幕府と御家人 東国の範囲と関東知行国地図
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幕府と御家人

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幕府と御家人

開発領主として在地に勢力を扶殖してきた武士団、とくに東国武士団は幕府のもとに御家人として組織され、地頭に任命されて、強力に所領を支配することを将軍から保証された。このように、土地の給与を通じて主人と従者が結びつく関係を封建関係といい、封建関係によって支配が行われる政治・社会制度を封建制度と呼んでいる。

幕府と御家人

平安時代後期以来、武士は有力者の庇護を求めて主従関係を結んでいった。自己の官位姓名を記した名簿みょうぶを提出して臣従の証とし、上皇・女院・摂関・貴族たちをあるじと仰いだのである。当時の主従制における主人の従者への拘束力は後世に比してはなはだ弱く、一人の武士が複数の主人をもつこともごく普通に行われていた。

源平の争乱が始まると、関東地方の武士たちは源頼朝を自らの権益を守る者として認識し、競ってその従者となった。頼朝の勢力が拡大するにつれ、彼に服属する武士は全国に広がっていく。将軍と直接の、また当時としては非常に強固な主従関係を結んだ武士は、とくに御家人ごけにんと呼ばれた。主君にしたがう従者を一般に家人けにんといったが、将軍への敬意から「御」の字が加えられたわけである。

頼朝は御家人に対し、主に地頭に任命することによって、先祖伝来の所領の支配を保証した。これを本領安堵ほんりょうあんどという。国衙や近隣諸勢力との争いに絶えず悩まされていた武士(在地領主)にとって、「一所懸命いっしょけんめい(一つの所に命をかける)の地」という言葉がしばしば用いられたほど大切だった本領の領地を認めてもらうことは、何物にもかえがたい御恩ごおんであった。御恩にはもう一つ、新恩給与しんおんきゅうよがあった。これは抜群の功績があったときに、新たな領地を与えられることをいう。

御恩を受けた御家人は、従者として奉公ほうこうを果たす義務があった。彼らは戦時には将軍のために命を懸けて戦った。『平家物語』は斎藤実盛さいとうさねもり(?〜1183)という武士に「(東国の武士は)いくさは又、親もうたれよ子もうたれよ、死ねば乗りこえ乗りこえたたかふに候」と語らせているが、彼らはの存続と繁栄を願い、自らの一身を捨てて苛烈に戦ったのである。また、戦時における戦闘とならんで平時における奉公は、番役の勤仕ごんじであった。一定期間、京都に滞在して朝廷の警護にあたる京都大番役、幕府を警護する鎌倉番役がこれである。御家人は家子いえのこ郎党ろうとうと呼ばれる従者を率いて、何年か(不定期)に一度、遠方から京都・鎌倉にやってきた。費用は全て自弁であり、経済的にも過酷な勤めであった。

開発領主として在地に勢力を扶殖ふしょくしてきた武士団、とくに東国武士団はこうして幕府のもとに御家人として組織され、地頭に任命されて、強力に所領を支配することを将軍から保証された。このように、土地の給与を通じて主人と従者が結びつく関係を封建関係といい、封建関係によって支配が行われる政治・社会制度を封建制度と呼んでいる。土地を媒介に御恩と奉公が成り立つ将軍と御家人の緊密な主従関係は、それまでの貴族社会にはみられなかった。鎌倉幕府は封建制度に基づく日本で最初の政権であった。また、東国は頼朝が実力で平定した実質上の幕府の支配地域であり、そのほかの地方でも国衙の任務は守護を通じて幕府に吸収されていったから、守護・地頭の設置によって、日本での封建制度は、初めて国家的制度として歩み始めたと考えられる。

しかし、この時代には京都の朝廷や、荘園領主でもある貴族・大寺社の力がまだ強く残っていた。政治の面でも経済の面でも、幕府と朝廷、幕府と荘園領主という二元的な支配が特徴であった。朝廷は平安時代と同じように国司を任命して形式の上では全国の一般行政を統轄しており、貴族・大寺社は国司や荘園領主として、土地からの収益の多くを握っていた。御家人のなかにも、依然として将軍のほかに主人をもつ者がいた。政治的に朝廷の有力者と結びつこうとする者や、経済的利益を求めて、自己の荘園の本家・領家である皇族・貴族を主人と仰ぐ者などである。例えば、伊勢国の加藤光員かとうみつかずという武士は、頼朝挙兵以来の有力御家人でありながら、京都の後鳥羽上皇には西面の武士として仕え、伊勢神宮の神官大中臣おおなかとみ氏の家人でもあった。

幕府経済に目を転じると、将軍である頼朝は関東知行国関東御陵を所有していた。関東知行国は頼朝の知行国で、関東御分国ごぶんこくともいわれ、最も多いときは9カ国を数えた。頼朝は知行国主として国司を推挙し、国衙からの収入の一定額を取得した。関東御陵は頼朝が本家・領家として支配した荘園や国衙領である。将軍の直轄地であり、鎌倉時代初めには平家没官領もっかんりょうといわれる平氏の旧領約500カ所と源氏の本領とから成り立っていた。知行国といい荘園といい、将軍はほかに例をみないほどの巨大な領主であり、この膨大な所領が幕府の経済基盤をなしていた。この事態は、幕府が荘園・公領の経済体制のうえに築かれた権力体であったことを如実に物語っている。御家人への土地給与が土地自体の給与ではなく、地頭職という土地への権利の給与であることも、幕府と荘園制の密接な関係を裏付けている。幕府は確かに封建的な政権であった。しかし荘園制を否定することのできない、未熟な政権でもあった。それゆえに幕府と朝廷とは、併存し得たのであった。

幕府と朝廷は、農民や商人に対しては支配者としての共通面をもっていた。幕府は守護・地頭を通じて全国の治安維持にあたり、年貢を荘園領主に上納しない地頭を罰するなど、一方では朝廷の支配や荘園・公領の維持を助けた。けれども幕府は、もう一方では全国の支配の実権を握ろうとした。そのために守護・地頭と国司・荘園領主との間で次第に紛争が多発するようになった。やがて在地で荘官(多くは下司)が地頭にかわっていくと、幕府による現地支配がいっそう強まって、対立は深刻なものになっていった。

幕府の経済的基盤

関東知行国は、将軍が知行国主である国をいう。将軍は一族や有力御家人を朝廷に推薦して国司とし、目代を派遣して国衙を支配し、国衙領から税を徴収した。頼朝は9カ国を知行したが、源実朝の時代には4カ国に減少した。以後、幕末まで4〜6カ国を数えたが、時代を通じて分国であり続けたのは駿河・相模・武蔵の3カ国にすぎない。

関東御陵は将軍の直轄領である。すなわち将軍が本家・領家として支配した荘園や国衙領である。地頭職は御家人に給付され、この土地からの税は幕府の主要な財源になった。これを歴史的由来によって分類すると、①源氏の本領、②平家旧領、③承久没収地となる。
①と②は源平の争乱後に頼朝が獲得したもので、合わせて500カ所にのぼる。③は承久の乱の勝利によって幕府が得た京方貴族・武士の所領3000カ所である。
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関東御陵の支配にあたっては、幕府の政所がこれを統轄し、税を徴収した。鎌倉時代中期以降、政所は北条氏の掌握するところとなり、御陵の多くはしだいに北条氏の所領と化していった。

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