倒幕運動の展開 イギリス公使館焼打ち事件
長州奇兵隊の隊士(一部)(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

倒幕運動の展開

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倒幕運動の展開

倒幕運動の展開

尊王攘夷運動 八月十八日の政変
尊王攘夷運動の展開地図 ©世界の歴史まっぷ

いったん幕府に屈服した長州藩では、攘夷の不可能なことをさとった高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允、1833〜77)らは、幕府にしたがおうとする藩の上層部に反発し、高杉は奇兵隊を率いて1864(元治元)年12月に下関で挙兵し、藩の主導権を握った。この勢力は領内の豪商·豪農や村役人層とも結んで恭順の藩論を転換させ、軍制改革を行って軍事力の強化をはかっていった。

長州藩の藩論が一変したため、幕府は再び長州征討(第2次)の勅許を得て諸藩に出兵を命じた。しかし、攘夷から開国へと藩論を転じていた薩摩藩は、長州藩がイギリス貿易商人のグラヴァーから武器を購入するのを仲介するなど、ひそかに長州藩を支持する姿勢を示した。

1866(慶応2)年には、土佐藩出身の坂本竜馬(1835〜67)・中岡慎太郎(1838〜67)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允きどたかよしらが相互援助の密約を結び(薩長連合)、反幕府の態度を固めた。幕府は6月に攻撃を開始したが、長州藩領へ攻め込むことができず、逆に小倉城こくらじょうが長州軍により包囲され落城するなど戦況は不利に展開し、幕府はまもなく大坂城中で出陣中の将軍家茂が急死したことを理由に戦闘を中止した。また、この年の12月に孝明天皇が急死したことは、天皇が強固な攘夷主義者ではあったが公武合体論者でもあったので、幕府にとっては大きな痛手となった。

開国に伴う物価騰貴など経済の混乱と政局をめぐる対立抗争は、社会の不安を大きくし、世相もきわめて険悪となっていた。国学の尊王思想は農村の豪農・神職らに広まり、とくに1866(慶応2)年の第2次長州征討の年には百姓一揆の件数が100件を超し、武蔵一円の一揆や陸奥信夫・伊達両郡の一揆などでは、世直しが叫ばれ社会の変革が期待された(世直し一揆)。また、都市でも長州征討のさなかに大坂・堺・兵庫や江戸で打ちこわしがおこり、民衆の幕府に対する不信がはっきりと示された。

ー方、1814(文化11)年に黒住宗忠くろずみむねただ(1780〜1850)が備前に開いた黒住教、1838(天保9)年に中山みき(1798〜1887)が大和で始めた天理教、1859(安政6)年に川手文治郎(1814〜83)が創始した金光教など、のちに教派神道きょうはしんとうと呼ばれる民衆宗教は、伊勢神宮への御蔭参りの流行とともに、時代の転換期を迎え、行き詰まった世相や苦しい生活から救済されたいという民衆の願いにこたえ、このころ急速に広まつていった。1867(慶応3)年、東海地方に伊勢神宮など神々の札が降るお札降りから始まった、「ええじゃないか」と連呼しながらの民衆の乱舞は、またたくまに近畿・四国へと広がった。民衆の世直しへの願望を宗教的なかたちで表現した行動と考えられ、倒幕派の策謀によるともいわれるが、倒幕運動には有利に働いた。

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