近代産業の育成
東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図(立斎広重画/国立国会図書館/画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション

近代産業の育成

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近代産業の育成

明治政府の近代化政策における最も重要な課題は、欧米先進資本主義列強諸国と国際杜会において、肩をならべる強国をつくるための富国強兵策であった。経済面においては、それは欧米諸国の経済制度・技術・設備・機械などの導入による政府の近代産業の育成=殖産興業として現れた。

近代産業の育成

明治政府の近代化政策における最も重要な課題は、欧米先進資本主義列強諸国と国際杜会において、肩をならべる強国をつくるための富国強兵策であった。経済面においては、それは欧米諸国の経済制度・技術・設備・機械などの導入による政府の近代産業の育成=殖産興業しょくさんこうぎょうとして現れた。

貨幣・金融制度

資本主義の発展のためには、金融・貨幣制度の確立がどうしても必要であった。これまで、一般の鋳貨のほか、藩札・外国貨幣などきわめて数多くの種類が流通しており、さらに財政難のため不換紙幣たる太政官札、民部省札などもしきりに発行され、混乱をもたらしていた。これらを整理するため、まず1871(明治4)年、伊藤博文の建議によって新貨条例しんかじょうれいを公布して、金・銀・銅の新貨幣を造幣寮(のち造幣局)で鋳造し、金本位制を定め、円・銭・厘の十進法を採用した。建前は金本位制であったが、貿易上では主に銀貨が通用していたので、事実上は金銀複本位制であった。そのうえ、1878(明治11)年には銀貨の通用制限が撤廃されたので、実質的には銀本位制となった。また1872(明治5)年には太政官札などの不換紙幣と引き換えるために、新しい政府紙幣を発行したが、これもまた不換紙幣であった。

金融·商業機関としては、1869(明治2)年、半官半民の通商会社·為替会社が設立されたが、成功しなかった。そこで政府は近代的な銀行制度の移植をはかり伊藤博文渋沢栄一しぶさわえいいち(1840〜1931)らが中心となってアメリカの National Bank の制度にならって、1872(明治5)年、国立銀行条例を発布した。そして翌年から民間の出資を仰ぎ、第一国立銀行(三井組・小野組の出資)をはじめとして、各地に民間の国立銀行が設立された。

国立銀行

国立銀行という名称は、一見、国有・国営の銀行を思わせるが、そうではなく、私営の民間銀行である。国の法律に基づいて設立·運営されるという程度の意味で、アメリカの National Bank の訳語を日本に適用したのである。初め、政府の不換紙幣の整理を目的として設立されたもので、資本金の60%まで紙幣を発行することが認められ、残りの40%を正貨で準備して兌換だかんにあてねばならなかった。しかし、この条件が厳しすぎて営業不振におちいったので、1876(明治9)年、条例を改正して正貨兌換を廃止し、資本金の80%まで紙幣を発行できることとした。これによって営業は活発となり全国の銀行設立は盛んとなって、1879(明治12)年には153行に達した。その不換紙幣の濫発はインフレーションを招いたが、同時に産業資金の創出には役立った。

通信・交通制度

通信機関としては、1869(明治2)年、政府の手により東京、横浜間に電信敷設ふせつされ、1874(明治7)年には青森・東京・長崎間が開通して幹線がほぼできあがり、1880年代初めまでに全国の通信ネットワークが、おおむね完成した。また、海外との電信も、1871(明治4)年長崎と中国(清)の上海シャンハイとの間が開通した。電話も1877(明治10)年に輸入されたが、官営の電話事業が始まったのは、1890(明治23)年のことである。郵便の制度は前島密まえじまひそか(1835〜1919)の努力によってこれまでの飛脚制度にかわって取り入れられ、1871(明治4)年、東京、京都·大阪問に実施され、1873(明治6)年には全国の均一料金制度が実現し、全国の主要な郵便網がほぼ完成した。そして、1877(明治10)年には万国郵便連合に加入した。

交通の面では、政府はイギリスから外国債を仰いで技術を導入し、官営事業として鉄道敷設に着手した。1872(明治5)年、東京の新橋と横浜間の鉄道が開通したのをはじめ、1874(明治7)年に大阪・神戸間、1877(明治10)年に大阪·京都間が開通した。東海道本線(東京·神戸間)の全通は、1889(明治22)年のことである。

海運業では、1870(明治3)年、土佐藩出身の岩崎弥太郎いわさきやたろう(1834〜85)が藩の汽船を借り受けて九十九商会つくもしょうかいを創設し、1875(明治8)年には郵便汽船三菱会社と改称した。同社は官船の無償払下げや助成金の交付など政府の特権的保護のもとに、アメリカの汽船会社との競争に打ち勝ち、西南戦争などの軍事輸送によって巨富を得た。そして単に国内航路ばかりでなく、1875(明治8)年には早くも上海航路を始めるなど、外国航路を開設して積極的な経営を進めた。これがのちに政府の共同運輸会社と合併して、1885(明治18)年に日本郵船会社となったのである。

殖産興業

工部省と内務省

工部省1870年設置
初代工部卿:伊藤博文
官営事業の払下げにより1885年に廃止
殖産興業の中心官庁
鉱工業・交通部門の管掌
工部大学校での技術者養成
内務省1873年設置
初代内務卿:大久保利通
1811年の農商務省の設立により、殖産興業部門を分離
1947年に廃止
地方行政・土木・勧業・警察を任とする政府の最高権力機関
勧農・牧畜・製糸・紡績部門の管掌
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

政府は幕府や諸藩の鉱山や工場を引き継いで官営事業にするとともに、さらに盛んに欧米から機械・設備を輸入し、外国人技師を招いて官営工場を設立・経営するなど、近代産業の育成をはかった。とくに、輸出産業として重要であった製糸業の部門では、フランスの製糸技術を取り入れ、フランス人技師ブリュナ( Brunat、 1840〜1908)の指導のもとに、群馬県に富岡製糸場を設立し、士族の子女など多くの女性労働者(いわゆる女エ)を集めて、蒸気力を利用した機械による大規模な生糸の生産にあたった。ここで製糸技術を習得した富岡工女たちは、その後、各地に設立された民間の製糸工場で技術を指導する役割を果たした。また江戸時代から発展の基礎が芽ばえていた綿糸紡績業などの部門でも、官営模範工場が各地に設立された。

明治初期の官営事業

その主なものは、つぎのようである。

  1. 旧幕府、諸藩から引き継いだもの:東京砲兵工廠とうきょうほうへいこうしょう(幕府の関口製作所)、横須賀海軍工廠(幕府)、長崎造船所(幕府の長崎製鉄所)、鹿児島造船所(薩摩藩)、三池鉱山(柳河藩、三池藩)、高島炭鉱(佐賀藩)、堺紡績所(薩摩藩)
  2. 新設したもの:板橋火薬製造所、大阪砲兵工廠、赤羽エ作分局、深川工作分局(セメント製造所、不熔白煉瓦製造所)、品川硝子製造所、千住製絨所、富岡製糸場、新町紡績所、愛知紡績所、広島紡績所

このような殖産興業政策を推進したのは、1870(明治3)年に設置された工部省及び1873(明治6)年に設置された内務省で、とくに岩倉使節団一行の帰国後、内務卿大久保利通、工部卿伊藤博文及び国家財政を担当していた大蔵卿大隈重信らがその中心になった。1877(明治10)年、西南戦争のさなか、政府の手で第1回内国勧業博覧会が東京上野で開かれ、各地から機械や美術工芸品が出品・展示され、民間の産業発展に大きな刺激となった。

農業・牧畜の面でも政府は三田育種場をはじめ、各地に育種場・種畜場などをつくって技術改良を進め、開拓事業では福島県安積疎水あさかそすいの開発を行った。また、政府は外国人技師を招くとともに、工部省内に工学寮(のち工部大学校→帝国大学工科大学→東大工学部)を設立したのをはじめ、駒場農学校(のち東大農学部)、札幌農学校(のち北海道大学)などを創設し、留学生を派遣するなど、新しい技術の修得や技術者の養成につとめた。

北海道開拓

蝦夷地は北海道と改められ、札幌(はじめ東京)に開拓使が設置された。政府は、アメリカの農政家ケプロン( Capron、 1804〜85)や教育家クラ一ク( Clark、 1826〜86)を招いて北海道の開拓に力を注ぎ、士族らの移住を奨励して荒地の開墾を進め、屯田兵制度を実施するなど、農業、炭鉱の開発に巨費を投じた。北海道の先住民族であるアイヌに対しては、その農民化を基本とする同化政策が取られたが、開拓の進行によってアイヌの人々は生活圏を侵害され、窮乏化していった。

初期の鉄道

鉄道建設は伊藤博文大隈重信の熱心な主張で実現したが、建設費にあてるため、政府は100万ポンドの外国債をイギリスで募集した。京浜間の測量が始まったのは1870(明治3)年3月、品川・横浜間が完成して仮営業したのが1872(明治5)年5月、新橋(現在の汐留貨物駅跡)・横浜(現在の桜木町)間の開業式が行われたのは同年10月14日のことであった。当時の時刻表をみると、午前は8時・9時・10時・11時の4回、午後は2時・3時・4時・5時・6時の5回が新橋発となっており、運貨は上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘であった。当時の米価は1斗(約15kg)40銭足らずであるから、今から思えばずいぶん高い運貨で、上等客車などは初めはガラ空きだったらしい。スピードは時速30キロ以上で新橋・横浜間を53分で走ったから、それまで、東京から横浜へ1日がかりで出かけたことを考えればずいぶん便利になった。1871(明治4)年9月21日試運転中の列車に試乗した大久保利通は、「始て蒸汽車に乗候処、実に百聞一見にしかず。この便を起さずんば、必ず国を起すこと能はざるべし」と日記に記している。鉄道の敷設が国の繁栄のためにば必要不可欠だと、大久保が認識していた様子がよくわかる。

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