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民権運動の激化

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民権運動の激化

  • 民権運動の激化
  • 福島事件
  • 高田事件
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  • 静岡事件

民権運動の激化

自由民権運動の展開に対して、政府は新聞紙条例·集会条例を改正するなど、さまざまな手段によってこれを厳しく取り締まるとともに、ー方では、民権派のなかから、有能な人材を官吏に登用するなどの懐柔をはかったので、民権運動はしだいに分裂する方向に向かっていった。1882(明治15)年ころから政府の緊縮財政によって農村に深刻な不況が訪れ、運動資金源が枯渇したり農民層の分解が進んで民権運動の支持階層の分裂を招いたことも運動退潮の一因と考えられる。

とくに自由党では1882(明治15)年4月、板垣退助が遊説中の岐阜で暴漢に傷つけられる事件がおこった。その後政府の働きかけで、同年末から翌年にかけて、党の最高指導者である板垣退助と後藤象二郎がヨーロッパヘ外遊の途に着くと、自由党は内紛を生じ、また自由党と立憲改進党との対立も激しくなった。指導者を失った自由党員のなかには、政府の取締りに対抗して、政府転覆や政府高官暗殺計画などの暴力的な直接行動に走る急進分子も現れてきた。

板垣外遊問題

板垣と後藤の外遊資金は、政府の井上馨いのうえかおるらの斡旋により三井が提供した。政府首脳は自由党の最高指導者を外遊させることによって、党の弱体化をねらうとともに、彼らにヨーロッパ諸国の社会や政治のあり方を実地に見学させて、自由党の政策が現実的になることを期待した。事実、板垣は自由民権の母国と考えられていたフランスの政治社会の「遅れ」と不自由・不安定さに幻滅を感じたらしく、のちには、フランスよりイギリスで学ぶべきだと、しきりに説くようになった。なお、板垣外遊に際して、資金の出所に疑念を抱いた自由党員の一部がこれに強く反対して脱党した。また、立憲改進党は自由党が政府に買収されたとして非難し、ー方、自由党は大隈重信三菱の関係を激しく攻撃した。こうして両党の対立は一種の泥試合的様相を呈した。

こうしたなかで、1882(明治15)年の福島事件をはじめ、1883(明治16)年には高田事件、ついで1884(明治17)年には、群馬事件·加波山事件など東日本各地で騒擾事件そうじょうじけんがつぎつにおこった。そして同年10〜11月には埼玉県秩父地方で自由党急進派の影響のもとに、生活に困窮した農民たち(困民党·借金党)がいっせいに蜂起するという大規模な暴動事件がおこり、政府は軍隊を出動させて鎖圧にあたったほどであった(秩父事件)。このような混乱のなかで自由党は統制力を失い、正常な政党活動が困難になったため、1884(明治17)年10月自由党は解党し、同年12月には、立憲改進党も大隈重信·河野敏鎌ら幹部が脱党して活動を停止し、ここに自由民権運動はいったん衰退したのである。

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  • 福島事件(1882.11〜12)県令三島通庸みしまみちつねの労役による道路開発や一方的な路線決定に反対する数千人の牒民が抵抗。県会議長河野広中ら自由党員もこれを支援し、検挙される。
  • 高田事件(1883.3)高官暗殺計画。
  • 群馬事件(1884.5)政府転覆を叫んで妙義山麗で蜂起。
  • 加波山事件(同9)三島通庸ら高官暗殺を計画して爆烈弾製造。発覚して加波山にこもり暴動化。
  • 秩父事件(同10〜11)数千人の貧農が自由党急進分子の影響下に困民党・借金党を組織。借金の年賦返済、村費減免、学校の一時停止など要求。商利貸・地主を襲撃し、郡役所などを占拠、軍隊出動によって鎖圧される。
  • 名古屋事件(同10)政府転覆計画。
  • 飯田事件(同12)政府転覆挙兵計画が発覚。
  • 大阪事件(1885.11)大井憲太郎ら朝鮮の内政改革を企図し、武器を調達して渡航を計画、未然発覚。
  • 静岡事件(1886.6)政府高官暗殺と徳川慶喜擁立の計画。

自由民権運動はもともと、国家の独立と対外的な勢力拡張をめざす国権論の主張と深く結びついていたので、1884(明治17)年ころから日本と朝鮮や清国との関係が緊迫するにつれてその傾向はより深まった。同年12月、朝鮮で甲申事変こうしんじへんがおこると、民権派はいっせいに朝鮮・清国に対する強硬な武力行使を主張した。しかし政府が翌年、清国との武力衝突を避けるため、天津条約を結んで解決をはかったことから、大井憲太郎おおいけんたろう(1843〜1922)ら自由党系の急進的な民権活動家のなかには、政府の「弱腰」を激しく非難し、自ら武器をたずさえ朝鮮に渡って朝鮮の内政改革に当ろうとする者も現れた。そして、彼ら一派が渡航の直前に大阪で検挙される事件がおこった(大阪事件

この事件に連座した景山英子(福田英子)は、岸田俊子(中島俊子)とともに数少ない女性民権家で、のち『世界婦人』を発刊して女性の啓蒙につとめた。

「板垣死すとも自由は死せず」

1882(明治15)年4月6日、岐阜で遊説中の板垣は、白刃をきらめかした一人の男に襲われた。このとき、板垣が負傷にめげず刺客をにらみすえ、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという話が全国に伝えられ、自由の神様とたたえられた。しかし、彼の回顧談によると「アッと思うばかりで声が出なかった」ということで、どうやらこの言葉は、病床の板垣が「自分は死んでも自由の精神は滅びないだろう」と語ったのを、側近の者が名文句にこしらえあげたものらしい。

ついで1886(明治19)年末ころから、民権派は後藤象二郎・星亨ほしとおる(1850〜1901)らが中心となり、国会開設に備えて藩閥政府と対抗するため、在野の反政府勢力を結集して衆議院の過半数を制する政党(のちのいわゆる民党)を結成しようと大同団結運動を進めた。翌1887(明治20)年井上外相の条約改正案が屈辱的内容を含むものであるとして、民権派の政府攻繋が盛んとなり、外交失策の挽回・地租軽減、言論集会の自由をスローガンにかかげた三大事件建白運動がおこり、大同団結運動と結びついて反政府的気運が高まった。

これに驚いた政府(第1次伊藤内閣)は、同年12月25日、突如として保安条例を発し、450余名にのぼる反政府派の人々を東京外に追放して、運動をおさえようとした。

保安条例

保安条例は全7条からなり、(1)いっさいの秘密結社及び集会の禁止、(2)許可された屋外集会でも必要に応じて警察官による禁止、(3)「内乱ヲ陰謀シ、又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スル」恐れがあると認められた人物の皇居から3里以遠への追放と3年間以内の立入禁止、などを定めた。これによって、中江兆民・尾崎行雄・星亨・片岡健吉らが追放された。しかし、悪法であるとして世の強い非難をあび、1898(明治31)年、第3次伊藤内閣のときに廃止された。

自由民権運動の性格

自由民権運動は、立憲政治の実現を求めた全国的な政治運動であった。その性格については、これを絶対主義専制政府打倒をめざすプルジョワ民主主義革命の運動であるとする考え方が、第ニ次世界大戦前から戦後にかけて、研究者の間に一時かなり流行した。それによれば、当初の士族民権から国会開設運動の高まった段階の豪農民権を経て、1884(明治17)年の諸暴動事件(激化事件)をピークとする農民民権へ発展したものとする。これに対し、運動内部にみられるさまざまな封建的要素を強調し、これを急速な近代化政策が村落共同体を破壊するのに抵抗した農本主義的運動とする説や、民権論と国権論が不可分に結びついているところから、これを国家の強大化と独立強化をめざす運動とみなす考えもある。しかし最近では、ブルジョワ民主主義革命運動説はほとんど唱えられなくなった。そして立憲政治の実現・議会制度の設立が、民権派よりむしろ政府側によって早くから意図されていたという歴史的事実を重視し、政府と民権派の抗争が立憲政治・議会制度の樹立という共通の政治目的をめざしたもので、いわば近代国民国家の形成の過程におこった対立・競合であったとする見解が有力である。そこでは、自由民権運動を議会における政党活動の前史として再検討しようとする見方が強くなってきている。また、諸暴動事件、とりわけ秩父事件については、政治的要求をかかげた自由民権運動との結びつきは弱く、農民の負債の返済をめぐる騒動として、むしろ生活に根ざした伝統的な農民一揆につながる事件であるという見方も広まっている。

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