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イェニチェリ
鉄砲で武装したイェニチェリ。軽装で甲冑などは身につけず、腰にはヤタガンと呼ばれる刀を帯びている。(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
イェニチェリ yeniceri (15世紀〜1826年) オスマン帝国の歩兵常備軍。トルコ語で「新しい兵士」の意。主にバルカン半島のキリスト教徒の少年を徴集するデヴシルメ制により、入念な訓練をうけたスルタン直属の精鋭軍に発展した。征服活動の中心としてヨーロッパの脅威となったが、その与えられた特権から次第に軍規が乱れ、近代化政策のなかで1826年に全廃した。

イェニチェリ

オスマン帝国の歩兵常備軍。トルコ語で「新しい兵士」の意。主にバルカン半島のキリスト教徒の少年を徴集するデヴシルメ制により、入念な訓練をうけたスルタン直属の精鋭軍に発展した。征服活動の中心としてヨーロッパの脅威となったが、その与えられた特権から次第に軍規が乱れ、近代化政策のなかで1826年に解散させられた。

参考 世界史用語集

アジア諸地域の繁栄

トルコ世界とイラン世界

オスマン帝国の拡大
こうしてオスマン帝国は、領内に多様な民族・言語・宗教をもつ住民を抱えることとなった。その統治体制は、イスラームを支配の原理にすえ、一方で多様な民族の共存をはかりながら、これを中央集権的機構によって統治した。中央では、スルタンは政治・外交・軍事の全権を大宰相(サドラザム)にゆだね、大宰相の主宰する御前会議によって国事がはかられ、書記官僚によって全国に法令(カーヌーン)や命令が伝達された。軍の中核は、スルタン直属の奴隷軍団(カプクル)で、なかでもイェニチェリと呼ばれる歩兵軍団は、忠実かつ強力な軍団として知られていた。地方では、ティマールと呼ばれる軍事封土を授与し、戦時には一定数の従士を率いて出征することを義務づけ、最小の封土保有者がシパーヒーと呼ばれる騎士であった。 地方は、30余の州(エヤーレト)に分けて総督(ベイレルベイ)を任命し、ティマール制を施行する直轄領(バルカン・アナトリア・シリア)とそれ以外の納税だけを義務づけられた間接統治領の2種類があった。前者では、綿密な検知にもとづき、軍人に封土を授与し、農民はもとより職人・商人・遊牧民から徴税がおこなわれた。各州は、さらに県・郡に分けられ、末端の郡はカーディー(裁判官)が行政の責任を負った。大宰相を頂点とする高官や軍事の支柱たるイェニチェリを供給するため、デヴシルメ制がとられた。他方、裁判をはじめとする法行政は、ウラマーにゆだね、各郡にはカーディーが任命され、シャリーア(イスラーム法)にもとづいて裁判をおこなった。首都イスタンブルのシャイフ・アルイスラーム(イスラームの長老)は、ウラマーの代表として、スルタンを含め為政者がイスラーム法から逸脱した行為をおこなうとこれを規制する権限をもった。

アジア諸地域の動揺

オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ

オスマン帝国支配の動揺
オスマン帝国の弱体化の原因は、繁栄を支えた中央集権体制の緩みにあった。第1には、スルタンが、遠征をはじめ軍務・政務に直接たずさわらなくなりハレム の皇后や宦官が国政に介入し、大宰相をはじめとする官僚の間には、賄賂・コネ・奢侈しゃしなどの悪弊が横行した。このような状態は「魚は頭から腐る」というトルコの諺によく示されている。第2は、火器の需要がますます高まり、イェニチェリ yeniceri (歩兵軍団員)の数は16世紀の1万から4万に増大し、逆に地方のシパーヒー sipahi (騎士)は度重なる遠征の負担に耐えきれずティマール timar (封土)を手放すものが増え、ティマール制の機能は低下した。第3に、このことは軍事制度の問題にとどまらず、財政を圧迫し、地方の行政・財務機構の変化をもたらした。政府はティマール制にかわり、税の徴収を請負制(イルティザーム iltizam) にきりかえることによって、財政の改善をはかった。徴税請負人は農民や遊牧民に対ししばしば過酷な徴税をおこない、徴税権の終身請負や世襲によって、富を蓄積した。さらにチフトリキと呼ばれる大土地を所有し、小作人や農業労働者を用いて市場向けの商品作物の栽培・経営をおこなうものも現れた。18世紀には、バルカン・アナトリア・シリアの各地に、このようなかたちで富を蓄積し、地方の官職を握る有力家計が形成された。地方の社会秩序は、これらの名士(アーヤーン ayan)によって維持される反面、政府と土地名士、あるいは名士間の争いも激しくなっていった。
オスマン帝国の改革
1792年のロシア=トルコ戦争の敗北によって、クリミア半島を奪われると、スルタン・セリム3世 Selim III (位1789〜1807)は、「新制」と呼ばれる改革案を発表し、西欧式の新軍団を設置し、その財源にあてるため、アーヤーン ayan (名士層)から徴税請負権を没収しようとした。これに対し、既得権の侵害を恐れたイェニチェリ軍団は、マフムト2世 Mahmut II (位1808〜39)を擁立し、アーヤーン勢力の削減に努めた。1862年には、イスタンブル市民の支持を背景にイェニチェリ軍団を解散して西欧式の常備軍団を編成し、イェニチェリ軍団と深い関係を持っていたベクタシュ教団を閉鎖した(①イェニチェリ軍団の解体)。また西欧の技術の習得のための各種学校を開設し、大宰相の権限を分散し、スルタンへの権力集中をはかった。このような改革は、西欧化によってヨーロッパ諸国の圧力をかわし、内部的にはスルタンの権力集中をはかるものであった。

西アジアの動向 オスマン帝国

オスマン帝国
1683第2次ウィーン包囲失敗
1699カルロヴィッツ条約(対オーストラリア)
1716トルコ=オーストリア戦争(〜18)
1718パッサロヴィッツ条約(対オーストラリア)、チューリップ時代(〜30)
1744頃ワッハーブ王国成立(〜1818、1823〜89)、アラビア半島で勢力拡大、首都リヤド
1768第1次ロシア=トルコ戦争(〜74)
1774キュチュク=カイナルジャ条約(対ロシア)
1787第2次ロシア=トルコ戦争(〜92)
1792ヤッシー条約(対ロシア)
1821ギリシア独立戦争(〜29)
1826イェニチェリを全廃
1827ナヴァリノの海戦
1829アドリアノープル条約(対ロシア)
1830フランス、アルジェリアを占領
1831第1次エジプト=トルコ戦争(〜33)
1833ウンキャル=スケレッシ条約(対ロシア)
1838イギリス=トルコ通商条約
1839ギュルハネ勅令(タンジマート開始、〜76)、第2次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1853クリミア戦争(〜56)
1856パリ条約(対イギリス・フランス・ロシア)
1865新オスマン人協会結成
1876ミドハト憲法発布
1877ロシア=トルコ戦争(〜78)
1878アブデュル=ハミト2世、憲法を停止
1878サン=ステファノ講和条約、ベルリン会議(ベルリン条約)、ヨーロッパ側領土の大半を失う
1881フランス、チュニジアを保護国化
1881スーダンでマフディー派の抵抗(〜98)
参考:山川 詳説世界史図録

参考

詳説世界史研究
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