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満州進出と日米摩擦

日本の強国化、とくに満州への勢力拡大は、日本に対する列強の警戒心を高め、黄禍論(イエロー=ペリル)の矛先が主として日本に向けられるようになった。

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満州進出と日米摩擦

満鉄設立当初の鉄道網と関東州
満鉄設立当初の鉄道網と関東州 ©世界の歴史まっぷ

日本は南満州ではロシアの諸権益を引き継ぎ、1906(明治39)年に関東都督府をおいて関東州(遼東半島南端の日本の租借地)の行政にあたるとともに、同年、半官半民の南満州鉄道株式会社満鉄)を設立して長春ちょうしゅん旅順りょじゅん間の鉄道やその支線をはじめ、鉄道沿線の鉱山など諸事業の経営にあたり、着々と南満州に勢力を伸ばしていった。

イギリスとは1905(明治38)年に日英同盟協約の改訂を行い、(1)同盟適用範囲をインドにまで拡大し、(2)イギリスは日本の韓国指導権を確認し、(3)期間を10年に延長して攻守同盟の性格を与えた。しかし、1911(明治44)年の改訂ではアメリカに対する除外例を設け、日英の協調関係はしだいに冷却化していった。

ロシアは戦後、東アジアの南下策を捨てて西アジア・バルカン半島方面に矛先を転じ、日本とはかえって協調的となった。1907(明治40)·1910(明治43)·1912(明治45)·1916(大正5)年の4回にわたって日露協約を結び、満州における権益などについて取り決めたが、第3次の協約では、さらに内蒙古(内モンゴル)における互いの勢力範囲を協定した。

このように日本は東アジアの強国となり、急速に勢力を拡大し、欧米列強諸国に伍して国際政局で大きな影響力をもつようになった。国際社会において欧米列強と肩を並べる強国を建設するという明治維新以来の日本の目標は、ひとまず達成されたといえよう。しかし、日本の強国化、とくに満州への勢力拡大は、日本に対する列強の警戒心を高め、黄禍論こうかろん(イエロー=ペリル、 YellowPeril ) の矛先が主として日本に向けられるようになった。

黄禍論
“The Yellow Terror In All His Glory”(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
黄禍論:黄色人種が白人をアジアから駆除しようとするのではないかと警戒し、ヨーロッパ諸国はキリスト教文明をまもるためにこれと対決すべきであるとする主張で、すでに日清戦争直後から、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) らが盛んに唱えていた。

アメリカが日露戦争で日本に好意的立場をとり、講和を仲介したのは、ロシアが満州を独占的に支配することを警戒したためであったが、戦後、日本の南満州への進出が盛んになると、満州の鉄道に関心をもつアメリカとの対立が芽ばえ始めた。すでに日露講和条約締結直後の1905(明治38)年、アメリカの鉄道企業家ハリマン( Harriman, 1848〜1909)は長春・旅順間の鉄道を日米共同経営とすることを提案したが、日本政府はこれを拒否した。その後も、アメリカは満州に対する門戸開放を唱えて、1909(明治42)年には国務長官ノックス( Knox, 1853〜1921)が、満州における列国の鉄道権益を清国に返還させ、これを列国の共同管理のもとにおくこと(満州の鉄道中立化)を提案したが、日本とロシアがこれに反対して、この提案は実現しなかった。

また、日露戦争のころからアメリカ・カナダなどで、日本人移民排斥運動が労働組合などを中心に活発に展開されるようになり、1906(明治39)年にはサンフランシスコで、日本人が公立学校への通学を禁止される事件(日本人学童隔離問題)がおこり、1913(大正2)年にはカリフォルニア州で、日本人(アメリカ市民たり得ない外国人)の土地所有を禁止する法律が制定されるなど、日本人移民に対する圧力も強まってきた。

日露の協調が進むと、アメリカは1910(明治43)年、5000万ドルの借款を清国に与え、イギリス・ドイツ・フランスをさそって四国借款団を組織し、豊富な資金に頼っていわゆる「ドル外交」を進めた。こうして東アジアにおける情勢は、日米の対立をはらんでしだいに新しい様相を示していくのである。

アメリカの日本人移民

日本人のアメリカ移民の最初は、1869(明治2)年カリフォルニア州に入植した旧会津藩士たちだったという。その後、一般の移民も始まり、鉱
山・鉄道敷設・道路建設、農場などの労働者として働いた。1898年、アメリカのハワイ併合により、ハワイの日本人移民はよりよい労働条件を求めてアメリカ本土に渡ることが多くなり、20世紀に入ると、アメリカの日本人は毎年1万人くらいの割合で増え続けたという。毎年数十万人にも達したヨーロッパ系移民に比べればそれほどの数ではなかったが、日本人移民は勤勉で、低賃金・長時間労働をいとわなかったので、白人労働者の地位を脅かした。そのうえ生活習慣・宗教意識の違いや言葉の障害などから、例えば日曜日も教会に行かずに働いたりしたため、なかなかアメリカ人社会にとけ込めず、日米摩擦の原因となった。カリフォルニア州の日本人移民排斥運動は、1890年代から始まったが、日露戦争のころになると、アメリカの全国的な労働組合団体がこれに加わるなど活発化し、1906年にはサンフランシスコで、日本人の学童が公立学校への通学を一時禁止される事件がおこった。その後、1907(明治40)年、日米紳士協定が結ばれ、日本はアメリカヘの移民を自主規制したが、カリフォルニア州では日本人の土地所有が禁止されるなど排日気運がいっそう高まり、結局、1924年には新移民法(いわゆる排日移民法)が連邦議会で成立し、日本人移民のアメリカヘの入国は、ほぼ全面的にできなくなった。

参考