彦根屏風
彦根屏風(国宝/作者不明/彦根市蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

寛永期の文化

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寛永期の文化

  • 時代: 寛永期(1624〜1643)前後
  • 担い手: 幕府・朝廷・上層の町衆
  • 特徴: 桃山文化を継承した豪華な文化・幕藩体制に順応した文化
  • 学問: 朱子学
  • 建築: 桂離宮(数寄屋造)、日光東照宮(権現造)・陽明門、修学院離宮(数寄屋造)
  • 絵画: 風神雷神図屏風(俵屋宗達)、大徳寺方丈襖絵(狩野探幽)、彦根屏風
  • 工芸: 船橋蒔絵硯箱(本阿弥光悦)、色絵花鳥文深鉢(酒井田柿右衛門)・有田焼(伊万里焼)赤絵、薩摩焼・京焼・九谷焼・備前焼・楽焼

寛永期の文化

寛永期の文化

時代寛永期(1624〜1643)前後
担い手幕府・朝廷・上層の町衆
特徴桃山文化を継承した豪華な文化
幕藩体制に順応した文化
学問朱子学 藤原惺窩・林羅山
建築桂離宮(数寄屋造)
日光東照宮(権現造)・陽明門
修学院離宮(数寄屋造)
清水寺本堂
延暦寺根本中堂
崇福寺大雄宝殿
萬福寺大雄宝殿
絵画風神雷神図屏風(俵屋宗達)
大徳寺方丈襖絵(狩野探幽)
彦根屏風
工芸船橋蒔絵硯箱(本阿弥光悦)
色絵花鳥文深鉢(酒井田柿右衛門)・有田焼(伊万里焼)赤絵
薩摩焼・京焼・九谷焼・備前焼・楽焼
文芸仮名草子
俳諧 松永貞徳(貞門俳諧)
大坂の役ののち、幕藩体制の成立と体制整備が行われた元和(1615〜1624)~寛永(1624〜1645)期は、前時代の下剋上の終期を意味し、躍動的であった文化の鎮静をもたらした。桃山文化の豪華さに匹敵するものは、3代将軍家光による権現造日光東照宮の造営に限られたといっても過言ではなかろう。2代将軍秀忠が建造した質素な素木の東照社を家光が今日に伝わる豪華なものに改めたのは、徳川家康東照大権現として、幕府安泰を加護する神としてまつるにふさわしい霊廟の必要を感じたからにほかならなかった。それは将軍権力にのみ許された、豪華さの独占ともいえよう。
日光東照宮
日光東照宮 陽明門 ©世界の歴史まっぷ
逆に、秩序と落ち着きを取りもどしたこの時代にふさわしい建築物の代表といえば桂離宮であり、修学院離宮であった。後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王(桂宮)(1579〜1629)の別邸であった桂離宮は、書院造に茶室の草庵そうあん風も合わせた数寄屋造すきやづくりと、これを取り巻く廻遊式庭園とで成り立っていた。また修学院離宮は、後水尾上皇が自らの洗練された計画をもとに完成させたものであった。
桂離宮
桂離宮 WIKIMEDIA COMMONS
幕府による朝廷統制の秩序のなかで、上皇や親王・公家たちや、京都所司代、京都の上層町人たち、あるいは大徳寺妙心寺の僧侶などは京都を舞台に茶会や歌会を催し、上層文化人のサロン的なつどいがもたれた。そのなかには、土佐派を下敷きに新たな画法を生み出した俵屋宗達(生没年不詳)や、作陶、刀剣などに多才このうえない本阿弥光悦(1558〜1637)らがおり、彼らは画壇を制していた幕府御用絵師狩野探幽(1602〜74)に対して独創的な才能を示した。また茶道・造圏にひいでた小堀遠州(政一、1579〜1647)や生花の池坊なども存在した。
狩野探幽
狩野探幽像(国宝/伝桃田柳栄画/京都国立博物館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
彦根屏風
彦根屏風(国宝/作者不明/彦根市蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

彦根屏風:彦根藩主井伊家の所蔵であったので彦根屏風という。江戸初期風俗画の傑作である。三味線を弾く者や碁をする者など、江戸庶民の生活を描いている。また、髪型や服装などから当時の風俗がうかがえる。狩野派の手法で描かれているが作者は不明。

鎖国状況のもとで、主に影響を与えた外国文化は、支配者である武士の学問・思想、そして常識の源泉となった儒学と中国文化であった。とくに朱子学は君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる学問であったため、幕府や藩にも受け入れられた。京都相国寺の禅僧であった藤原惺窩ふじわらせいか(1561〜1619)は、還俗して朱子学の啓蒙につとめた。その門人の林羅山(道春、1583〜1657)は家康に用いられ、その子孫(林家りんけ)は代々儒者として幕府につかえて学問と教育を担った。

また朝鮮侵略の際、諸大名が連れ帰った朝鮮人陶工の手で、九州・中国地方の各地で朝鮮系の製陶がおこされ、なかでも有田焼唐津焼萩焼薩摩焼などが有名である。とくに有田では磁器の生産が始まり、寛永年間に酒井田柿右衛門(生没年不詳)が中国から赤絵の技法を学び、独自の上絵付の方法を完成した。有田磁器は三様式をもち、古伊万里こいまりが明代末期の赤絵の伝統を受け継ぎ、柿右衛門が純日本的な赤絵をつくり、色鍋島いろなべしまが鍋島藩の窯で独自の色彩をはなった。

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