法体系を持ち、イスラーム教徒はみずからの属する法学派の法によって裁判を受けることができた。

アッバース朝

■サッファーフ (750 - 754)

「コーラン」には信者の平等が説かれている。そのため征服地の農民たちは、イスラームに改宗すれば、アラブ人と同等の権利を享受できるはずだと考えた。これらの新改宗者をマワーリーという。しかし国家財政の基礎は農民たちが支払う地租にあったから、マワーリーの納税面での平等は容易に実現せず、アラブ人の中にもウマイヤ朝の強権政治を批判するものが現れた。 このころアラブ人ムスリムの間には、ムハンマド家の出身者こそがイスラーム共同体の指導者にふさわしいとする考えが広まりつつあった。この一員に属するアッバース家は、この思想をたくみに利用し、マワーリーやシーア派ムスリムの協力も得てウマイヤ朝打倒の秘密運動を展開した。 イラン東部のホラーサーン地方で蜂起した革命軍は、ウマイヤ朝の軍隊を追って西方に進出し、749年にはイラクの 州都であるクーファに入城、翌年サッファーフ(アブー・アル=アッバース)を初代カリフに推戴した。イスラム帝国としてのアッバース朝の成立である。
イスラム王朝 イスラム王朝まとめ
イスラム帝国の領域

■マンスール (754 - 775)

しかしウマイヤ朝を打倒したアッバース朝も、安定した政権維持のためには、やはり多数派であるスンナ派の宗旨を採用せざるをえなかった。革命運動に協力したシーア派の期待は裏切られ、弾圧によって数多くのシーア派ムスリムの命が奪われた。アッバース朝国家の基礎をきずいたのは、第2代カリフのマンスールである。 マンスールは王朝建設に功績のあったホラーサーン軍(イランのホラーサーン地方に定着したアラブ軍人の子孫を中心に編制された軍隊。)を重用し、カリフ権力の第一の支えとした。また租税庁や文書庁などの官庁を設けてイラン人の書紀を採用し、さらに諸官庁を統括する宰相(ワズィール)の職を創設して官僚機構の整備に努めた。さらに主要な街道に駅馬を配して駅伝の制度を整えたことは、地方の実情把握に効果を発揮し、これによって中央集権的な体制づくりが着実に進行した。 またマンスールは、新王朝にふさわしい首都の造営にも力を注いだ。みずから入念な調査を行なったのちに、ティグリス川西岸の小村バグダードを首都建設後に定めた。新首都は766年に完成し、「平安の都」(マディーナ・アッサラーム)と名付けられた。三重の城壁に囲まれた円城の内部には、カリフの宮殿やモスクがそびえ立ち、商人や職人は城壁の外側に住むことを義務付けられた。バグダードは東西貿易路の結節点にあり、しかも肥沃なイラク平野の中心に位置していたから、建設後のバグダードは、短期間のうちに目覚ましい発展ぶりを示した。市街地はティグリス川の両岸に拡大し、各地の市場(スーク)はイスラーム世界の特産物の他に、中国の絹織物・陶磁器、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金や奴隷などで満ちあふれた。経済の発展につれて、バグダードには文人・学者・技術者などが数多く来住し、人口100万を擁するこの国際都市を中心にして、やがてイスラームの高度な都市文明が開花する。 アッバース朝時代には、イラン人が要職に抜擢され、ムスリムの平等を旨とするイスラーム法が制定されたことによって、アラブ人の特権はしだいに失われた。イスラーム教徒に改宗すれば、非アラブ人でも人頭税が課せられることはなくなり、またたとえアラブ人であっても、耕作に従事する場合には地租が課せられるようになったのである。この課税方法は、のちのイスラーム諸王朝においても等しく適用される原則となった。公用語はいぜんとしてアラビア語であり、著作活動もすべてアラビア語によっておこなわれた。 しかし周辺の地域からイラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人などを積極的に受け入れ、各民族の特徴をいかしてこれらの人材を活用したことがイスラーム社会の特徴である。カリフの政治はイスラーム法に基づいて行われたが、法の解釈に当たるウラマー(知識人)もまた、様々な民族の出身者によって構成されるようになっていったのである。

■ザンジュの乱 (869)

アッバース朝時代になると、カリフ・官僚・商人などによる私領地(ダイア)経営がさかんとなり、とくに南イラクではアフリカ出身の黒人奴隷(サンジュ)を用いて土地の改良事業がおこなわれた。劣悪な生活条件に苦しむザンジュは、869年にアラブ人の野心家に扇動されて大規模な反乱を起こし、10年余りにわたって南イラク一帯を支配した。この反乱によってカリフの権威は地に落ち、アッバース朝の国家体制は大きく揺らいだ。 アッバース朝 - 世界の歴史まっぷ

■ムスリム商人

ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図
ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図 ©世界の歴史まっぷ
イスラーム世界では、イスラーム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒などの商人が活躍したが、中心はやはりイスラーム教徒(ムスリム)の商人であった。アッバース朝の成立前後から、アラブ人やイラン人などのムスリム商人は、アフリカ・インド・東南アジア・中国へと進出して、これらの地にイスラーム文化を伝えると同時に、金・奴隷・香辛料・香料・陶磁器・絹織物などの奢侈品をイスラーム世界にもたらした。多品目の商品を扱うこれらの大商人に対して、都市の市場商人は単品の品物を扱う小商人であり、職人とともに都市社会の中間層を形成した。

■イスラーム帝国の分裂

10世紀後半のイスラーム世界地図
10世紀後半のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ
建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互にリンクする大交易路が成立した。 東西貿易の発展と灌漑農業の拡大によって、ハールーン・アッ=ラシード(786〜809)の時代に黄金時代が訪れた。 9〜10世紀のバグダードは、「世界に並ぶもののない都市」としてその繁栄を謳歌することができた。 しかしラシードが没すると、間も無くイランのホラーサーン地方でターヒル朝(821〜873)が独立を宣言し、ついで鍛冶職人(サッファール)から身を起こしたヤークープは、同じくイラン東部にサッファール朝(867〜903)を樹立した。また、アム川以東の中央アジアでは、イラン系の土着貴族がサーマーン朝(875〜999)を建国し、サッファール朝を破ってホラーサーンの全域を支配した。 このような独立王朝の出現によって、カリフの権威がおよぶ範囲はしだいに縮小したが、エジプトでもトルコ人総督が、バグダードへの納税を拒否してトゥールーン朝(868〜905)の独立を達成した。さらにチュニジアにおこったファーティマ朝(909〜1171)は、969年にエジプトを征服し、フスタートの北側に首都カイロを建設した。ファーティマ朝前半期のエジプトは、紅海貿易の利を集めて繁栄したが、後半期はカリフの失策と十字軍の侵攻に苦しめられた。ファーティマ朝はシーア派のなかでもとくに過激なイスマーイール派に属し、建国の初めからカリフの称号を用いてアッバース朝カリフの権威を正面から否定する政策をとった。 地方王朝の独立に加えて、後ウマイヤ朝とファーティマ朝の君主がカリフを称したことにより、イスラーム世界の分裂は決定的となった。アッバース朝カリフの権威は著しく低下し、10世紀に入るとカリフの支配領域はイラク1州だけに縮小した。カリフ権力の低下をもたらした要因は、独立王朝の出現ばかりでなく、トルコ人奴隷兵(マルムーク)の採用にも求められる。 9世紀以降、アッバース朝のカリフはホラーサーン軍とその子どもたちに変えて忠誠心の厚いマムルークを購入し、強力な親衛隊を組織した。しかしトルコ人マルムークは、やがてその勢力を拡大すると、カリフの改廃をも自由に行うようになったのである。 イラン人の軍事政権であるブワイフ朝(932〜1062)は、このような混乱に乗じてバグダードに入城し(946)、カリフからイスラーム法執行の権限を与えられた。ブワイフ朝は穏健なシーア派を奉ずる王朝であったが、この王朝の君主は、カリフから支配の正統性を授与される見返りに、スンナ派のカリフを保護するという相互依存の関係をとり結んだ。この時以降、10世紀半ばから11世紀にかけて、イスラーム世界は政治制度や社会組織など様々な面で、新しい変革の時代を迎えることになる。

■マルムーク

マルムークとは「奴隷」を意味するアラビア語である。しかしイスラーム史の中では、はじめ奴隷として購入され、コーランやイスラーム法を学び、軍事訓練をうけたのちに、奴隷身分から解放されて高官にのぼったエリート軍人を指す。 これらのマムルークには、トルコ人をはじめとして、スラヴ人、クルド人、モンゴル人、チェルケス(サーカシア)人、グルジア人、アルメニア人、ギリシア人などが含まれる。 9世紀以降、彼らはイスラーム諸王朝の軍隊の中核を形成し、13世紀半ばには、エジプト、シリアにマムルーク朝を建設した。オスマン帝国のイェニチェリもマムルークと同じ種類の軍事集団である。

■バグダードの戦い

1258年にチンギス=ハンの孫にあたるフレグ率いるモンゴル帝国と当時世界で最も栄華を誇っていたと言われるイスラム帝国アッバース朝との間に起こった包囲戦である。 モンゴル軍によって攻略されたバグダードは徹底的に破壊され、市内に存在していた知恵の館や数々の図書館に収蔵されていた何十万冊もの大量の学術書はモンゴル軍によって燃やされるか、または、川に捨てられた。これによってメソポタミア文明ならびにイスラム文明が築いた多くの文化遺産が地上から消失した。ムハンマドによるイスラム開教(610年)から連綿と続いていた「カリフ」の系統も殺されて途絶え、市民は皆殺しにされ、その後数世紀間にわたって当地は無人の廃墟となった。 これによってアッバース朝は滅亡し、600年にわたって続いたカリフ制度も一旦消滅した。 フレグはイランとイラクを領有し、イルハン朝を樹立した。

東方イスラーム世界

セルジューク朝

中央アジアで遊牧生活を送っていたトルコ人は、10世紀に入ると、人口増加の圧力をうけて西方への移住を開始した。彼らはアラル海付近に定着し、やがてイスラームの商品人や神秘主義者との接触をつうじてイスラームに改宗した。 トゥグリル=ベクに率いられたセルジューク族も、このようなイスラーム化したトルコ人の集団であった。 セルジューク朝を興したトゥグリル=ベク(1038から1063)は、1055年、ブワイフ朝の勢力を駆逐してバグダードに入城し、アッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号を授けられた。 これ以降スルタンは、スンナ派イスラーム国家の君主の称号として広く用いられることになる。 セルジューク朝は、同族のトルコ人マムルークを採用して軍事を整え、イランからイラク・シリアにおよぶ広大な領域を支配下におさめた。またイラン人の宰相ニザームルムルクは、ファーティマ朝によるシーア派の宣伝活動に対抗して、領内の主要都市につぎつぎとニザーミーヤ学院を建設した。これらの学院ではスンナ派の神と教育をおこなうイスラーム世界の最高学府であった。 十字軍がおこるきっかけは、セルジューク朝がシリアに進出し、エルサレムを支配下においてキリスト教徒の巡礼を妨害したことにあるとされている。しかし事実は、セルジューク朝のシリア進出によって国境を侵害された東ローマ帝国が、ヨーロッパのキリスト教国にイスラームの脅威を訴え、救援を求めたことが原因であった。 しかし強盛を誇ったセルジューク朝も、マリク・シャー1世(スルタン)の没後は次第に衰え、12世紀の半ば過ぎになると、王朝は各地の地方政権に分裂した。 アッバース朝カリフを保護下においたイラクのセルジューク朝も、アラル海付近におこったホラズム・シャー朝によって1194年に滅ぼされた。 セルジューク朝 - 世界の歴史まっぷ

カラハン朝

一方、同じトルコ人のカラハン朝(10世紀半ば〜12世紀半ば)は、東、西トルキスタンを統一して、中央アジアに初めてイスラームの思想と文化を導入した。 カラハン朝 - 世界の歴史まっぷ

ガズナ朝

11世紀後半のイスラーム世界地図
11世紀後半のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ
またアフガニスタンに興ったガズナ朝(962〜1186)は、11世紀初めころから北インドへの侵入を開始し、ガズナ朝第3代君主マフムード(ガズナ朝)(998〜1030)は、インド中西部のソムナートまで遠征して、「イスラームの擁護者」の名声を獲得した。 ガズナ朝 - 世界の歴史まっぷ

ファーティマ朝

ファーティマ朝 - 世界の歴史まっぷ

アイユーブ朝

シリアのザンギー朝(1127から1222)からエジプトに派遣されたクルド人の将軍サラディンは、ファーティマ朝の宰相となって実権を握り、アイユーブ朝(1169〜1250)を開いた。 サラディンはアッバース朝カリフの宗主権を承認し、スンナ派の信仰を復活してイスラーム世界の統一をはかった。また、エジプトにイクター制を導入して軍政を整えたサラディンは、対十字軍戦争を積極的に推し進め、1187年にはティベリアス湖西方のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、約90年ぶりに聖地エルサレムを奪回した。 これに対しイギリスのリチャード1世(イングランド王)(1189〜1199)は、聖地の再征服をめざして第3回十字軍をおこしたが成功せず、サラディンと和して帰国した。

■イクター制

イクターとは、国家から授与された分与地、あるいはそれからの徴税権を意味する。イクター制はブワイフ朝時代のイラクに始まり、セルジューク朝のとき西アジア各地に広まった。 イルハン朝、デリー・スルターン朝、ティムール朝、オスマン帝国、サファヴィー朝でも、本質的にこれと同じ制度が行われた。 アイユーブ朝 - 世界の歴史まっぷ

マムルーク朝

アイユーブ朝のサーリフ(スルタン)は、トルコ人奴隷兵を数多く購入してマムルーク軍団を組織したが、やがてその勢力は強大となり、1250年アイユーブ朝を倒してエジプト・シリアにマムルーク朝を建国した。 しかし、シリアにはまだアイユーブ家の勢力が残存し、またエジプトではアラブ遊牧民が異民族の政権に対して大規模な反乱を起こしたから、成立当初のマムルーク政権は不安定な状態にあった。 第5代スルタンに就任したバイバルス(1260〜1277)は、シリアに侵入したモンゴル軍を撃退するとともに、アッバース朝カリフの後裔こうえいを新しいカリフとしてカイロに擁立し、さらにメッカ、メディナの両性都を保護下に入れることによって、マムルーク朝国家の基礎を確立した。 マムルーク朝の最盛期は、ナースィル・ムハンマド(スルタン)の時代に訪れた。 イクター制の再編成によってマムルーク体制を整えたスルタンは、運河の開削・整備によって農業生産の向上をはかるとともに、インド洋と地中海を結ぶ商業路を支配下において東西貿易の利益を独占した。首都カイロにはモスクや学院が次々と建設され、モンゴル軍によって破壊されたバグダードにかわって、カイロがイスラーム文化活動の新しい中心となった。 しかし15世紀半ば以降になると、度重なるペストの流行とスルタン位をめぐるマムルーク軍閥の抗争によってマムルーク朝はしだいに衰えた。
13世紀末のイスラーム世界地図
13世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ
マムルーク朝 - 世界の歴史まっぷ

西方イスラーム世界

ムラービト朝

11世紀後半のイスラーム世界地図
11世紀後半のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ
11世紀半ばころ、西サハラにすむベルベル人の修道士(ムラービト murabit) たちは、熱心なイスラーム宗教運動をおこし、北アフリカにムラービト朝(1056〜1147)を建国した。 彼らはジハード(聖戦)を唱えて南下し、1076年ガーナ王国を滅ぼすと、スーダンのイスラーム化を積極的に推し進めた。首都マラケシュを建設したムラービト朝は、イベリア半島にも進出し、そこから先進的なイスラームの建築技術や学問を北アフリカにもたらした。 王朝はアッバース朝カリフの権威を承認し、スンナ派信仰によって国内の統一をはかったが、建国当初の宗教的情熱が冷めるに連れて国力は衰退した。

ムワッヒド朝

つづいてモロッコにおこったムワッヒド朝(1130から1269)は、ムラービト朝を倒すとマラケシュに首都を定め、さらにイベリア半島南部を支配下におさめた。 経済の基礎は貿易路の支配にあったが、皮革をはじめとする手工業の発達も著しく、哲学・医学・文学などイスラーム文化が大いに栄えた。 イブン・ルシュド(アヴェロエス)(1126〜1198)が、哲学者・医学者としてかつやくしたのもこの王朝である。 しかし、このころイベリア半島ではキリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が高まり、ムワッヒド朝はナバス・デ・トロサの戦い(1212)で手痛い敗北を喫した。 ムワッヒド朝 - 世界の歴史まっぷ

ナスル朝

13世紀末のイスラーム世界地図
13世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ
ムワッヒド朝の敗退後、イベリア半島では、最後のイスラーム王朝となったナスル朝(1230〜1492)が、わずかにグラナダとその周辺地域を保っていた。しかし1479年、アラゴンとカスティーリャの統合によってスペイン王国が成立すると、イスラーム教徒に対するレコンキスタの圧力はさらに強まった。そして1492年にスペイン王国がグラナダに入城し、イスラーム教徒の多くは北アフリカに引き揚げた。これによって、800年余にわたって続いたイベリア半島のイスラーム時代は終わりを告げた。 彼らが残したアルハンブラ宮殿は、華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様によって、イベリア半島における末期イスラーム文化の美しさを今に伝えている。
イスラム王朝 イスラム王朝まとめ
アルハンブラ宮殿 Source: Wikipedia
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■イクター制の成立と展開

アッバース朝カリフの権力が安定し、官僚性が整っている間は、軍隊と官僚に現金俸給を行なうアター体制を維持することができた。しかし9世紀半ば以後、マムルーク軍人の勢力が台頭し、地方に独立の王朝が樹立されると、カリフ権力は衰え、王朝が支配できる地域はイラク地方だけに限られた。このため国庫収入は次第に減少し、ブワイフ朝がバグダードに入城し立ときには、国庫は極度に欠乏した状態にあった。 これをみたブワイフ朝のムイッズ・ウッダウラは、配下の騎士に分与地(イクター)を指定し、彼らに徴税の権限をゆだねる政策をとった。これをイクター制という。イクター保有者(ムクター)となった騎士たちは、代理人を派遣して取り分の徴収をおこない、戦時にはその収入を用いて装備を整えることが義務付けられた。現金俸給を支払うアター体制からイクター制への転換は、イスラーム国家や社会にさまざまな変革をもたらすことになった。 新体制のもとでは、騎士たちはイクター保有の見返りに君主に対して軍事奉仕の義務を負い、農民や地方の都市民は、従来の徴税官にかわって、イクター保有者による直接支配を受けるようになったからである。 ブワイフ朝時代のイラクでは、農村の実情を無視して不正な徴税がおこなわれたために、農民の疲弊は著しかった。しかしセルジューク朝になると、イクター制が施行される範囲はイラクからイラン・シリアへと拡大し、また政府によるイクター保有者の監督も厳格におこなわれるようになった。宰相ニザームルムルクは、『統治の書』のなかで、2〜3年ごとにイクターを変更し、必要があれば、中央から調査官を派遣すべきであると述べている。これは、イクター保有者による不正を未然に防止し、彼らが地方に独立するのを防ぐことが目的であった。 セルジューク朝のイクター制は、サラディンによってエジプトに導入された。アイユーブ朝時代のイクター保有者は、ブワイフ朝やセルジューク朝の場合と同様に、一族や郎党を代理人として現地に派遣し、取り分の徴収を行なった。十字軍との戦闘に参加したのは、このようなイクター収入によって装備を整えたクルド人やトルコ人の騎士たちだったのである。 マムルーク朝もアイユーブ朝のイクター制をそのまま継承した。しかしこの時代には、マムルーク騎士の位に応じてイクターの規模と軍事奉仕の義務が厳密に定められるようになった。マムルークたちはイクター内の運河や水路を整備し、主食となる小麦のほかに、イランからイラクをへてエジプトに導入された砂糖キビ栽培を熱心に奨励した。 カイロの近郊でみずから製糖工場を営むイクター保有者も少なくなく、エジプトの砂糖(スッカル)は、ヨーロッパむけのもっとも重要な輸出商品に数えられるようになった。砂糖を意味する英語のシュガーが、アラビア語のスッカルに由来しているのはそのためである。

インドのイスラーム化

ゴール朝

8世紀の初め、ウマイヤ朝のアラブ軍が海陸の両路からインダス川下流域に侵入したが、ムスリムはその後3世紀間インド内部に進出することはなかった。インド史上に大きな影響をおよぼすようになったのは、アフガニスタンにトルコ系のガズナ朝(962〜1186)とイラン系を称するゴール朝(1148〜1215)が相ついでおこってからである。 これら両王朝は10世紀末からインド侵入をくりかえし、分裂抗争していたラジプート諸王国を撃破した。 マフムード(ガズナ朝)、シハーブッディーン・ムハンマド(ゴール朝)の遠征はとくに名高い。彼らの侵入ははじめ略奪を目的としたものであり、財宝や奴隷を手に入れるとアフガン台地に引き揚げていたが、やがてインド内部にとどまり、土地と人民を永続的に支配するようになった。 ガズナ朝 - 世界の歴史まっぷ ゴール朝 - 世界の歴史まっぷ

デリー・スルターン朝

モンゴル帝国の最大領域地図
モンゴル帝国の最大領域地図 ©世界の歴史まっぷ
1206年に、奴隷出身の部将クトゥブッディーン・アイバクが、主君であるゴール朝のムハンマドの暗殺事件に乗じて同王朝のインド領を奪い、デリーを都とするインド最初のイスラーム王朝を創始した。後継者にも奴隷出身者が多かったため、この王朝は奴隷王朝(1206〜1290)と呼ばれる。 その後の320年間に、インドのデリーにはハルジー朝・トゥグルク朝・サイイド朝・ロディー朝と、ムスリム王朝が交替した。奴隷王朝の時代にアッバース朝のカリフからスルタンの称号を得たため、これら5王朝はデリー・スルターン朝と称される。ロディー朝がアフガン系であるほかは、いずれもトルコ系の王朝である。 デリーのスルタンたちによる征服事業は着実に進められた。そして14世紀前半、ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジー(1296〜1316)からトゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルク(1325〜1351)にいたる時代に、南インドのほとんどを支配下におさめた。しかし14世紀中ごろからデリーの政権は弱体化し、インド各地でヒンドゥー教あるいはイスラームを奉ずる地方政権が独立した。 1398年のティムールによる北インド侵寇とその後の混乱でトゥグルク朝が倒れると、サイイド朝・ロディー朝がそのあとを継いだが、いずれも短命で、デリーの政権はかつての隆盛を取り戻すことはできなかった。 デリー・スルターン朝 - 世界の歴史まっぷ

バフマニー朝

デリー政権が弱体化した14世紀半ばに、デカンではトゥグルク朝の武将が独立してバフマニー朝(1347〜1527)を創始した。

デカン・スルターン朝

この王朝の分裂後、15世紀末から16世紀初めにかけて、デカン高原はアフマドナガル王国、ベラール王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国、ビーダル王国の5王国によって分割された。総称してデカン・スルターン朝もしくはムスリム5王国と呼ばれる。 これらはいずれもムスリム政権であるが、その南に1336年におこったヴィジャヤナガル王国は、ヒンドゥー教を奉じ、隣接するムスリム諸国に対抗しつつインド古来の伝統を守った。(1649年滅亡)
経済の面から見ると、この時代には都市の経済活動が前代に比べはるかに活発となった。デリーの諸王朝は大量の貨幣を発行したことでも知られる。開城貿易ではムスリム商人の活躍が目立った。彼らはインド沿岸の港を中継基地とし、西アジアと東南アジア、中国とを結ぶ開城の道を往来した。大旅行家のイブン・バットゥータがインドを訪れその繁栄の模様を記したのはトゥグルク朝の時代である。南インドでヒンドゥー教の伝統を守ったヴィジャヤナガル王国もまた、良港に恵まれ海上貿易で栄えた。その繁栄は、この時代の末期にインドに来航したポルトガル人を驚かせる程であった。 宗教の面では、外来のムスリム支配者たちが旧来のインド社会を崩さずその上に君臨するという現実的政策を採用したため、改宗者の数は同じくムスリムに征服された諸国と比べ少なかった。しかし、西方のイスラーム世界からドームとアーチという建築様式が持ち込まれ、モスク・宮殿・墓廟が多数たてられるなど、文化史上に新たな展開が持たされた。

イスラーム教とヒンドゥー教

イスラーム教は偶像崇拝を禁ずる一神教であり、多数の神々の偶像を崇拝するヒンドゥー教とは性格を大いに異にしていた。 また、ヒンドゥー教が牛を神聖視してその肉を食べないのに対し、イスラーム教徒は豚を不浄視してその肉を食べない。さらに霊魂の輪廻転生を信ずるヒンドゥー教が遺体を火葬にして灰を川に流すのに対し、復活を信ずるムスリムはキリスト教徒などと同じ土葬である。 初期のムスリム侵入者たちは、ジハード(聖戦)を唱えてヒンドゥー教寺院を破壊したり改宗を強要したりしたため、社会の混乱は大きかった。しかし彼らは、永続的なインド支配を目指すようになるとしだいに態度を和らげ、インド社会に適応するようになった。 例えば、征服地はムスリムの貴族や部将に封与されたが(イクター制)、地方行政や徴税は旧来の機構や有力者に任せるという現実的政策が採用されたのである。したがって、カースト制度に基礎をおく村落社会と、そこで信仰されていたヒンドゥー教はそのまま存続することになった。ヒンドゥー教徒はジズヤをおさめることによって旧来の信仰を認められたのである。しかし、旧支配層の中には、保身のためイスラームに改宗したものもあり、また下層民の間ではアッラーの前に人間は平等であると説くイスラーム教に接して改宗するものも出た。前者の改宗は一般に個人的になされたのに対し、後者の改宗はカースト仲間の集団改宗というかたちをとった。 こうしたイスラーム教の浸透にあたり大きな役割を果たしたのはスーフィーと呼ばれるイスラーム神秘主義者たちであった。神との直接的接触を求める神秘主義には、ヒンドゥー教のバクティ信仰と共通するものがあり、スーフィー行者の修行生活は、ヒンドゥー教の行者の生活とよく似ていた。こうしたことが、スーフィーたちによる民間での布教を容易にしたのである。 しかしインド亜大陸全体の人口の割合からいえば、改宗者は少数派であった。ムスリムのインド支配は数世紀におよぶが、多くの改宗者をだしたのはヒンドゥー教世界の中では辺境にあたるインダス川流域と東部ベンガルであった。インドにはムスリムの到来以前にもギリシア人や中央アジア系民族によって異文化が持ち込まれたが、それらは数世代たつうちにインド文明に同化、吸収されてしまった。これに対しイスラームは、インドの大地で今日にいたるまで独自性を維持し続けてきたのである。

東南アジア諸島部のイスラーム化

この時代にベトナムを除く東南アジア大陸部の諸国では、上座部仏教じょうざぶぶっきょうが民衆の間に深く浸透しつつあった。これに対し諸島部(島嶼部)では、15世紀ころから旧来のヒンドゥー教・仏教がイスラーム教にとってかわられていく。イスラーム教徒であるアラビア人やペルシア人は、早くよりインドの沿岸をまわって東南アジア海域に来航し、香辛料貿易や対中国貿易を営んでいた。インドにイスラーム政権が成立すると、イスラーム教徒であるインド人の活躍も目立つようになり、彼らが居留する東南アジアの諸港では、土着の商人や有力者の間にイスラームに改宗するものも出るようになった。

マラッカ王国

15世紀初め、海上交通の要衝マラッカにマレー人のイスラーム王国がおこり、スマトラ島の一部も領土に加えて、中継貿易で栄えた。このマラッカ王国の発展とともにイスラーム教はマレー半島からジャワ島など周辺の島々へと広まった。しかし王国は1511年にポルトガルの艦隊に攻められ滅んだ。 ジャワ島では15世紀末にヒンドゥー王国マジャパヒトが衰退したあと急速にイスラーム教が広まり、16世紀の間にほぼ全島のイスラーム化が完成している。また同じ15〜16世紀ころ、ボルネオ・セレベスおよびフィリピン南部のスルー諸島やミンダナオ島などにもイスラーム教が伝わり、スルタンの支配する国家もたてられている。

マタラム王国・バンテン王国・アチェ王国

この地に成立したイスラーム王国としては、ジャワ島南部のマタラム王国(16世紀末から1755)、ジャワ島西部のバンテン王国(1526ころ〜1813)、スマトラ島北端のアチェ王国(15世紀末〜1912)などが有力で、ヨーロッパ、アジア諸国の商船を迎え、コショウなどの香辛料貿易で栄えた。しかし、これらの王国は、17世紀以後この地に進出してきたオランダにしだいに力を奪われることになる。
東南アジア諸島部におけるイスラーム教の伝播に際し、スーフィーやウラマー(イスラーム学者)が大きな役割を果たしている。この地域のイスラーム教徒の信仰生活の基本は西アジアの同教徒のものと共通しており、アラビア語とアラビア文字も用いられた。しかし、ジャワ島において日常の宗教儀礼にヒンドゥー教の名残(祖霊信仰、供物奉献)が認められたり、アニミズム的精霊信仰がおこなわれるなど、それぞれの地域の特色もみられる。木造モスクの建築様式も東南アジアに独自のものであり、またジャワ島のワヤン(影絵人形劇)など芸術の分野でもヒンドゥー時代の伝統が受け継がれている。なお、今日の東南アジア総人口に占めるイスラーム教徒の割合は40%であり、仏教徒・キリスト教徒の数を遥かに上回っている。またインドネシアは世界で最も多くのイスラーム教徒人口をもつ国である。

アフリカのイスラーム化

アフリカの内陸部は、北部の砂漠地帯とニジェール川やザンベジ川など大河流域の熱帯雨林を除いて、大半はサバンナ気候帯に属する。

クシュ王国

ナイル川上流のスーダンには、紀元前10世紀ころにクシュ王国(紀元前920〜350)が成立し、紀元前8世紀には一時エジプトを支配するほどの勢いを示したが、アッシリアの侵入(紀元前667)によってナイル川上流域に後退した。これ以降メロエに都をおいた時代(紀元前670頃〜350頃)に、王朝は鉄器の製造とエジプトとの通商によって栄え、メロエ文字(未解読)を用いた。しかし4世紀になると、エチオピアに興ったアクスム王国(紀元前後〜9世紀)に滅ぼされた。 西アフリカのガーナ王国(7世紀頃〜1150)は、金を豊富に産することで知られていた。ムスリム商人は、サハラ砂漠の塩床から切り出した岩塩をもってガーナにいたり、これを金と交換してイスラーム世界にもたらした。この交易によって王国は繁栄を続けたが、1076/1077年、モロッコのムラービト朝の攻撃を受けて衰退した。

マリ王国

ムラービト朝の侵入以後、西アフリカではイスラーム化が進行し、つづいておこったマリ王国(1240〜1473)はイスラーム教を受容した。王国は14世紀初めに最盛期を迎える。国王マンサ・ムーサは、メッカ巡礼に際して大量の金を奉納し、「黄金の帝国マリ」の名を広めた。

ソンガイ王国

15世紀後半、マリ王国を倒して建国したソンガイ王国(1464〜1591)は、ガオに都を定め、西アフリカの隊商都市の大部分を支配し、北アフリカとの交易によって栄えた。 国王アスキア・ムハンマド1世(1493〜1528)はイスラーム教を熱心に保護し、彼の統治下で交易都市トンブクトゥは内陸アフリカにおけるイスラーム文化の中心地として繁栄した。 モガディシュ以北のアフリカ東岸の海港では、古くからアラビア半島やイランとの海上貿易がさかんであった。10世紀後半になると、その南のマリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワなどの海港都市にはムスリム商人が来住し、東南アジアの香辛料、アフリカの奴隷、中国の陶磁器、インドの綿布などの取引によって繁栄した。 その結果、この海岸地帯では、アラビア語の影響を受けたスワヒリ語が共通語として広く用いられるようになった。 また、さらに南方のザンベジ川南部でも、11世紀ころからジンバブエを中心にモノモタパ国がおこり、豊かな鉱物資源とインド洋貿易によって栄えた。王国は15世紀ころに最盛期を迎え、ジンバブエから出土するインド産のガラス玉や中国の陶磁器はその繁栄ぶりをよく物語っている。

参考

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