鎌倉幕府 守護の配置(頼朝の奥州平定)地図
守護の配置(頼朝の奥州平定)地図 ©世界の歴史まっぷ

鎌倉幕府

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鎌倉幕府

  • 1180年 侍所設置
  • 1184年 公文所・問注所設置(1192年政所に改称)
  • 1183年 東海・東山両道諸国支配権獲得
  • 1185年 後白河法皇の源頼朝追討令を撤回させる。守護・地頭任命権、兵糧米徴収権利、在庁官人支配権獲得
  • 東国を中心に源頼朝の支配権が全国に及び武家政権・鎌倉幕府確立

鎌倉幕府

源平争乱のおり、源頼朝は関東を動かず、新しい政権の樹立につとめた。根拠地に選んだ鎌倉は東海道の要衝であり、南は海に面し、三方を丘陵に囲まれた要害の地であった。また、源頼義が源氏の守り神、石清水八幡宮を勧請かんじょうして鶴岡八幡宮を建立するなど、源氏ゆかりの土地であった。

治承・寿永の内乱 源平の争乱 源平の争乱(治承・寿永の内乱)地図
源平の争乱(治承・寿永の内乱)地図 ©世界の歴史まっぷ

頼朝は1180(治承じしょう4)年の富士川の戦いの後、侍所さむらいどころを設け、長官である別当には三浦一族の和田義盛わだよしもりを任じ、頼朝と主従の関係を結んだ武士である御家人ごけにんを統制させた。1184(元暦元)年には公文所くもんじょ問注所もんちゅうじょを開いた。公文所はのちに整備されて政所まんどころと改称された。その長官である別当には朝廷の練達な下級官吏であった大江広元おおえひろもとを任じ、一般の政務や財政事務を管掌させた。問注所の長官は執事と呼ばれ、やはり下級官吏であった三善泰信みよしのやすのぶを京都から招いて裁判にあたらせた。

鎌倉幕府と朝廷1
鎌倉幕府と朝廷1 ©世界の歴史まっぷ

一方、頼朝は常陸国の佐竹氏・大掾だいじょう氏、下野国の(藤原姓)足利氏、上野国の新田氏らを討伐し、あるいは降伏させながら、実力で関東の荘園・公領を支配し、御家人の所領支配を保証していった。

1183(寿永2)年10月には、源義仲との対立に苦しむ後白河法皇と交渉し、東海・東山両道諸国の支配権の公的な承認(寿永二年十月宣旨)を手に入れた。ついで1185(文治元)年、法皇が源義経に頼朝追討を命じると軍勢を京都に送って強く抗議し、追討令を撤回させるとともに、諸国に守護、荘園や公領には地頭を任命する権利、田1段あたり5升の兵粮米ひょうろうまいを徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心に頼朝の支配権は広く全国に及ぶことになり、武家政権としての鎌倉幕府が成立した。

将軍と幕府

征夷大将軍とは蝦夷征討の軍の総大将に与えられた職名であるが、まだこの時代には、武家の棟梁と将軍職とが不即不離ふそくふりの関係にあるわけではなかった。源頼朝は当時はもっぱら敬意を込めて鎌倉殿と呼ばれていたが、やがていくつかの候補(例えば近衛このえ大将・鎮守府将軍など)の中から義仲も任じられたこの官職をを選択し、武家の棟梁の指標としたのであった。頼朝以後、征夷大将軍、あるいは単に将軍といえば、すなわち武人の代表者という認識が定着していく。
また征夷大将軍の居館を幕府と呼ぶが、幕府とは中国の語で、出征中の将軍の幕で囲った陣営を意味していた。それが転じて日本では近衛大将の居館の意に用いられ、さらに将軍の館の意になった。これが武家政治の政府のを指すようになるのは、はるか後世になってからである。

守護は各国に1人ずつ、主として東国出身の有力御家人が任命された。その任務は、規定によれば大犯三カ条、すなわち大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕に限られていたが、実際は治安を維持するために国内の御家人を指揮して警察権を行使し、戦時には御家人を統率して戦闘に参加した。また、守護は地方行政にも関与した。鎌倉時代にも朝廷の国司は依然として任命されていたが、実際の国の行政はもっぱら現地の有力者である在庁官人が司っていた。在庁官人には武士が多く含まれており、彼らのなかには幕府の御家人になる者もあった。守護は在庁官人への命令権を行使し、次第に国衙の支配を進めていった。とくに東国では、最も有力な在庁官人=国内で最も有力な武士、という図式が定着しており、さらにその武士が御家人となって守護に任じられたから(相模国の三浦氏、下総国の千葉氏、下野国の小山氏など)、国衙の機能はほとんど守護のいる守護所に移され、守護は強力な地方行政官として働いたのである。

鎌倉幕府 守護の配置(頼朝の奥州平定)地図
守護の配置(頼朝の奥州平定)地図 ©世界の歴史まっぷ

大犯三カ条

誤解されやすいので繰り返すが、大犯三カ条の三つは「守護の任務のうちでとくに重要なもの」なのではなくて、「守護が行使を許された権限のすべて」である。ただし守護は、謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕を口実として任国内の警察権全般を手中にしようとしたし、平時の大番を管轄する権限は戦闘時の軍事指揮権にあたるとして、任国内の御家人たちの統率につとめた。そのため、鎌倉時代後期になると、守護と主従関係を結ぶ在庁武士たちが現れてくる。

各国の荘園や公領に置かれた地頭には、御家人が任命された。任務は年貢を徴収して荘園領主や国衙に納入すること、土地を管理すること、警察権を行使して治安を維持することなどであった。給与には一定の決まりがなく、各地域における先例の遵守が原則であった。ただ、承久の乱後に定められた新補率法しんぽりっぽうによっておおよその見当をつけることができる。
もともと地頭とは土地のほとり、すなわち「現地」を指す言葉で、平安時代後期から荘園の名称として用いられた。平氏政権下でも、武士が地頭に任じられている例をわずかながら見出すことができる。頼朝は地頭の職務を明確化するとともに、任免権を国司や荘園領主から幕府の手に奪取した。それまで多くは下司げすの地位にあった武士=荘官は、頼朝の御家人になって改めて地頭に任じられた。御家人たちの在地領主制は、幕府によって保証されることとなったのである。

在地への影響力の低下を恐れる荘園領主たちは、当然この事態に反発し、地頭のあり方をめぐって朝廷と幕府の間で何度か交渉が行われた。その結果、地頭の設置範囲は平氏とその関係者・謀叛人の所領だけに限られることとなったが、やがて幕府の力が大きくなるにしたがって、次第に全国に及ぶようになる。

鎌倉幕府と朝廷2
鎌倉幕府と朝廷2 鎌倉幕府職制(初期) ©世界の歴史まっぷ

1186(文治2)年、頼朝は京都に京都守護をおいた。妹婿である貴族一条能保いちじょうよしやすがこれに任じられ、京都の警備と在京の御家人の取締りにあたった。九州の大宰府には鎮西奉公ちんぜいぼうこうを、奥州には奥州総奉公をおいて地方の御家人の統率を命じた。朝廷では九条兼実くじょうかねざねが頼朝の後援を得て摂政の地位についた。兼実は貴族の合議を重視する人物で、後白河法皇の専制に対抗した。また幕府に好意的で、鎌倉と京都との協調につとめた。
1190(建久元)年、頼朝は上京を遂げて右近衛大将になり、1192(建久3)年、法皇の死後に征夷大将軍に任じられた。以後、この職は江戸時代の末にいたるまで長く武士の第1人者の指標となった。頼朝が将軍に就任し、ここに鎌倉幕府は名実ともに成立するにいたったのである。

鎌倉幕府の成立時期

鎌倉幕府の成立時期をいつに求めるべきか、この問題をめぐって、これまで以下の6説が主張されてきた。見解の対立は、論者の幕府観の相違によってもたらされている。

  • ① 1180(治承4)年末 頼朝が鎌倉に居を構え、侍所を設け、南関東・東海道東部の実質的支配に成功したとき。
  • ② 1183(寿永2)年10月 頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けたとき。
  • ③ 1184(元暦元)年10月 公文所(政所まんどころ)・問注所を設けたとき。
  • ④ 1185(文治元)年11月 守護・地頭の任命権などを獲得したとき。
  • ⑤ 1190(建久元)年11月 頼朝が右近衛大将に任命されたとき。
  • ⑥ 1192(建久3)年7月 頼朝が征夷大将軍に任命されたとき。

⑤, ⑥、とくに⑥は幕府という語の意味に着目した、いわば語源論的な解釈であり、古くから主張されている。これに対しほかの4説は、軍事政権としての幕府が成立してくる過程を問題にしており、中では④が最も重要な時点であるとして、現在ではこれを支持する学者が多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配政権としての性格を強調するべきだとすれば②説が有力になり、軍事力による実力支配を重くみれば①の見解が主張されることになる。

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