朝鮮問題 甲申政変
朝鮮暴徒防禦図 壬午軍乱で襲撃された日本大使館(歌川国松画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

朝鮮問題

明治維新以来、欧米列強の東アジア進出に強い危機感を抱いていた日本政府は、朝鮮がロシアの勢力下に入れば、日本の国家的独立もまた危うくなると恐れ、日本の主導権で朝鮮を清国から独立させて日本の影響下におき、列強と対抗しようと考えていた。

朝鮮問題

朝鮮問題と日清戦争

朝鮮支配への契機1875江華島事件
1876日朝修好条規(日本による不平等条約)
1882壬午軍乱(壬午事変)
 背景:大院君(攘夷・親清派)と閔妃政権(開国・親日派)の対立
 経過:大院君、閔氏追放のクーデタ、日本公使館を包囲(漢城)
 結果:失敗したが、閔氏政権は親清派へ
済物浦条約(朝鮮の賠償と謝罪、日本軍の漢城駐留)
朝鮮国内の親日派と親清派の対立1884甲申事変
 背景:事大党政権(閔妃、親清派)と独立党(金玉均朴泳孝ら親日改革派)の対立
 経過:金玉均ら独立党のクーデタ
 結果:清国側の反撃で失敗
1885
漢城条約(朝鮮の謝罪と賠償、公使館護衛のための日本軍駐留を承認)
1885天津条約(日本全権・伊藤博文、清国全権・李鴻章
 ① 清国両国の朝鮮からの撤兵
 ② 朝鮮派兵時の相互事前通告
1889防穀令事件
 背景:朝鮮が防穀令(米・大豆の対日輸出禁止)を発令
 経過:日本側が賠償請求し、外交問題化
 結果:1890年、防穀令解除。1893年、日本へ賠償金11万円
1894甲午農民戦争(東学党の乱)
 背景:農民が民族教団(東学)に率いられて蜂起
 経過:朝鮮政府は清国に救援を要請
 結果:清国軍出兵。天津条約に基づき日本に通告、日本軍も出兵
朝鮮国内の親露派の台頭1894〜95
1895.4.7
日清戦争
下関条約(日本側全権:伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権:李鴻章)
 ①清国は朝鮮の独立を許可
 ②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲 ③賠償金2億両
1895.4.23三国干渉(ロシア・ドイツ・フランスが、遼東半島の返還を勧告)
清国へ遼東半島を返還(清国より3000万両賠償)
1895.10.8閔妃殺害事件
 背景:三国干渉後、朝鮮における日本の地位低下、親露政策で閔妃が政権を奪回
 経過:日本軍による閔妃殺害
 結果:日本の勢力が後退し、ロシアが台頭
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
明治維新以来、日本の対アジア外交の中心は朝鮮に向けられていた。欧米列強の東アジア進出に強い危機感を抱いていた日本政府は、朝鮮が列強、とくにロシアの勢力下に入れば日本の国家的独立もまた危うくなると恐れた。そして、それ以前に日本の主導権で朝鮮を独立させて日本の影響下におき、列強と対抗しようと考えていた。征韓論日朝修好条規の締結もその表れであった。しかし、こうした日本の朝鮮政策は、朝鮮を属国とみなして宗主権を主張する清国と、しだいに対立を深めることになった。日清戦争の主要原因は、朝鮮問題をめぐる日清間のこのような政治的・軍事的対立にあった。

1880年代初め、朝鮮国内では閔妃びんひ(1851〜95)派の政府が、日本から軍事顧問を招くなど国内改革を進めていたが、これと対立していた保守的な王父の大院君だいいんくん(テウォングン 1820〜98)は、1882(明治15)年にクーデタを企て、漢城(現ソウル)の日本公使館が焼き打ちされ、日本人軍事顧問などが殺された。これが、いわゆる壬午軍乱じんごぐんらん(壬午事変)である。このクーデタは清国の出兵により鎮定され、日本は朝鮮と済物浦条約さいもっぽじょうやくを結んで守備兵駐留を認めさせたが、これ以後閔妃派(いわゆる事大党)は急速に清国に接近した。これに対し、金玉均きんぎょくきん(キムオッキュン 1851〜94)・朴泳孝ぼくえいこう(パクヨンヒョ 1861〜1939)ら改革派(いわゆる独立党)は、専制政治を打破して国内の改革を行うため、日本に接近した。1884(明治17)年、清仏戦争が始まり、清国の敗北が続くと、改革派はこれを好機と判断して、同年12月、日本公使の援助のもとにクーデタをおこした。しかし、清国軍の出動によって結局クーデタは失敗に終わり、金、朴らは日本に亡命し 、 日本公使館は焼き払われた。これが甲申事変こうしんじへんで、日本は漢城条約を結んで朝鮮の謝罪と賠償金支払いなどを約束させた。

10年近く日本での亡命生活を送っていた金玉均は、1894年に上海に渡ったが、そこで朝鮮政府の刺客に暗殺され、死体は漢城でさらしものにされ、日本人の憤激をかった。

1885(明治18)年、甲申事変の事後処理のため、伊藤博文が天津に赴いて李鴻章りこうしょう(1823〜1901)と交渉した結果、日清間に天津条約が結ばれ、両軍の朝鮮からの共同撤兵、軍事顧問の不派遣、今後の出兵に際しての相互通告などが取り決められた。この結果、日清両国の衝突はひとまず回避され、日清関係は小康しょうこうを得た。

これ以後、朝鮮は清国の影響下におかれ、日本の勢力は大きく後退した。甲申事変に際して、自由民権派は武力出兵を唱えて対朝鮮・対清国強硬論を説き、天津条約を結んで清国との衝突を避けた日本政府の外交を弱腰であると非難した。そして、急進派の大井憲太郎らによって、朝鮮から清国の勢力を一掃してその独立を達成させようとする運動が進められた。こうしたなかで、日本政府は、朝鮮の国内改革を行って日本の指導のもとに独立させようという方針をしだいに強めた。

このように、朝鮮をめぐる日清両国の利害の対立はますます深まり、両国間の空気はだんだん険悪となった。すでに日本政府は1880年代の前半から、清国との衝突に備えて、対外戦争に耐え得るように着々と軍備の改革と拡張を進めていたが、1878(明治11)年には全体の支出(一般会計歳出)の約15%だった軍事費は、1892(明治25)年には約31%を占めるにいたった。この間1889(明治22)年には朝鮮の地方官が防穀令ぼうこくれいを出して米穀・大豆などの輸出を禁止したので、日本は朝鮮に迫って翌年これを解除させた。

福沢諭吉の「脱亜論」

福沢諭吉は、壬午軍乱ののち朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、朝鮮の改革派を援助し、彼ら自身の力で朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。しかし、1884(明治17)年の甲申事変のとき、清国の軍事介入で改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、福沢の期待は失われた。翌年3月、福沢は『時事新報』紙上に「脱亜論だつあろん」を発表した。その趣旨は、西洋諸国の急速な東アジアヘの勢力拡張のなかで、西洋文明を取り入れて近代化しない限り国家的独立は維持できないという認識に立ち、近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、日本は独自に近代化を進めて四洋諸国の仲問入りをし、朝鮮・清国にも西洋流のやり方で接するほかはないというものであった。このような脱亜論は、清国との軍事的対決の気運を高めていくことになった。

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