国民生活の近代化
天長節貴顕祝亭拝賀之図(楊斎延一筆/1889)©世界の歴史まっぷ

国民生活の近代化

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国民生活の近代化

明治時代後半になると日本人の食生活は豊富になり、都市では和食・洋食など各種料理が食卓を賑わせた。東京には料理店476、飲食店4470、嗜茶店143軒もあり、牛肉店も多く、肉鍋、オムレツ・カツレツ・ビフテキもあった。

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国民生活の近代化
天長節貴顕祝亭拝賀之図(楊斎延一筆/1889)©世界の歴史まっぷ

天長節(天皇誕生日)の歴史は古いが、明治6年に毎年9月22日が祝日と定められた。翌年から、地久節(皇后誕生日)も毎年4月17日祝日とされた。この頃、既に食卓は洋風。 参考:錦絵が語る天皇の姿

明治時代における近代化の進行によって、国民の生活様式の上にもいろいろな変化がおこり、大都会を中心に西洋式の生活様式が取り入れられていった。東京をはじめ都市では、官庁・会社・学校・軍隊などで実用的な西洋風の衣食住が採用され、それはしだいに一般家庭にも広まつていった。例えば、明治初期には街灯としてガス灯が用いられ、家庭にはランプが使われるようになったが、明治時代のなかごろになると、官庁・会社・工場・学校·兵営やそのほか公共施設で電灯が用いられるようになり、やがて明治後期には大都市の一般家庭にも普及した。大都市の中心部では洋風建築が軒を連ねたが、とくに東京の丸の内には、1894(明治27)年、三菱一号館(のち東九号館)が落成したのをはじめ、つぎつぎに赤煉瓦のオフイスビルが建設され、なかにはエレンベーターつきの貸事務所も現れ、丸の内赤煉瓦街として日本のビジネスセンターに発展した。

食生活では肉食、衣服では洋服の習慣も徐々に広まった。交通・通信の面では、明治初期には人力車や馬車が使われたが、鉄道の発達もめざましく、1890(明治23)年前後になると、東海道線の新橋・神戸間や日本鉄道の上野・青森間が全通し、江戸時代には10〜15日もかかった東京から大阪·京都まで、わずか20時間程度で行けるようになった。

1890年代から1900年代には、京都をはじめ大都市では都市内の交通機関として市街電車が開通した。また、郵便·電信も全国に普及して利用者は急増し、電話も1890年代から利用されるようになった。

このような交通・通信機関の発達は、人問と物が短時間で遠距離を移動することを可能にし、言論機関や教育制度の発達と相まって、人間の生活圏の急速な拡大をもたらし、狭い地域社会の範囲を越えた国家意識や国民としての自覚と一体感を、庶民層にまで押し広げることになった。明治中期以降、学生・生徒の間で修学旅行や庶民の観光旅行の習慣が広がり、江戸時代まではおおむね上流階級の人々に限られていた遠隔地の男女間の結婚が、庶民の間でも盛んになったのも、交通機関、とりわけ鉄道の発達によるところが大きかった。

しかし、以上のような国民生活の近代化は、なお都市中心のものであり交通・通信の不便な農村地帯などでは、農作業の必要から太腸暦とともに旧暦が用いられるなど、依然として江戸時代以来の伝統的な生活様式が営まれていた。

都市の食生活

明治時代の後半になると、日本人の食生活は豊富になり、とりわけ都市では、和食・洋食など各種の料理が食卓を賑わすようになった。1897(明治30)年の調査では、東京には料理店が476軒、飲食店が4470軒、嗜茶店(喫茶店)が143軒もあった。牛肉店も多く、肉鍋(すき焼)のほか、オムレツ・カツレツ・ビフテキなどを出したという。

1899(明治32)年夏、新橋にビヤホールが開店し、サンドイッチなどとともにビールを提供したところ、押すな押すなの大賑わいで、これをまねてビヤホールがつぎつぎと誕生た。「水菓子」(果物)も桃・梨・柿・みかんといった在来品種ばかりでなく、明治初期アメリカから入ってきたりんごが青森や北海道で栽培され、日本の植民地となった台湾のバナナやパイナップルとともに食卓にのるようになった。ー方、農村では依然麦入りのご飯が当たり前だったが、都市では米ばかりの白いご飯が普通になっていたので、都市に嫁入りした娘が里帰りして、麦入りのご飯はいやだと駄々をこね、母親を困らせるといった光景もみられたという。食生活の面でも都市と農村の格差はかなり大きかったといえよう。

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