日清戦争と三国干渉
平壌から拉致された中国人将軍(Migita Toshihide画/ボストン美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

日清戦争三国干渉

日清戦争に勝利して下関条約で手に入れた遼東半島は、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、清国へ返還された。日本政府は、まだこれらの大国に対抗できるだけの実力がなく「臥薪嘗胆」を合言葉に軍備拡張と国力の充実をはかった。

日清戦争と三国干渉

1894(明治27)年5月、朝鮮で民族主義的な東学を中心に、減税と排日を要求する大規模な農民の反乱がおこった(甲午農民戦争, 東学党の乱)。朝鮮政府は鎮圧のために清国に派兵を要請し、同年6月清国は軍隊を送った。日本もこれに対抗して直ちに出兵した。両国の出兵もあり、農民の反抗は収まったが、日本は日清両国で朝鮮の内政改革にあたることを提案した。しかし、清国政府はこれを拒否したので交渉はついに決裂した。ちょうどそのころ、日英通商航海条約が締結され、イギリスが日本に好意的な態度を示したので、日本政府(第2次伊藤内閣陸奥宗光外相)も開戦を決意し、7月には豊島沖の海戦によって日清戦争が始められ、8月には正式に対清国宣戦が布告された。国内では、それまでしばしば対立・抗争を続けていた政府と政党が一致協力の態勢をとり、巨額の軍事予算も満場一致で可決されるなど、清国との戦争を遂行するため挙国一致の動きが進められた。

日本側が明治維新以来、強い対外危機意識のもとで国内の改革を進めて立憲政治を実現し、国をあげて十分な準備をととのえ、よく訓練され近代的に組織化された軍隊をもっていたのに対し、清国側は国内の改革に立ち遅れ、政治的対立も激しく、専制政治のもとで国力を十分に発揮できなかったので、戦争は日本が圧倒的に優勢のうちに進められた。まもなく、日本海軍は黄海海戦で清国艦隊(北洋艦隊)を撃破し、陸軍は清国軍を朝鮮から一掃して、さらに遼東半島・山東半島の一部などをも制圧した。こうして、約2億円余り の戦費と約10万人の兵力を動員した戦争は、約8カ月で日本の勝利に終わった。戦争における日本軍の死者は約1万7000人で、その約7割が病死であった。

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甲午農民戦争と日清戦争地図 ©世界の歴史まっぷ
この金額は日清戦争直前の国家予算で約2年半分の歳入(一般会計)にあたる。

1895(明治28)年4月、伊藤博文首相、陸奥宗光外相が全権となり、清国全権全李鴻章りこうしょう間に日清間の講和条約が調印された。これが下関条約である。この条約によって、清国は日本に対して、①朝鮮の独立の承認、②台湾、彰湖ほうこ諸島·遼東半島の割譲、③賠償金2憶両テール(日本円で約3億1000万円)の支払い、④日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港、租界での治外法権などの承認、などを約束した。こうして、日本は朝鮮から清国の勢力を一掃して、大陸進出の第一歩を踏み出した。

それまで“眠れる獅子”といわれ、恐れられていた清国が、名もない東アジアの新興国日本に敗れ、弱体ぶりを暴露したことは、国際政局に大きな波紋を呼んだ。欧米列強はこぞって中国分割に乗り出した。なかでも、南満州へ進出の機会をうかがっていたロシアは、日本の進出を警戒して、下関条約が結ばれるや、ただちにドイツフランスとともに遼東半島を清国へ返還するように日本政府に申し入れてきた。これがいわゆる三国干渉である。日本はまだ、これらの大国に対抗できるだけの実力がなかったので、政府はやむなく清国から3000万テール(約5000万円)の賠償金を追加して、遼東半島の返還に応じることにした。国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、「臥薪嘗胆がしんしょうたん の合言葉が叫ばれるようになり、政府もそうした気運のなかで軍備拡張と国力の充実をはかった。

中国の故事に基づくもので、現在の苦境を耐え忍んで将来の発展をはかるという意味である。

下関条約により植民地となった台湾を統治するため、日本は海軍大将樺山資紀かばやますけのり(1837〜1922)を台湾総督に任命した。台湾では「台湾民主国」が宣言されるなど、日本の統治への抵抗運動がおこったが、日本は軍政をしき軍隊を出動してその鎮圧にあたった。現地住民の抵抗はその後も続いたが、台湾総督府条例(1896年制定、97年改正して台湾総督府官制)によって民政に切りかえた日本は、軍人の総督を補佐した民政局長後藤新平ごとうしんぺい(1857〜1929)のもとで、「旧慣尊重」の方針をとると同時に、警察力の強化、土地調査事業の実施、アへン、樟脳しょうのうの専売の施行、度量衡の統ーなど、植民地経営の事業を本格的に推進し、抗日ゲリラはひとまず鎖静化して、台湾の植民地支配は比較的安定したものとなった。

朝鮮問題と日清戦争

朝鮮支配への契機1875江華島事件
1876日朝修好条規(日本による不平等条約)
1882壬午軍乱(壬午事変)
 背景:大院君(攘夷・親清派)と閔妃政権(開国・親日派)の対立
 経過:大院君、閔氏追放のクーデタ、日本公使館を包囲(漢城)
 結果:失敗したが、閔氏政権は親清派へ
済物浦条約(朝鮮の賠償と謝罪、日本軍の漢城駐留)
朝鮮国内の親日派と親清派の対立1884甲申事変
 背景:事大党政権(閔妃、親清派)と独立党(金玉均朴泳孝ら親日改革派)の対立
 経過:金玉均ら独立党のクーデタ
 結果:清国側の反撃で失敗
1885
漢城条約(朝鮮の謝罪と賠償、公使館護衛のための日本軍駐留を承認)
1885天津条約(日本全権・伊藤博文、清国全権・李鴻章)
 ① 清国両国の朝鮮からの撤兵
 ② 朝鮮派兵時の相互事前通告
1889防穀令事件
 背景:朝鮮が防穀令(米・大豆の対日輸出禁止)を発令
 経過:日本側が賠償請求し、外交問題化
 結果:1890年、防穀令解除。1893年、日本へ賠償金11万円
1894甲午農民戦争(東学党の乱)
 背景:農民が民族教団(東学)に率いられて蜂起
 経過:朝鮮政府は清国に救援を要請
 結果:清国軍出兵。天津条約に基づき日本に通告、日本軍も出兵
朝鮮国内の親露派の台頭1894〜95
1895.4.7
日清戦争
下関条約(日本側全権:伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権:李鴻章)
 ①清国は朝鮮の独立を許可
 ②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲 ③賠償金2億両
1895.4.23三国干渉(ロシア・ドイツ・フランスが、遼東半島の返還を勧告)
清国へ遼東半島を返還(清国より3000万両賠償)
1895.10.8閔妃殺害事件
 背景:三国干渉後、朝鮮における日本の地位低下、親露政策で閔妃が政権を奪回
 経過:日本軍による閔妃殺害
 結果:日本の勢力が後退し、ロシアが台頭
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
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