日清戦争後の政府と政党 日清戦争後の政治と政党の流れ図
日清戦争後の政治と政党の流れ図 ©世界の歴史まっぷ

日清戦争後の政府と政党

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日清戦争後の政府と政党

日清戦争後の政府と政党

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日清戦争後の政治と政党の流れ図 ©世界の歴史まっぷ

日清戦争は、政府と政党との関係に大きな変化をもたらした。戦争中、政府と政党は政争を一時中止して「挙国一致」で戦争遂行にあたったが、戦後になると、政府(第2次伊藤内閣)と衆議院の第一党である自由党は戦後経営をめぐって共同歩調をとり、1895(明治28)年11月、両者は公然と提携を宣言し、軍備拡張などを盛り込んだ予算案を認めた。そして、翌年4月には板垣退助が内務大臣として第2次伊藤内閣に入閣した。これより、同内閣は事実上、自由党との連立内閣となった。また、この年に伊藤内閣のあとを受けて成立した第2次松方内閣は、進歩党(立憲改進党の後身)と提携して、大隈重信が外相となった(松隈内閣しょうわいないかく)。こうした藩閥と政党との連立内閣の出現を通じて、政党はしだいに勢力を伸長していった。1898(明治31)年には、第3次伊藤内閣は、戦後経営のための恒常的な財源を確保するため、地租増徴案を議会に提出したが、自由党と進歩党はともにこれに反対し、同案は否決された。衆議院は解散されたが、同年6月、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成し、来るべき総選挙で衆議院の絶対多数を制する形勢となった。その結果、伊藤内閣は退陣し、伊藤はじめ元老たちの推薦を受けた大隈重信板垣退助が組閣を命ぜられ、大隈を首相とし憲政党を与党とする日本で最初の政党内閣を組織するにいたった。このいわゆる隈板内閣わいはんないかく第1次大隈内閣)は、首相大隈·内相板垣以下、陸相・海相以外はすべて憲政党員からなっていた。しかし、憲政党は同年8月の総選挙で衆議院の絶対多数を占めたにもかかわらず、自由党系と進歩党系の対立が激しく、文相尾崎行雄がいわゆる共和演説 を非難されて辞職に追い込まれたりした。結局、旧自由党系の星亨ほしとおるが暗躍して憲政党を解党させたために 同内閣はわずか4カ月余りの短命に終わった。

尾崎が帝国教育会で道議高揚を説く演説をしたとき、「もし日本が共和制となれば三井・三菱らは大統領になるだろう」と日本の拝金主義を戒めたのが逆用され、旧自由党系や天皇側近の間から天皇に対する不敬の言動として攻撃され、辞職に追い込まれた。

このとき、旧自由党系は新しく憲政党を結成し、旧進歩党系は憲政本党をつくった。

あとを継いだ第2次山県内閣は、いったん憲政党(旧自由党系)と手を結んで、1898(明治31)年、地租増徴案を成立させ、地租率を地価の3.3%に引き上げた。山県内閣は、その後、政党の力をおさえるため、1899(明冶32)年には文官任用令を改正して政党員が官吏になる道を制限し、翌1900年には軍部大臣は現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を確立し、また治安警察法をつくつて社会、労働運動を規制するなどの政策をとった。

しかし、超然主義がもはや不可能であることは明らかであった。懸案となっていた衆議院議員選挙法の改正が山県内閣のもとで1900(明治33)年に行われ、選挙権については直接国税の制限額は10円以上に引き下げられて有権者は倍増し、被選挙権における納税額による制限は撤廃されるなど、国民の参政権が拡大されたのである。投票方法も無記名秘密投票制が採用された。このような情勢のなかで、憲政党は文官任用令改正問題で対立を深めていた山県内閣との提携をやめ、伊藤博文に接近し、伊藤も自ら積極的に政党結成に乗り出した。こうして星亨らの指導により憲政党(旧自由党系)は解党し、伊藤を総裁に擁立して、1900(明治33)年9月立憲政友会が結成された。

立憲政友会

初代総裁は伊藤博文、幹部は西園寺公望さいおんじきんもち(1849〜1940)·星亨・松田正久(1845〜1914)・片岡健吉・尾崎行雄·原敬(1856〜1921)・大岡育造(1856〜1928)らであった。かつて自由民権派として活躍した旧自由党系政治家や伊藤系の官僚が中心メンバーとなったが、伊藤は結党にあたって広く実業家・地方議員などにも入党を呼びかけ、また地主層などに多くの支持者を得た。1902(明治35)年の総選挙では190名の代議士を衆議院に送り込んで、過半数を制した(衆議院の定数は376名)。しかし、山県有朋やまがたありともは伊藤の立憲政友会結成に批判的立場をとり、山県系の官僚やその影響下にあった貴族院議員などは立憲政友会に参加せず、貴族院は立憲政友会と伊藤内閣の反対勢力の拠点となった。

立憲政友会を基礎として1900年10月に成立した第4次伊藤内閣は半年余りで終わったが、これを機に伊藤・山県らは第一線を退き、元老として内閣の背後から政治を動かすようになった。そして、1901(明治34)年の第1次桂内閣成立以後、山県を後ろ盾に藩閥·官僚勢力に基礎をおく桂太郎かつらたろう(1847〜1913)と、伊藤のあとを継いだ立憲政友会総裁西園寺公望が、交代して内閣を組織する、いわゆる桂園時代けいえんじだいが始まった。

このように、帝国議会開設以来10年ほどで立憲政治は定着し、自由民権運動の流れをくむ政党は、明治憲法体制下に大きな地位と勢力を占め、日本における政党政治発展の基礎が築かれることになった。憲法制定に際して日本が多くを学んだドイツ(プロイセン)では、議会の多数党が政権をとることはなかったから、日本の場合、憲法の運用がドイツとはかなり違っていたことがわかるであろう。また欧米先進国では、おおむね19世紀半ばころまでには、立憲政治が実現したが、その過程で、しばしば大きな流血の騒乱がおこった。日本の場合は、比較的短時間にそれほど大きな混乱もなく、藩閥勢力と政党勢力(自由民権派)の協力により、立憲政治が定着した。この点は、日本の大きな特色といえよう。

元老

伊藤博文・山県有朋・黒田清隆松方正義井上馨西郷従道・大山巌(1842〜1916)の7人に、明治末期以降、桂太郎・西園寺公望の2人が加わった。公家出身の西園寺を除けばいずれも薩長両藩出身の藩閥政治家であり、明治時代に首相を経験した者は大隈重信を除いて、すべて元老に列せられた。元老については、憲法はもとよりそのほかの法令でも何ら明文上の規定はなかったが、彼らはいずれも明治国家の建設に大きな力があった長老級の有力政治家で、天皇の諮問に応じて重要な国務、とくに内閣更迭にあたって後継の首相を推薦したり、重要な外交問題に参画するなど、事実上、明治国家運営の最高指導者の役割を果たした。

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