徳川家康 江戸幕府の成立
徳川家康像(狩野探幽画/大阪城天守閣蔵)©Public Domain
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江戸幕府の成立

1600年関ヶ原の戦いに大勝した徳川家康は、1603(慶長8)年、全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。関白ではなく征夷大将軍を選んだのは、同じ官職制度のなかで豊臣秀頼と競うのを避け、いち早く豊臣政権から独立し、諸大名を戦争に動員し、指揮する武家の棟梁としての正当性を得るためであった。

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江戸幕府の成立

かつて織田信長と同盟し、東海地方に勢力をふるった徳川家康(1542〜1616)は、豊臣政権にくみし、1590(天正18)年に北条氏滅亡後の関東に移封されて、約250万石の領地を支配する大名となった。江戸を拠点にした家康は、江戸城の拡大・整備や神田上水をひくなどの町づくりを進めた。家臣団の配置では、小身しょうしんの者には江戸城近くに知行地を与え、万石以上の大身たいしんは領国周辺部に配置して、江戸の防衛と領国全体の安定を保った。
江戸城
江戸城の門と櫓の配置(内郭)Wikipedia

こうして領国経営を充実させる一方、豊臣政権の五大老の筆頭として重きをなし、文禄・慶長の役にも出兵せず、力を蓄えた。

関ヶ原の戦い地図
関ヶ原の戦い地図 ©世界の歴史まっぷ

1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した。家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた実務官僚である五奉行の一人石田三成であった。三成は小西行長らとともに五大老の一人毛利輝元を盟主にして、宇喜多秀家島津義弘(1535〜1619)らの西国諸大名を味方につけて兵をあげた(西軍)。対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則(1561〜1624)・加藤清正(1562〜1611)·黒田長政(1568〜1623)らの諸大名で、三成と通じた会津の上杉景勝との戦いのあと、東西両軍は1600(慶長5)年9月、美濃の関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋(1582〜1602)の内応により東軍の大勝となった。家康は石田三成・小西行長らを京都で処刑したほか、宇喜多秀家を八丈島に流し、西軍諸大名90家・440万石を改易(領地没収)した。また、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)された。逆に東軍の将士はその分加増され、新たに28の諮代大名が取り立てられた。

家康は1603(慶長8)年、全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。関白ではなく征夷大将軍を選んだのは、同じ官職制度のなかで豊臣秀頼と競うのを避け、いち早く豊臣政権から独立し、諸大名を戦争に動員し、指揮する武家の棟梁としての正当性を得るためであった。家康は、全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請ふしんを命じて主従関係の確認を進め、また1604(慶長9)年に国単位に国絵図郷帳の作成を命じて、全国の支配者であることを明示した。東海道・中山道など主要街道の施設を整備し、京都・伏見・大坂・堺・長崎などの都市や港を直轄地にした。また石見の大森、但馬の生野、佐渡、伊豆の金、銀山も直轄にするなど、全国統ーの政策を着々と進めた。

国絵図と郷帳

郷帳と呼ばれる土地台帳は、検地によって打ち出された一村ごとの石高こくだかを郡単位に書き記し、これを一国単位に集計したもので、国絵図と一対になるように作成された。国絵図は、道筋は赤、川筋は紺青、郡境は紫、山は緑青などの色使いを統ーし、全村名と村高が楕円のなかに几帳面に書き込まれ、郷帳と対応する。慶長の国絵図では作図上の縮尺の統ー基準は設けられていなかったが。1644(正保元)年に徳川家光が命じた国絵図作成では、縮尺を1里(約4km)を6寸(約18cm)に統ーした。全国66カ国の国絵図66枚は幕府に納められ、これをジグソーパズルを完成させるようにつなぎ合わせ、巨大な日本国総図をつくることができた。その後、1697(元禄10)年、1831(天保2)年にも国絵図・郷帳の提出が全国に命じられ、より精度の高いものが納められた。

しかし、家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼は依然として大坂城におり、摂津·河内・和泉3カ国65万石余りの一大名になったとはいえ、名目的には秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示すため、自ら将軍職を辞し、子の徳川秀忠(1579〜1632)に将軍宣下を受けさせた。駿府に隠退して大御所と称した家康は、実権を握り続け、ついに1614(慶長19)年、方広寺の鐘銘事件をきっかけに、10月大坂冬の陣を引きおこし、12月いったん和議を結んだ。翌1615(元和元)年4月大坂夏の陣を戦い、5月大坂城陥落、淀君(1567〜1615)·秀頼母子の自害によって戦いは終わった。ここに「元和偃武げんなえんぶ」と呼ばれる「平和」の時代が到来した。

方広寺鐘銘事件

方広寺大仏殿は奈良の東大寺大仏殿を上回る規模で、1589(天正17)年、秀吉が国家鎮護こっかちんごを祈願する目的で創建した。文禄・慶長の朝鮮侵略にのぞみ、国家の精神的統一をめざしたのであろう。本尊は6丈(約18m)に及ぶ大仏であったが1596(慶長元)年の地震で大仏殿は倒壊した。その後の工事で1612(慶長17)年に本堂は再建され、1614(慶長19)年3月には巨大な鐘も成った。この巨鐘の銘に「国家安康こっかあんこう」「君臣豊楽くんしんほうらく子孫殷昌しそんいんしょう」の部分があり、これを「家康の名を二分して国安らかに、豊臣を君として子孫殷昌を楽しむ」の意味であると家康は豊臣氏を責めた。その責任を、豊臣氏の国替えか、淀君の江戸人質か、二者択ーで迫り、大坂方を開戦に踏み切らせた。

参考