北条氏の台頭 北条氏・源氏・藤原北家・皇室系図
北条氏・源氏・藤原北家・皇室系図 ©世界の歴史まっぷ

北条氏の台頭

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北条氏の台頭

1199(正治元)年源頼朝の死後、嫡子頼家が跡を継いだが、18歳の頼家が頼朝と同様に巨大な権力をもつことは歓迎されなかった。北条時政ら宿老たちは頼家から採決権を取りあげ13人の合議制を開始した。合議の中心に位置した頼家の母政子の実家北条氏の台頭は急速に顕著になっていった。

北条氏の台頭

卓越した指導者であり、将軍独裁の政治を推進していた源頼朝みなもとのよりともは、1199(正治元)年正月に53歳で世を去った。前年末、相模川さがみがわの橋供養にのぞんだ帰りに落馬したことが原因とされるが、鎌倉幕府の歴史を描いた『吾妻鏡あづまかがみ』はこの時期の記事を欠いており、詳しい事情はわからない。

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源頼朝のあとを受け継いだのは、嫡子ちゃくし源頼家みなもとのよりいえであった。けれども御家人たちは、18歳の新しい鎌倉殿が、頼朝と同様に強大な権力をもつことを歓迎しなかった。頼朝の死からわずか3ヶ月ののち、北条時政ほうじょうときまさ・大江広元・三善泰信ら幕府の宿老しゅくろうたちは、頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取りあげた。頼家の活動を制限し、その上で御家人の代表である宿老13人の話し合いによる政治運営を開始した。13人の合議制と呼ばれるものがこれである。

13人の合議制

若年の新将軍源頼家の専制をおさえるための制度。構成は、文官として大江広元おおえのひろもと三善康信みよしやすのぶ中原親能なかはらちかよし(広元の兄)・二階堂行政にかいどうゆきまさの4人、頼朝以来の武将として北条時政ほうじょうときまさ北条義時ほうじょうよしとき三浦義澄みうらよしずみ八田知家はったともいえ和田義盛わだよしもり比企能員ひきよしかず安達盛長あだちもりなが足立遠元あだちとおもと梶原景時かじわらかげときの9人である。当時の幕府の有力者を知ることができる。また制度としては、のちの評定衆ひょうじょうしゅう引付衆ひきつけしゅうに連なっていく。

合議の中心に位置したのは、頼家の母北条政子ほうじょうまさこの実家北条氏であった。これ以後、北条氏の台頭は急速に顕著になっていく。
1199(正治しょうじ元)年の末、源頼家の「第一の郎等」といわれた梶原景時が鎌倉を追放された。文武に優れた彼は源頼朝と頼家から厚い信任を受け、和田義盛にかわり侍所別当にも任じられたが、他の有力御家人から激しい非難をあびて失脚した。翌1200(正治2)年正月、梶原景時の一族は駿河国で襲撃を受け、合戦ののちに滅び去った。同国の守護は北条時政であり、彼の指令が駿河の御家人たちに届いていたものと思われる。
1203(建仁3)年、頼家が重病に倒れると、北条時政は政子とはかり、頼家の子一幡いちまんと弟千幡せんまんを後継者に立てた。将軍の権限を2分割し、2人に継承させようとしたのである。頼家と一幡の外祖父比企能員ひきよしかずは反発し、時政を討とうと計画したが、逆に比企能員は北条氏に誘殺され、武蔵国の豪族比企一族は一幡もろとも滅ぼされた。
頼家は伊豆修善寺に押し込められ、千幡が将軍となって源実朝みなもとのさねともを名乗った。北条時政ほうじょうときまさ大江広元おおえのひろもとと並んで政所まんどころ別当になり、将軍の補佐を名目として政治の実権を握った。この時政の地位は執権しっけんと呼ばれ、以後代々北条氏に伝えられていく。

1204(元久げんきゅう元)年、時政ときまさは幽閉中の源頼家を殺害し、翌年にはひそかに実朝さねともを退けて娘婿の平賀朝雅ひらがともまさを将軍職につけようとした。朝雅は信濃源氏の名門の出身で、当時京都守護として活躍していた。陰謀の一環として、幕府の重臣畠山重忠はたけやましげただの一族が滅ぼされた。しかし、この企ては北条政子らの反対にあい、朝雅は京都で殺され、北条時政は引退を余儀なくされた。時政ときまさのあとは、その子の北条義時ほうじょうよしときが受け継いだ。
1213(建保元)年、義時よしとき和田義盛わだよしもりとその一族を滅ぼした。義盛よしもり頼朝よりとも以来の功臣で、梶原景時かじわらかげとき滅亡以後に侍所別当の職に復帰しており、その勢力は侮れなかった。鎌倉を戦火に巻き込んだ和田合戦の末に、義盛よしもりの本家三浦氏を味方につけた北条方が勝利し、義時よしとき政所まんどころと合わせて侍所の別当を兼ね、執権の地位を不動のものとした。

わずか12歳で将軍となった源実朝みなもとのさねともは、しだいに政務に精励するようになり、政所を整備して幕府の訴訟・政治制度の充実につとめた。従来、実朝は北条氏のまったくの傀儡かいらいであったと言われてきたが、最近では、彼の政治への取り組みを積極的に評価しようとする説が有力になっている。しかし、将軍としての実朝が、彼を擁する北条氏の強い影響下にあったことは疑いがない。彼は個人的には武芸よりも公家文化に親しみ、和歌や蹴鞠を愛好し、妻も貴族坊門ぼうもん家から迎えた。官位の昇進を望み、若くして高位高官にのぼっている。また、禅僧栄西えいさいや宋人陳和卿ちんなけいらと交わり、とくに後者の勧めに従って渡宋しようともした。この試みは船が座礁して果たせなかったが、実朝の武士に似つかわしくないこうした行動は、彼のおかれた過酷な環境と関係があったのかもしれない。

1219(承久元)年正月、源実朝は源頼家の遺児の公暁くぎょうによって、右大臣就任の式典の途中、鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されてしまう。公暁が誰に操られていたのかは、北条氏説、三浦氏説があり定かでない。結局、公暁も殺されて、源氏の正統は3代27年で断絶した。北条義時は親王を奉じて将軍に立てたいと願ったが、後鳥羽上皇はこれを許さなかった。そこで源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経ふじわらのよりつねが、後継者として鎌倉に迎えられた。
1226(嘉禄2)年に将軍となり、これを摂家将軍藤原将軍という。将軍とは名ばかりで、実権は執権北条氏の手中にあった。

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