芸術の新傾向 運慶
興福寺無著菩薩立像(運慶作/興福寺蔵/国宝)画像出典:興福寺中金堂再建記念特別展 運慶

芸術の新傾向

建築:
東大寺南大門〈大仏様), 円覚寺舎利殿〈禅宗様〉, 観心寺金堂〈折衷様〉, 石山寺多宝塔〈和洋〉, 蓮華王院本堂〔三十三間堂〕〈和様〉
彫刻:
東大寺僧形八幡神像(快慶), 南大門金剛力士像(運慶・快慶), 重源上人像, 興福寺無著菩薩立像・世親菩薩立像(運慶ら), 天灯鬼・竜灯鬼像(康弁ら), 明月院上杉重房像, 六波羅蜜寺空也上人像(康勝), 高徳院阿弥陀如来像〔鎌倉大仏〕
絵画:
伝源頼朝像 伝平重盛像(藤原隆信), 親鸞上人像〈鏡御影〉, 後鳥羽上皇像(藤原信実), 北野天神縁起絵巻(伝藤原信実), 蒙古襲来絵巻(詞), 一遍上人絵伝(円伊), 法然上人絵伝, 春日権現験記(高階隆兼), 平治物語絵巻, 石山寺縁起絵巻(高階隆兼), 明恵上人樹上坐禅図(成忍), 男裏三郎絵巻, 西行物語絵巻, 鑑真和上東征絵伝, 粉河寺縁起絵巻, 後三年合戦絵巻, 地獄草紙, 病草紙, 餓鬼草紙
書蹟:
鷹巣帖(尊円入道親王)
工芸:
甲冑・刀剣

Sponsored Link

芸術の新傾向

建築

鎌倉時代の建築は、平重衡たいらのしげひらに焼かれた東大寺の再建という一大事業とともに、新しい歩みを始めた。1181(養和元)年、朝廷から東大寺再建の勧進上人に選ばれたのは、当時61歳の俊乗房しゅんじょうぼう重源ちょうげん(1121~1206)であつた。彼は陳和卿ちんなけいを起用して大仏を鋳造し、ついで大仏殿の再建に取り組んだ。いくつかの地域に拠点を築いて資金・資材を調達し、1195(建久6)年に大仏殿を再建した。このときに用いられた建築様式が大仏様だいぶつよう(天竺様てんじくよう)であり、各拠点にも大仏様の仏堂が建てられた。重源は3度も宋に渡ったと称しているが、豪放で変化に富み、美しい構造をもつこの大仏様は、宋(王朝)の江南・福建地方の様式を取り入れたものである。しかし、豪放な表現が一般になじまない、技術的な困難がある、などの理由で重源死後は用いられなくなり、東大寺南大門浄土寺浄土堂などが遺構として残された。ただし、大仏様の細部の手法は従来の和様建築にも使用された。

禅宗の興隆に伴って、禅宗様ぜんしゅうよう唐様からよう)が伝えられた。禅宗様は宋(王朝)の中央様式を移したものであり、急勾配の屋根、反りの強いのきをもつ。細かな部材を組み合わせて、整然とした美しさを表すのが特徴で、鎌倉時代中期から円覚寺舎利殿などの禅宗建築に用いいれた。禅宗の受容とともに禅宗様建築は日本に定着し、全国に広まった。

大仏様・禅宗様に対し、平安時代以来の建築様式は和様わようと呼ばれた。東大寺は大仏様を採用したが、興福寺は伝統的な和様を用いて復興された。細かい木割り、ゆるい勾配の桧皮葺ひわだぶきの屋根、全体から受ける繊細な感覚などが和様の特徴で、石山寺多宝塔蓮華王院(三十三間堂)本堂などが代表例である。また、大仏様・禅宗様の細部の手法を和様に取り入れたものが折衷様せっちゅうようであり、新和様ともいわれる。観心寺かんしんじ本堂が代表的な遺構であるが、瀬戸内海沿岸部に作例が多い。

以上のほか、住宅建築として武家造が行われるようになった。これは公家の寝殿造をもとにしながら、武家の生活に適するように改造された、実用的で簡素な建築様式である。

彫刻

東大寺再建に際して腕をふるったのが、高名な運慶うんけい(?〜1223)・快慶かいけい(生没年不詳 運慶の兄弟弟子)・湛慶たんけい(1173〜1256 運慶の長子)らと、その一派の慶派である。運慶一門は平安時代の定朝の流れをくみ、奈良に住んで南都仏師・奈良仏師と呼ばれた。定朝じょうちょうの手法のみでなく、奈良時代の彫刻や宋(王朝)の様式を取り入れ、写実的で力強い作品を創造した。運慶と快慶の合作になる東大寺金剛力士立像や、運慶が慶派の仏師を率いてつくった興福寺北円堂無著菩薩立像・世親菩薩立像などが代表作である。運慶は以前から北条時政・和田義盛ら東国の有力武士の求めに応じて仏像(伊豆願成就院、三浦の浄楽寺)を作成しているし、東大寺再建には幕府が多大な援助をしている。当時、仏師の主流は京都の円派・院派の人々であったが、彼らでなく慶派が東大寺の仏像の作成にあたったのは、あるいは幕府の推挙を受けた結果かもしれない。さらに推測すると、運慶が定朝様の優美さから写実性へ歩を進めるに際しては、武士との交流が一定の意味を有したのではないか。

鎌倉時代は前代に比して個性を重視するようになったらしく、写実的な肖像彫刻に傑作が多い。六波羅蜜寺空也上人像(運慶の子の康勝こうしょう作)、東大寺俊乗堂の重源上人坐像、鎌倉明月院上杉重房像などがある。いずれも豊かな人間味をたたえた作品であると評されている。

以上はすべて木彫であるが、このほかに鋳銅の仏像として鎌倉高徳院阿弥陀如来像がある。俗に鎌倉の露座大仏といわれるのがこれで、上総の人、大野五郎右衛門の作という。

絵画

個性の重視は絵画にもみてとれる。この時代は肖像画似絵にせえ頂相ちんぞうが発達した。似絵とは大和絵に属する肖像画のことで、実際の人物を目前にし、個人の特徴を前面におし出している。平安時代の大和絵では、人物の顔は一様に引目(線を引いただけで目を表す)・鉤鼻かぎはな(鉤状の線で鼻を表す)の没個性的なものであった。さらに肖像画といっても相手をみずに描くことが多かったから、似絵の登場は画期的であった。代表的な絵師は藤原隆信ふじわらのたかのぶ(1142~1205)・信実のぶさね(1176?~1265?)父子である。彼らは中級の貴族で(隆信は藤原定家の異父兄)、歌人としても高名であった。隆信筆といわれる神護寺の伝源頼朝像伝平重盛像はあまりにも有名である。頂相とは禅宗の僧侶の間で始まった絵で、弟子が人の師になるまでに成長したときに、師が自分の肖像画にさん(漢文の教訓的・宗教的な文章)を書き、弟子に与えたものである。弟子は頂相をみて師の画影を偲び、師の教えに思いをはせた。それゆえに肖像画は非常に写実的な絵になっている。宋代に盛んに描かれ、この時代に日本にもたらされ、室町時代に全盛期を迎えた。

源頼朝・平重盛像について

これまでにも何人かの美術史研究者は、画像の制作年代は画法などからみて南北朝時代以降と考えるべきだ、と説いていた。最近になってこの意見を踏まえ、神護寺に残る文書も考慮して、源頼朝とされてきた人物を足利直義に、平重盛を足利尊氏にあてる新説が発表された。説については論争中であり、関係史料も少なく、結論が出るまでには時間がかかりそうである。

ほかに絵画で注目すべきは、絵巻物の盛行である。絵巻物は詞書ことばがきと絵を交互に書いて、登場人物の動きや情景の展開を視覚に訴える巻物である。物語の挿絵から発達したもので、文字を読めない武士や民衆に歓迎された。人々に神仏の教えを説く手段としてしばしば用いられたので、宗教的な主題をもつ作品が多い。傑作には『春日権現験記』『北野天神縁起絵巻』などの寺社の縁起絵、『法然上人行状絵図』『一遍上人絵伝』などの高僧の伝記絵、『平治物語絵巻』『蒙古襲来絵巻』などの合戦絵がある。

書道・工芸

書道では宋(王朝)・元(王朝)の書風が伝えられた。伏見天皇の皇子青蓮院尊円しょうれんいんそんえん入道親王(1298〜1356))は、藤原行成の流れである世尊寺せそんじ流にこの新しい書風を加味し、青蓮院流を創始した。この流派はのちに御家流ともいわれた。

工芸の面では、武士の求めにこたえて甲冑や刀剣製作の技術が格段に進歩した。甲冑では明珍みょうちん家の人々が多く名作をつくった。刀剣では京都の粟田口吉光あわたぐちよしみつ(生没年不詳)、鎌倉の岡崎正宗(生没年不詳)、備前の長船長光おさふねながみつ(生没年不詳)、越中の郷義弘ごうのよしひろ(1299~1325)らの名工が出た。刀剣は海外でも価値を高く評価され、輸出品として用いられた。また、貴族や有力武家の間では、贈答品として珍重された。

陶器では、宋(王朝)・元(王朝)の強い影響を受けて、尾張の瀬戸のほか、各地で生産が始まった。六朝時代以来の白磁、南宋で盛んにつ
くられた青磁が当時多く輸入され、その影響を受けたものである。伝承によると加藤景正が道元にしたがって人宋し、釉薬うわぐすりを使う製法を伝え、瀬台に窯を築いて陶器(せと物)を焼いたという。この話は裏づけがないとされているが、瀬戸焼に宋・元の製品の強い影響が認められるのは確かである。

鎌倉文化 主な建築・美術作品

建築東大寺南大門〈大仏様), 円覚寺舎利殿〈禅宗様〉, 観心寺金堂〈折衷様〉, 石山寺多宝塔〈和洋〉, 蓮華王院本堂〔三十三間堂〕〈和様〉
彫刻東大寺僧形八幡神像(快慶), 南大門金剛力士像(運慶・快慶), 重源上人像, 興福寺無著・世親像(運慶ら), 天灯鬼・竜灯鬼像(康弁ら), 明月院上杉重房像, 六波羅蜜寺空也上人像(康勝), 高徳院阿弥陀如来像〔鎌倉大仏〕
絵画伝源頼朝像 伝平重盛像(藤原隆信), 親鸞上人像〈鏡御影〉, 後鳥羽上皇像(藤原信実), 北野天神縁起絵巻(伝藤原信実), 蒙古襲来絵巻(詞), 一遍上人絵伝(円伊), 法然上人絵伝, 春日権現験記(高階隆兼), 平治物語絵巻, 石山寺縁起絵巻(高階隆兼), 明恵上人樹上坐禅図(成忍), 男裏三郎絵巻, 西行物語絵巻, 鑑真和上東征絵伝, 粉河寺縁起絵巻, 後三年合戦絵巻, 地獄草紙, 病草紙, 餓鬼草紙
書蹟鷹巣帖(尊円入道親王)
工芸甲冑・刀剣

参考