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芸術
湖畔(黒田清輝画/黒田記念館蔵/重要文化財/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

芸術

明治の芸術・芸能の世界は、初期の欧化主義の影響によって洋風が栄えたが、やがて国粋主義の台頭と相まって、伝統芸術復興の動きがおこり、洋風芸術の吸収、消化も進んでいった。

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芸術

明治の芸術

日本画悲母観音(狩野芳崖)
龍虎図(橋本雅邦)
落葉・黒き猫(菱田春草)
無我(横山大観)
大原御幸(下村観山)
洋画鮭(高橋由一)
収穫(浅井忠)
湖畔・読書(黒田清輝)
南風(和田三造)
天平の面影(藤島武二)
海の幸(青木繁)
渡頭の夕暮れ(和田英作)
夜汽車(赤松麟作)
彫刻老猿(高村光雲)
あゆみ(新海竹太郎)
坑夫・女(荻原守衛〈碌山〉)
墓守(朝倉文夫)
伎芸天(竹内久一)
日本婦人(ラグーザ)
建築旧岩崎邸(コンドル)
日本銀行本店(辰野金吾)
旧東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮, 片山東熊)
慶應義塾図書館(曾根達蔵)
占勝閣(曾根達蔵)
旧日本郵船小樽支店(佐立七次郎)

明治の芸術・芸能の世界は、初期の欧化主義の影響によって洋風が栄えたが、やがて国粋主義の台頭と相まって、伝統芸術復興の動きがおこり、洋風芸術の吸収、消化も進んでいった。

演劇

団菊左時代
歌舞伎 団菊左時代 明治中期の九代目市川団十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左団次によって築かれた歌舞伎の黄金時代。団十郎は「暫」などの当たり芸を残す。菊五郎は散切物・世話物を得意とし、左団次は河竹黙阿弥らの新作物に新境地を開き、歌舞伎界の刷新をはかった。(参考:山川 詳説日本史図録

江戸時代以来の伝統をもつ歌舞伎は、明治初期に幕末から活躍していた河竹黙阿弥かわたけもくあみ(1816〜93)が、文明開化の風俗を取り入れ、散切物や活歴劇を書いて人気を得、また坪内逍遥つぼうちしょうようは『桐ー葉きりひとは』などの史劇を発表して、歌舞伎の革新をはかった。1889(明治22)年には東京に歌舞伎座が落成し、1890年代に入ると伝統文化復活の風潮に乗って、市川団十郎(9代目、1838〜1903)·市川左団次(初代1842〜1904)·尾上菊五郎(5代目、1844〜1904)らが中心となって歌舞伎界は隆盛をきわめ、いわゆる団・菊・左の全盛時代が出現した。この時期の作者としては福地桜痴ふくちおうち(源一郎)が名高い。

散切物と活歴

頭髪を散切りにした俳優が登楊し、明治の新風俗を題材とした世話物せわものが散切物で、1872(明治5)年、大阪で『西国立志編』を翻案上演したのを初めとする。続いて1878(明治11)年、9代目市川団十郎が河竹黙阿弥の新作を演じた時代物は写実を旨とした
ので、仮名垣魯文が『仮名読新聞』で「活きた歴史だ、活歴だ」と評したことから、活歴劇の名称が生まれた。

川上音二郎
川上音二郎 自由と民権を宣伝するオッペケペー節を創始。芝居の合間に演じて有名となった。その後、妻の川上貞奴とともに壮士芝居をおこし、新派劇の創始者となった。(参考:山川 詳説日本史図録
新劇
文芸協会第2回公演(1911年11月)イプセン作『人形の家』の一場面。松井須磨子の魅力と古い社会秩序へ抗議する女性の姿は反響をよび、新劇の基礎を築いた。(参考:山川 詳説日本史図録

これに対して、自由民権運動の宣伝のため、角藤定憲すどうさだのり(1867〜1907)・川上音二郎(1864〜1911)らが始めた壮士芝居そうししばいは、日清戦争後、戦争劇を上浪して地歩を固め、のち、しだいに家庭悲劇などを上演するようになった。これが新派劇しんぱげきと呼ばれるものである。

また、日露戦争前後には西洋の近代劇の移植が始まった。この先駆者は坪内逍遥で、1906(明治39)年に島村抱月しまむらほうげつ(1871〜1918)らとともに文芸協会をおこして、シェークスピアやイプセンの作品を上演した。さらに1909(明治42)年には、小山内薫おさないかおる(1881〜1928)・市川左団次(2代目、1880〜1940)が中心となって自由劇場を創立し、新劇運動を展開していった。

音楽

音楽も、洋楽の輸入によって面目を一新した。1879(明治12)年には文部省に音楽取調掛がおかれ、伊沢修二(1851〜1917)らを中心に西洋の歌謡を模倣した唱歌が小学校教育に取り入れられ、国民の間に広く親しまれるようになった。1887(明治20)年には東京音楽学校が設立され、専門の音楽教育にあたった。作曲家としては『荒城の月』で知られる滝廉太郎(1879〜1903)らがでて、多くの優れた作品を残した。なお、映画(活動写真)や蓄音器が輸入されたのも、1890年代のことである。

唱歌
『小学校唱歌集』(参考:山川 詳説日本史図録

伊沢修二は、文部省の教育行政官として、唱歌などの西洋音楽を小学校教育にとり入れた。1882〜84年に刊行した『小学校唱歌集』では、「ちょうちょ」「蛍の光」「庭の千草」などの名曲が生まれた。

絵画

黒き猫
黒き猫(菱田春草筆/永青文庫蔵)(参考:山川 詳説日本史図録
落葉
落葉(菱田春草筆/永青文庫蔵)(参考:山川 詳説日本史図録
大原御幸
大原御幸(下村観山筆/東京国立近代美術館蔵)(参考:山川 詳説日本史図録
無我
無我(横山大観筆/東京国立博物館蔵)(参考:山川 詳説日本史図録
龍虎図
龍虎図(橋本雅邦筆/静嘉堂文庫美術館蔵)(参考:山川 詳説日本史図録

日本画は明治初期に欧米崇拝の風潮によって一時衰微したが、やがてアメリカ人フェノロサ( Fenollosa, 1853〜1908)が伝統的な日本美術の復興を主張し、岡倉天心覚三かくぞう、1862〜1913)は狩野芳崖かのうほうがい(1828〜88)·橋本雅邦はしもとがほう(1835〜1908)らとともに、1887(明治20)年、東京美術学校を設立した。天心はやがて反対派と対立して校長の職を辞し、1898(明治31)年、日本美術院を創設した。その門下からは横山大観(1868〜1958)·菱田春草ひしだしゅんそう(1874〜1911)・下村観山しもむらかんざん(1873〜1930)らが輩出した。

ー方、西洋画ではワーグマン( Wirgman, 1834〜91)に師事した高橋由一たかはしゆいち(1828〜94)が写実的画風で近代洋画の開拓者となった。明治初期に、日本政府の招きで来日したイタリア人キヨソネ( Chiossone, 1832〜98)は銅版画技術の指導にあたり、同じくフォンタネージ( Fontanesi, 1818〜82)・ラグ一ザ( Ragusa, 1841〜1928)らが招かれて、工部美術学校でそれぞれ洋画、洋風彫刻技法を教授し、彼らに学んだ浅井忠あさいちゅう(1856〜1907)・小山正太郎(1857〜1916)らは、1889(明治22)年に明治美術会を結成した 。ついでフランスから帰国した黒田清輝くろだせいき(1866〜1924)が、1896(明治29)年に白馬会を結成し、フランス印象派の画風を受けたその明るい新鮮な技法は外光派がいこうは(紫派)と呼ばれた。清輝は東京美術学校に新設された西洋画科の教授となり、藤島武二(1867〜1943)·岡田三郎助(1869〜1939)·和田英作(1874〜1959)らの後進を育てた。ー方、浅井忠門下の満谷国四郎みつたにくにしろう(1874〜1936)らは太平洋画会をつくつて白馬会に対抗し、浅井忠は京都に移って関西美術院を始め、安井曽太郎やすいそうたろう(1888〜1955)・梅原竜三郎(1888〜1986)らを育てた。このほか、白馬会からでた青木繁(1882〜1911)は特異なロマン的作風で明治後期の画壇を飾った。

高橋由一
鮭(黒田由一画/東京藝術大学大学美術館蔵/重要文化財/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
明治美術会は、その暗い色調のため脂派やにはと呼ばれた。

彫刻

彫刻では、明治初期には外国人の好みに合わせた牙彫げぼり(象牙彫)が盛んで、西洋彫刻技法も伝わったが、やがて木彫もくちょうが復興して、高村光雲たかむらこううん(1852〜1934)·竹内久ーたけうちきゅういち(1857〜1916)らが名作を残し、洋風彫塑では荻原守衛おぎわらもりえ(1879〜1910)·朝倉文夫あさくらふみお(1883〜1964)らが優れた作品をつくった。

老猿
老猿(高村光雲作/東京国立博物館蔵/画像出典:東京国立博物館

また工芸では、陶磁器・漆器·七宝などについて伝統的技術にも西洋的技術が加味され、優れた作品がつくられるようになった。建築では、イギリス人コンドル( Conder, 1852〜1920)の指導のもとに辰野金吾たつのきんご(1854〜1919)らがでて、赤煉瓦造の西洋風大建築に力をふるった。今日に残る明治後期の建築物としては、日本銀行本館(辰野金吾設計)、赤坂離宮(現・迎賓館, 片山東熊かたやまとうくま設計)などが名高い。

ニコライ堂
ニコライ堂 1891年、ギリシア正教の露人宣教師ニコライが、神田駿河台に建てた日本ハリストス正教会の聖堂。ビザンチン様式を主体とする煉瓦造りで、設計はコンドル。関東大震災後再建された。(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

参考

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