平城京 平城天皇 平城京と地方社会
平城宮 朱雀門(復元)Wikipedia

2. 平城京と地方社会

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平城京と地方社会

6世紀の末以来、都は奈良盆地南部の飛鳥・藤原の地に営まれてきたが、710(和銅3)年、元明天皇のときに、藤原京から盆地北部の平城京へと遷都が行われ、新しい宮都が営まれた。のちに山背国の長岡京・平安京に遷るまで平城京を都とした時代を奈良時代という。

平城京と地方社会

平城京の時代
平城京 図出典:奈良文化財研究所
平城京の時代
平城京 図出典:奈良文化財研究所

6世紀の末以来、都は奈良盆地南部の飛鳥・藤原の地に営まれてきたが、710(和銅3)年、元明天皇のときに、藤原京から盆地北部の平城京へと遷都が行われ、新しい宮都が営まれた。のちに山背やましろ国の長岡京・平安京に遷るまで平城京を都とした時代を奈良時代という。

平城京は、碁盤の目状に東西南北に走る道路によって整然と街区が区画された、条坊制をもつ都市であった。京は中央を南北に走る朱雀大路すざくおおじによって東の左京と西の右京にわけられ、北部中央には宮城(平城宮)があって、その内には天皇の日常生活の場である内裏、政務・儀礼の場である大極殿だいごくでん朝堂院ちょうどういん、そして二官八省と呼ばれる中央官庁が位置する官庁地区が配されていた。

京内には、官設の東西の市や貴族・官人・庶民の住宅のほか、大安寺薬師寺・元興寺などの、もと飛鳥地方にあった寺院が移されて、大陸風の瓦葺き・礎石建ちの寺院建築がいらかを誇っていた。人口は約10万人といわれる。

平城宮跡(奈良市)は、保存されて大規模な発掘調査が行われ、宮殿・官庁の遺構や木簡などの遺物が相ついで発見されて、古代の宮廷の日常生活やそれを支えた財政構造などが明らかにされている。また平城京の発掘調査では、長屋王の邸宅をはじめとした各階層の都市生活の様相が明らかになっている。その結果、宮城近くの五条以北には貴族たちの大規模な邸宅が並び、遠くには下級官人たちの小規模で簡素な住宅が占地していたことがわかった。都の左京・右京には官営の東市・西市が設けられ、地方から運ばれた租税などの産物、役人に禄として支給された布や糸など、都の造営に雇われた人々に支給された銭などがここで交換され、東西の市司いちのつかさが交易を監督した。

木簡

木簡は木の札に文字を墨書したもので、古代には紙の文書と並ぶ一般的な情報伝達手段であり、文書行政のなかで紙と木が使いわけられていたのであった。地中でも水分の多い所に遺存して残っており、平城宮跡をはじめ、太宰府跡や多賀城跡などの各地の古代官衙遺跡かんがいせきなどから、これまでに40万点にのぼる木簡が出土している。内容は、役所や官人が出した公文書・書状などの文書、諸国から都に送る貢進物に付けられた荷札、文字習得のために練習した習書・落書などに分類される。文書からは中央・地方の行政実務、荷札からは中央国家を支えた財政システム、習書からは文字文化の普及度などについて、それぞれ当時の実態がうかがえる。古代国家の立場で編纂された文献史料とは異なる、当時の日常的な行政・生活を直接物語る史料として、日本古代史の重要な史料となっている。


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長屋王邸宅と長屋王家木簡

平城京左京三条二坊の一・二・七・八の四坪(6万㎡)という広大な敷地を占める奈良時代前期の貴族邸宅跡が、発掘調査によって明らかにされた。
全体を築地土塀で囲まれた邸宅内は、掘立柱塀に囲まれたなかに大規模な中心建物が建つ内郭を中心に、住居、家政機関、雑舎・倉庫などの地区に区画され、整然と建物群が並んでいた。そして邸内から出土した3万5000点にのぼる大量の木簡から、奈良時代前期の皇族政治家、長屋王がここに住んでいたことがわかった。長屋王の変(729年)で長屋王が死ぬと邸宅は転用されていくが、長屋王家木簡によって、王家の日常生活や家政機関の運営、そこに働くさまざまな職種の人々、王家を支えた経済的基盤などの実態を生き生きと知ることができた。

平城京の時代
長屋王邸宅復元模型
①長屋王神殿 ②吉備内親王御所 ③舎人所 ④家令所 ⑤厨所 ⑥作業所 ⑦持仏堂? 新詳日本史―地図資料年表

長屋王邸の生活

長屋王についての文献史料や長屋王家木簡によって、王たち上級貴族の生活の様子が垣間みえてくる。住生活については、平城京左京三条二坊の長屋王邸宅の発掘調査の成果で概観することができる。広い邸内が、公的・儀礼的な中心建物の空間、長屋王や夫人たちの住居のある私的生活空間、家政を支える家政機関の空間、多くの職人・雇人らの職場ともなる雑舎・倉庫などの空間に区画されていることが注目される。

懐風藻かいふうそう』には、左京三条二坊とは別の長屋王の佐保宅でよく行われた宴会のときの漢詩が多く載っているが、それによれば、園池や梅の木のある庭園に面した建物で饗宴があり、楽曲が演奏され舞が演じられるなかで美酒が振る舞われ、外国使節を迎えて漢詩を贈答して交流をはかるようなこともあった。宴では和歌も詠まれており、『万葉集』には聖武天皇が長屋王邸内の建物をほめた歌がみられる。
食生活の面では、夏に氷室から氷を運ばせていたことや、牛乳を運ばせ、煮詰めてチーズをつくっていたことなどが長屋王家木簡からわかる。また邸内では、馬のほかに犬や鶴などの生き物を飼っていた。
長屋王が仏教をあつく信仰したことは、大般若経600巻の書写という文化活動を2度行ったことが、今日に伝わる長屋王願経によって知られるほか、長屋王家木簡によって、邸内に僧尼がいたことや、写経とも関係深い書法模人しょほうもじん帙師ちっし・絵師などの職人たちが邸内で働いていたことが明らかになった。

中央と地方を結ぶ交通制度としては、都を中心に畿内から七道の諸国に向かう官道が整備され、約16kmごとに駅家うまやを設ける駅制えきせいがしかれ、役人が公用に利用した。地方では、駅路と離れて郡家などを結ぶ道(伝路)が交通体系の網の目を構成した。各地で、一定の規格の道幅(6〜12m)をもって直線的に伸びる古代の官道遺跡が発掘調査により発見されている。

諸国には中央から派遣される国司の統治拠点としての国府が、その下の郡には在地豪族である郡司の行政拠点となる郡家が地方の役所として営まれた。

国府・郡家

律令制の地方制度としては、全国の国々が畿内(のちの大和・河内・和泉・山城・摂津の五畿内)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)にわけられていた。
諸国はさらに国・郡・里(郷)の地方行政組織に編成された。国は複数の郡を統括する領域であり、郡(評)は律令制以前の国造制の「国」や屯倉みやけを継承したと考えられる。里(郷)は戸籍に編成された50戸を1里として郡の下に設定された。
国には中央から貴族が国司として派遣されて国内統治にあたり、そのもとで郡には在地豪族が郡司に任じられ、里(郷)には里(郷)長がおかれてそれぞれの領域を管轄した。
地方統治のための役所として国司が拠点としたのが国府で、国庁(政務・儀礼を行う政庁)・曹司そうし(部門別役所)・正倉院(倉庫群)・くりや(給食センター)・国司館(公邸)・駅家・国府津などの施設が集まり、国分寺も近くに営まれて国内の政治・経済・文化・交通の中心として地方都市の様相をもった。
また、郡司が拠点とした郡家も、郡庁・曹司・正倉院・厨・郡司館・駅家などの施設が集まり、近くに郡司氏族の氏寺も営まれるなど、郡内の中心であった。
これら国府・郡家の地方官衙の遺跡が、各地の発掘調査により明らかになっている。

伯耆国ほうきのくに政庁の復元模型

平城京の時代
国府 伯耆国政庁の復元模型 新詳日本史―地図資料年表

政庁(国庁(国衙こくが))は中央政庁のミニ版であり、建物配置には共通する画一的な構造がみられる。政庁では、国司らが政務や儀式を行った。周囲を築地塀ついじべいでめぐらし、正殿の南に前殿、東西に40m近い脇殿がある。政庁を中心として正倉、兵庫などがあった。

駿河国志太郡家するがのくにしだぐうけ(10世紀前半頃)の復元模型

平城京の時代
郡家 駿河国志太郡家 新詳日本史―地図資料年表

稲を収納する正倉、館などの建物からなっていた。建物の規模は比較的小さく、板塀と土塁で囲まれており、政庁と比べると建物配置には多様性が見られる。
10世紀の志太郡家に正倉がないのは、国司が直接田堵たと負名ふみょう)から徴税したからである。

7世紀後半には、天武天皇の時代に唐の銭貨にならって富本銭が鋳造され、一部で利用されたが、708(和銅元)年、武蔵国から銅が献上されると、政府は元号を和銅と改め、和同開珎わどうかいちんを鋳造した。その後もしばしば銅銭は国家的に鋳造され、10世紀半ばころの乾元大宝けんげんたいほうまで日本独自の銭貨が13回鋳造された。
和同開珎からあとの銭貨を本朝(皇朝)十二銭と呼ぶこともある。銭貨は宮都造営費用の支払いなどに利用され、さらにその流通をはかって蓄銭叙位令ちくせんじょいれいが発せられたが、京・畿内を中心とした地域外の地方では、稲や布などの現物貨幣による交易が広く行われていたため、銭貨の流通は国府周辺などを除いて盛んにはならなかった。

政府は、鉄製の農具や進んだ灌漑技術を用いて耕地の拡大につとめたり、長門の銅、陸奥の金などの鉱業資源の発掘も進めた。また養蚕や高級織物の技術者を地方に派遣して地方での生産を促し、租税のための各地での特産品生産が進んだ。

律令による中央集権的な国家体制が実現したことにより、充実した力をもった中央の政権は、支配領域の拡大にもつとめた。東北では、政府が蝦夷えみしと呼んだ在地の人々に対して、7世紀半ばころから積極的に支配下に取り込む政策が追求された。唐の高句麗遠征に始まる東アジアの動乱のなかで、大化改新の直後には日本海側を北上して渟足柵ぬたりのさく(新潟市付近)・磐舟柵いわふねのさく(新潟県村上市付近)が設けられ、ついで斉明天皇の時代には安倍比羅夫あべのひらふが秋田やそれ以北の蝦夷とも関係を結んだ。しかし、この時代の政府の支配領域は、まだ日本海沿いの拠点周辺の範囲にとどまっていた。

8世紀には、さらに政府の支配領域を広げるため、蝦夷に対する征東政策が進められた。日本海側には712年に出羽国がおかれたのち秋田城(秋田市)が築かれた。太平洋側には7世紀後期の郡山遺跡(仙台市)に続けて724年に多賀城(宮城県多賀城市)が築かれ、それぞれ出羽・陸奥の政治とともに蝦夷対策の拠点となった。蝦夷に対する政策は、帰順する蝦夷には禄や饗食を給する饗給きょうきゅうを行う一方、反抗する蝦夷は武力でおさえつけるという二面をもっており、さらに夷をもって夷を制するという政策がとられた。
一方、南九州の隼人はやとと呼ばれた人々の地域にも713年に大隅国がおかれ、多褹たね(種子島)・掖玖やく(屋久島)をはじめ、薩南諸島の島々も政府との交易下に入ることになった。

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