天平文化 天平文化 律令国家の形成 国家仏教の展開
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4. 国家仏教の展開

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国家仏教の展開

6世紀に伝来し、蘇我氏や厩戸王(聖徳太子)の時代に盛んになった仏教は、7世紀後半には国家的な支援のもとに発展し、地方でも地方豪族の信仰を得て数多くの寺院が営まれた。奈良時代には、仏教は国家の保護を受けてさらに大きく発展し、特に鎮護国家の思想はこの時代の仏教の性格をよく示しており、仏教が国家と緊密に結びついてその支配を支える宗教的背景となっていた。

国家仏教の展開

6世紀に伝来し、蘇我氏や厩戸王(聖徳太子)の時代に盛んになった仏教は、7世紀後半には国家的な支援のもとに発展し、地方でも地方豪族の信仰を得て数多くの寺院が営まれるようになった。奈良時代には、仏教は国家の保護を受けてさらに大きく発展した。特に鎮護国家の思想はこの時代の仏教の性格をよく示しており、仏教が国家と緊密に結びついてその支配を支える宗教的背景ともなっていた。

平城京には多くの寺院の伽藍が建ち並び、宮都に荘厳を加えたが、そのうち遷都前の飛鳥・藤原京時代からの国家的大寺院として、薬師寺(もと本薬師寺)・大安寺(もと大官大寺)・元興寺(もと法興寺(飛鳥寺))や興福寺(もと厩坂寺)があり、平城京で建てられた東大寺・西大寺と、さらに京外の法隆寺を合わせた7カ寺はのちに南都七大寺と呼ばれた。

こうした寺院における仏教研究は、三論さんろん成実じょうじつ法相ほっそう倶舎くしゃ華厳けごんりつ南都六宗なんとろくしゅうと呼ばれる、のちの宗派とは異なる学系を形成した。法相宗には義淵ぎえんが出て、多くの門下生を育てた。華厳宗には良弁ろうべんが出て、はじめ義淵に法相を学んだのち唐・新羅の僧について華厳を学び、東大寺建立に活躍した。また三論に詳しい道慈どうじや民間に布教した行基ぎょうきらが、さまざまな事業に活躍した。僧侶は宗教者であるばかりでなく、当時、最新の文明を身につけた一流の知識人でもあったから、玄昉のように聖武天皇に重用されて政界で活躍した僧もあった。

日本への渡航にたびたび失敗しながらも、戒律を伝えるため、ついに渡日した唐の鑑真がんじんやその弟子たちの活動も、日本の仏教の発展に寄与した。当時、正式な僧侶となるには、まず得度とくどして修行し、のちに授戒じゅかいを受けることが必要とされたが、授戒の際に重要な戒律のあり方を鑑真に学んだのである。聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇は、東大寺に設けた戒壇かいだんにおいて鑑真から戒を受けている。鑑真はのちに唐招提寺とうしょうだいじをつくり、そこで死去した。同寺に伝わる鑑真像(乾漆像)は、鑑真生前の姿を写したもので、苦難を乗り越えて日本に仏教を伝えた高僧の慈愛と気高さをよく伝えている。のちに遠隔地の受戒者のために、中央の東大寺の戒壇に加えて、九州の筑紫観世音寺かんぜおんじ、東国の下野薬師寺しもつけやくしじにも戒壇が設けられて、「本朝三戒壇」と称された。

鑑真

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難破する船と鑑真『東征伝絵巻』

鑑真は688年、唐の長江河口近くの揚州で生まれ、長安・洛陽で仏教を学び、淮南に戻って戒律を教え広めて名を高めた。伝戒師を求める日本からの入唐僧栄叡ようえい普照ふしょうらの懇請を受けて渡日を決意したが、難破などで5回も渡海に失敗し、自らは失明してしまう。しかし、753(天平勝宝5)年に遣唐使の帰国船に乗ってついに日本に渡ることに成功した。翌年平城京に入り、東大寺に迎えられた。その年、大仏殿前に戒壇を設けて、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇ほか、多くの僧侶が鑑真から受戒した。758(天平宝字2)年に大和上だいわじょうの号を授けられ、大僧都の任は解かれる。のち、東大寺から唐招提寺へと移った。伝記に淡海三船おうみのみふねが著した『唐大和上東征伝』(779(宝亀10)年成立)がある。

一方で、仏教は律令によって国家から厳しく統制を受けており、一般に僧侶の活動は寺院内に限られていたが、なかには行基のように、民衆への布教とともに用水施設や交通路沿いに橋や救済施設をつくるなどの社会事業を行い、はじめ国家から弾圧を受けながらも多くの民衆に支持された僧もいた。のち行基は大僧正だいそうじょうに任じられて聖武天皇の大仏造立に協力する。社会事業は善行を積むことにより福徳を生むという仏教思想と結びついており、光明皇后が平城京に悲田院ひでんいんを設けて孤児・病人を収容し、施薬院せやくいんを設けて医療にあたらせたことも、そうした仏教信仰と結びつこう。

外来の仏教が日本の社会に根づく過程では、仏教が現世利益げんぜりやくを求める手段とされたり、在来の祖先信仰と結びついた追善供養ついぜんくようの阿弥陀信仰が行われたりして、仏と神は本来同一であるとする神仏習合思想しんぶつしゅうごうしそうがおこった。これは、すでに中国において在来信仰と仏教との融合による神仏習合思想がおこっていたことにも影響を受けている。

仏教によって国家の安定をはかる鎮護国家の思想はこの時代の国家仏教の特徴であり、聖武天皇による国分寺建立や大仏造立などの大事業も、その仏教信仰に基づいていた。国家による仏教保護により、大寺院は壮大な伽藍や広大な寺領をもったが、こうした造営事業は国家財政に大きな負担をかけるものでもあった。また、政治と仏教が深く結びつくことにもなり、奈良時代末の称徳天皇の時代には、法王となった道鏡どうきょうが政権を掌握して国政を動かし、称徳天皇とともに仏教中心の政治を行うようになった。こうして、一方で仏教は政治化・権力化していったが、他方、山林にこもって修行する僧たちも出て、やがて平安新仏教の母体となっていった。

護国三経金光明最勝王経はこの経を受持する国王を諸天が擁護するといい、仁王経じんのうきょうは帝王がこの経を受持して道を行えば万民も国土も安泰になるとする。これに法華経を合わせて、鎮護国家の仏教経典として護国三経といわれる。
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