文明開化
東京名勝筋違目鏡橋之景(歌川広重(3代)画/画像出典:江戸東京博物館)© Tokyo Metropolitan Foundation for History and Culture

文明開化

> >


文明開化

明治維新は「王政復古」というかたちで行われたため、初めは復古的色彩もかなり強かった。しかし、政府が「百事一新」「旧幣打破」を唱えて近代化政策を推進し、熱心に欧米の新しい制度・知識・文物を取り入れたので、教育・文化・思想・国民生活など、広い範囲にわたって大きな影響を与え、いわゆる文明開化と呼ばれる風潮が急速に広がった。

文明開化

明治維新は「王政復古」というかたちで行われたため、初めは復古的色彩もかなり強かった。しかし、政府が「百事一新」「旧幣打破」を唱えて近代化政策を推進し、熱心に欧米の新しい制度・知識・文物を取り入れたので、教育・文化・思想・国民生活など、広い範囲にわたって大きな影響を与え、いわゆる文明開化と呼ばれる風潮が急速に広がった。

宗教

政府は初め、王政復古によって「神武創業の始」に立ち帰る趣旨から、祭政一致の立場をとり、神祇官じんぎかん(のち神祇省)を再興し、多くの国学者・神道家を登用した。そして宣教師をおき、神道を中心とした国民教化をめざして1870(明治3)年に大教宣布の勅を出し、ついで神社制度を設け、官弊社・国弊社など神社の社務を定め、祭式を統ーするなど、政府の保護のもとに神社神道の普及に力を注いだ。1869(明治2)年、戊辰戦争の戦死者を合祀ごうしするため政府により没けられた招魂社しょうこんしゃは、1879(1月治12)年には靖国神杜と改められ、別格官幣社に位置づけられた。

こうした過程で天皇親政が強調され、国民に対しても天皇が古くからの日本の統治者であるという宣伝が広く行われ、その神格化が進んだ。天長節てんちょうせつ紀元節きげんせつが国の祝日と定められたのも、こうしたねらいの一つであった。

また、1868(明治元)年、政府の出した神仏分離令をきっかけに、廃仏毀釈はいぶつきしゃくの運動が全国的に広まり、寺・仏像・仏具・経典なとが破壊、あるいは焼かれたため、仏教界は大打撃を受けた。

しかし、神道による国民教化と仏教の排斥は国民に十分には受け入れられず、しだいに退潮に向かった。1872(明治5)年、神祇省は教部省と改められ、仏教の僧侶も教導職(宜教使の後身)に任じられるようになった。そして、その教部省もさしたる成果をあげることなく、1877(明治10)年には廃止された。

一方、キリスト教は新政府成立後も依然として五榜の掲示によって禁止され、長崎の浦上では多くの信徒が捕らえられ、改宗を強制されるという事件がおこり(浦上教徒弾圧事件)、列国はこれに激しく抗議した。その後、岩倉使節団が欧米を視察したとき、キリスト教禁教が条約改正交渉に悪影響を与えていることを知って、政府は1873(明治6)年2月、ようやく禁教を解いた。

教育制度

近代化を有効に進めるためには、国民の知識の水準を高めることが必要であった。そこで、政府は国民の啓蒙・開明化に力を注いだ。その手初めとして、欧米の近代的な学校教育制度の採用をはかり、1871(明治4)年、教育行政を担当する文部省を設置し、ついで翌1872(明治5)年、学制を公布して、男女を間わす国民各自が身を立て、智を開き、産を治めるために学間が必要であるとする、一種の功利主義的教育観に立脚する国民教育の建設につとめた。

その結果、全国に2万校以上の小学校が設立され、学校教育が急速に広まった。学校教育の急速な普及は、江戸時代の寺子屋における庶民教育の仏統があったからてあろう。

こうして1875(明治8)年には男子の小学校就学率は50%を超えた。しかし、女子は18.7%にすぎず、男女の初等教育の間に、まだ大きな格差があったことは否定できない。また、農村では貴重な労働力である児童の通学に反対する声もあり、授業料や学校設立費の負担も軽くはなかったので、小学校の廃止を求める農民一揆がおこった地域もあった。

学制

主にフランスを範とし、全国を8大学区、各大学区を32中学区、各中学区を210小学区にわけ、各学区に大学・中学·小学校各1校を設置する計画であった。しかし、この計画はあまりに理想に走りすぎて、当時の国民生活の実情に合わず、完全には実現できないまま、1879(明治12)年の教育令公布によって廃止された。

また政府は、幕府の昌平坂学問所や開成所を受け継いで、1869(明治2)年、大学南校(のち東京開成学校)を設置し、日本人の洋学者や外国人教師を招いて、洋学を中心とした高等教育にあたった。同校はその後、東京医学校と合併し、1877(明治10)年、日本最初の西洋風の近代的総合大学である東京大学となり、学術研究と高等教育の中心となった。さらに、女子教育の面でも、1872(明治5)年、東京に官立女学校、ついで女子師範学校を設けて、その普及につとめた。

ー方、民間においても福沢諭吉(1834〜1901)の慶應義塾新島襄にいじまじょう(1843〜90)の同志社などの私立学校が創設され、特色ある学風のもとに新しい時代にふさわしい人材の育成にあたった。

国民生活

文明開化の風潮は、東京などの大都会を中心に国民の生活様式の面にもいろいろと現れた。1872(明治5)年銀座一帯の火災を機会に、政府は防火・美観を考慮して銀座通りに煉瓦造の洋風建築物を建て並べさせた。1871(明治4)年には散髪脱刀令さんぱつだっとうれいがでて、散切りの頭髪や洋服の着用がしだいに広まった。街路にはガス灯やランプがともり、人力車、馬車などが走るようになった。食事の面でも肉食の習慣が西洋から伝わり、とくに牛肉が喜ばれた。また、政府は西洋諸国の例にならい、これまでの旧暦(太陰暦)を廃止して太陽暦を採用することとし、旧暦の明治5年12月3日を太陽暦の明治6(1873)年1月1日とした。そののち、日曜の休日制なども採用された。

文明開化の風潮のなかで、一方では日本古来の伝統的な芸術や美術工芸品が見捨てられ、由緒ある寺社・古城などが破壊されるなど、多くの貴重な文化財が失われそうになった。奈良の興福寺の五重塔がわずか25円(現在の貨幣価値で40万〜50万円くらい)で売りに出されたのもこのころのことである。

明治初期に来日したドイツ人医学者ベルツは、日本の若い知識人が日本の伝統的文化や歴史を軽視し、古いものをすべて否定しようとしているありさまに驚き、自国の固有な文化や歴史を尊重しないようでは外国人からも尊敬されないだろうと批判している

しかし、このような西洋の風俗・習慣が広まったのは主として東京、横浜などの大都会や開港場、官庁・学校・軍隊などであり、農村部にはあまり広まらず、地方の農村では相変わらず旧暦によって年中行事が行われるなど、江戸時代以来の伝統的な生活習慣が続いていた。生活文化の面では、都会と農村の違いはまだまだ大きかったのである。

思想

文明開化の風潮とともに思想界も活発化し、人間の自由·権利や個人の自立を尊重する欧米の新しい自由主義·功利主義の思想・学問やそれに基づく政治制度・経済組織・法律などの新知識が啓蒙思想家たちによって紹介・主唱され、世に受け入れられるようになった。

とくに福沢諭吉は『学問のすゝめ』を書いて、人は生まれながらに貴賤の別があるのではなく、学問を学んで、封建的な身分意識を打破すべきこと、自主・自由の精神に基づく個人の独立が一国の独立を支えるものであることを説いた。同書は初編から17編までつぎつぎに出版されたが、その発行部数は1880(明治13)年までに約70万部に達するという驚異的なベストセラーとなった。また、福沢は『文明論之概略』を著して、人間の智徳の進歩が文明を進める大きな力であることを唱えた。こうした福沢の思想は、新しい時代のなかで、青年たちに大きな影響を与えた。幕末の文久年間『鄰艸となりぐさ』(『隣草』)を書いて西洋の立憲政治について紹介し、その採用による改革を主張した加藤弘之(1836〜1916)は、維新後も引き続き『立憲政体略』『真政大意』『国体新論』を書いて、立憲政治の知識を広め、天賦人権論 を紹介した。しかし1880年代に入ると社会進化論の立場に立って天賦人権論を否定するようになった。中村正直(1832〜91)は『西国立志編』『自由之理』を翻訳して、自由主義、功利主義の思想を伝えた。西周にしあまね津田真道(1829〜1903)らとともに幕末に幕府の留学生の一人としてヨーロッパに学んだが、明治初期には哲学や論理学などの著作を著した。津田は万国公法(国際法)や法律学を学んで、こうした分野の著作活動にあたり出版の自由、廃娼、国会の早期設立などを唱えた。また、岩倉使節団に同行してフランスに留学した中江兆民(1847〜1901)は、帰国後、急進的な自由主義の思想家ルソーの「社会契約論」を抄訳して『民約訳解』と題して公刊し、人間の自由と平等の思想を広め、自由民権運
動の発展に影響を与えた。ー方、田口卯吉(1855〜1905)は文明の発展という文明史観の立場から『日本開化小史』を書いて、新しい歴史の見方を世に示した。こうした啓蒙思想家たちが集まったのは、1873(明治6)年森有礼もりありのりの提案により西洋の学会にならって結成された明六社めいろくしゃであった。

明六社

明六社はアメリカ帰りの外交官森有礼(旧薩摩藩士、のち文部大臣)が、明治6(1873)年8月、欧米諸国の学会にならった学術、談話の会の設立を志し、西村茂樹(1828〜1902)らに相談したことに始まる。正式の発足は翌年2月で、『明六雑誌』の発行(毎月2〜3回、各4000〜5000部)や講演会、談話会の開催などにより、新しい学術・知識、思想などの啓蒙活動を進めた。森・西村のほか、福沢諭吉・加藤弘之・中村正直、津田真道、西周、神田孝平かんだたかひら(1830〜98)らの洋学者が参加した。彼らは森を除いて西南雄藩の出身ではなく、その多くは、中・小藩の出身ながら、幕末には幕府の洋学機関に勤務し、幕臣として洋学の研究、教育や洋書の翻訳などにあたった人々である。維新後、福沢を除く大部分が明治政府に出仕し、その新知識を大いに活用している。旧幕府の人材育成政策が、日本の近代化に大きな役割を果たした事実がうかがわれよう。しかし、1875(明治8)年6月の讒謗律ざんぼうりつ・新聞紙条例の制定など、政府が自由な言論活動に対する取締りを強化したため、明六社の活動はふるわなくなり、1875(明治8)年11月をもって『明六雑誌』も廃刊となった。

こうした新思想や新知識の普及に大きな役割を果たしたのが、新聞·雑誌、出版事業の発達である。新聞はすでに幕末から出されていたが、1870(明治3)年、日本最初の日刊新聞として『横浜毎日新聞』が発行されたのをはじめ、1870年代に『東京日日新聞』『日新真事誌』『朝野新聞』『読売新聞』『郵便報知新聞』『朝日新聞』などが相ついで創刊された。その多くは、政治問題などを取りあげて論評したり、政治的主張を展開したりする政論新聞(大新聞)の色彩が強かった。なかには江戸時代の読売瓦版の伝統を受け継ぎ、社会におこった出来事を伝える小新聞もあった。このような多数の出版物が発行できるようになった理由の一つは、本木昌造もときしょうぞう(1824〜75)が鉛製活字の最産に成功したことであった。

お雇い外国人

明治政府は、先進国の制度・知識・技術などを取り入れて近代化を進めるため、欧米諸国から多くの技術者・学者・教師、軍人たちを招いた。その数がピークに達したのは1870年代のなかごろで、政府が雇い入れた外国人は500人を超えた。国別にみると、当時はイギリス人が過半数を占め、ついでフランス人・アメリカ人、ドイツ人の順であった。1880年代以降、しだいに日本人が彼らにかわったので、1892(明治25)年には130人と最盛期の4分の1に減っている。このころにはドイツ人の比率が高まったが、これは法制度や軍事制度(陸軍)などの分野で、ドイツに学ぶようになったことの反映である。お雇い外国人たちは、日本人をはるかにしのぐ高給取りであった。例えば1870(明治3)年、鉄道建設にあたって初代建袷所長となった28歳のイギリス人モレル(Morell, 1841-71)は、初年度の月給は洋銀(メキシコ銀)700ドル、3年目からは1000ドル(当時1ドルは約1円)の契約で、日本政府の最高官職である太政大臣の月給800円(参議500円)を上まわった。最下級のお雇い職工でも月給72ドルと、日本人職工のおよそ10〜15倍であった。

広告