秀吉の全国統一関係図 検地と刀狩
秀吉の全国統一関係図 ©世界の歴史まっぷ

検地と刀狩

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検地と刀狩

豊臣政権が新しい体制をつくり出すために打ち出した中心政策が、検地と刀狩であった。太閤検地ですべての大名の石高が正式に定まり、大名はその領知する石高にみあった軍役を奉仕する体制がり、刀狩令では百姓から武器を没収し、人掃令で兵農分離・農商分離が完成した。

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検地と刀狩

豊臣政権が新しい体制をつくり出すために打ち出した中心政策が、検地刀狩であった。豊臣秀吉は信長在世中の1580(天正8)年の播磨検地以来、新しく獲得した領地につぎつぎと検地を施行してきたが、秀吉が実施したこれら一連の検地を太閤検地(太閤とは、前に関白であった人の尊称)という。太閤検地の検地帳は石高で記載され、この結果、全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立した。またこれによってそれまでの貫高制などが新しい基準の石高制に改められたので、この検地のことを天正の石直してんしょうのこくなおしと呼ぶこともある。

検地

秀吉の全国統一関係図
秀吉の全国統一関係図 ©世界の歴史まっぷ

秀吉は検地に際し、直臣じきしんを検地奉行として派追し、また検地実施規則である検地条目を出して、各地で統ーした基準のもとに検地を行わせた。土地の面積表示は新しい基準のもとに定めた町・段・畝・歩に統ーした。すなわち、6尺5寸(約197cm)四方を1歩、60歩を1段、10段を1町としていた戦国時代の単位を改め、曲尺かねじゃく1尺(約30.3cm)の検地尺を基準に6尺3寸(約191cm) 四方を1歩、30歩を1畝300歩(10畝)を1段、10段を1町とする新しい単位を採用したのである。また穀物の量をはかる枡も、これまで地域や用途ごとに異なる枡が使用されていたのを京枡きょうますに統ーし、これに基づく石・斗・升·合を基本単位とした。

江戸幕府も300歩=1段の基準を採用したが、6尺(約182cm)四方を1歩としたため、土地の面積表示は太閤検地のそれよりも大きくなった。また江戸幕府も京枡を基準枡としたが、江戸時代の京枡は太閤検地の際に用いられたものより容量が大きかった。

太閤検地では、村ごとに田畑・屋敷地の面積·等級を調査して、その石高を定めた。その方法は、当初は戦国大名と同じ指出検地がとられたが、のちに検地竿を用いて実際に土地を測量する竿入検地さおいれけんちが原則となった。個々の田畑には上·中・下・下々などの等級をつけ、例えば上田1段は1石5斗、中田は1石3斗、上畑や屋敷地は1石2斗というように、その生産力を米で表した。この1段当りの生産力を石盛こくもり斗代とだい)といい、石盛に各段別(面積)を乗じて得られた量を石高という。この石高に一定の年貢賦課率を乗じたものが、実際に領主に納められる年貢の納入額になる。通常は、石高の3分の2を領主に納入する2公1民が一般的であった。また太閤検地は、荘園制のもとで一般にみられた、一つの土地に何人もの権利が重なりあう状態を整理し、検地帳には実際に耕作している田畑と屋敷地が石高で登録された。このように、一つの土地に1人の権利者だけを認める太閤検地の方針を一地一作人の原則といい、検地帳に「百姓」として登録された権利者を名請人なうけにんといった。この結果名請人は自分の田畑の所有権を法的に認められることになったが、自分のもち分の石高に応じて年貢などの負担を義務づけられることにもなった。ただし実際の年貢の納入は、個々の名請人がそれぞれに行うのではなく、彼らの石高を村ごとに集計した村高に応じて村が一括して納入する村請制がとられた。個々の名請人への年頁の割当ては、村が主体となって行ったのであり、その点では、太閤検地も中世の惣村以来行われてきた地下請(村請)の慣行を前提としていたといえる。この体制は、江戸幕府にもほぼそのまま継承されていった。

秀吉は全国統一を終えた1591(天正19)年、それまでの検地の成果をふまえて、全国の大名に対し、その領国の検地帳御前帳ごぜんちょう)と国絵図くにえずの提出を命じた。これにより、すべての大名の石高が正式に定まり、大名はその領知する石高にみあった軍役を奉仕する体制ができあがった。この御前帳と国絵図は全国の土地台帳としての実用性を備えていただけでなく、全国支配の象徴としての意味ももっていた。のちに江戸幕府が、国単位に郷帳と国絵図を提出させたのもこれにならったものである。

刀狩

ー方、刀狩は百姓から武器を没収し、百姓の身分を明確にする目的で行われた。荘園制下の百姓は刀などの武器をもつ者が多く、土一揆や一向一揆などではこれらの武器が威力を発揮した。秀吉はこのような一揆を防止し、百姓を農業に専念させるため、1588(天正16)年に刀狩令を出し、当時建立中であった京都方広寺の大仏の釘として再利用するという名目で百姓の武器を没収した。ついで1591(天正19)年、秀吉は人掃令ひとばらいれいを出して、武士に召使われている武家奉公人(兵)が町人・百姓になること、また百姓が商売や職人仕事などに従事することを禁止した。さらに翌年、関白豊臣秀次が朝鮮出兵の武家奉公人や人夫を確保するために改めて出した人掃令に基づいて、武家奉公人・町人・百姓の職業別にそれぞれの戸数・人数を調査·確定する全国的戸口調査が行われた。この人掃令の結果、諸身分が確定することになったので、人掃令のことを身分統制令ともいう。こうして、検地・刀狩・人掃令などの政策によって、兵・町人・百姓の職業に基づく身分が定められ、いわゆる兵農分離農商分離が完成したのである。

人掃令

人掃令は、1591(天正19)年8月の秀吉令と翌年正月の秀次令の2度にわたり発令された。秀吉の人掃令は3カ条よりなり第1条では武家奉公人が町人や百姓になること、第2条では百姓が商人や職人になること、第3条では武家奉公人が主人をかえることをそれぞれ禁止し、違反者を摘発した場合には代官や住民の手で在所から追放(=人掃)するよう命じている。ー方秀次の人掃令とは、1592(文禄元)年正月に秀次が朝鮮出兵に際して出した5カ条の臨時立法(とくに武家奉公人の脱走を禁じた第1条)を指す。従来は秀吉令を身分統制令、秀次令を人掃令と呼んで区別してきたが、1592年3月に人掃令に基づいて実施された全国的な戸口調査は、武家奉公人に限らず、すべての身分を対象としていることからこの調査の法的根拠となった人掃令も武家奉公人を対象とした秀次令だけでなく、前年の秀吉令をも指していたと考えざるをえない。つまり人掃令とは、正しくは秀吉令と秀次令の併称と考えるべきなのである。秀次令は、朝鮮出兵に備えて、秀吉令のうち、武家奉公人に関する条項を徹底させたもので、秀吉令の再令としての性格をもつものであった。なお、人掃とは狭義には追放という意味だが、人掃令の場合には戸口調査(人改)と違反者の追放(狭義の人掃)という双方の意味合いを含んでいるようである。

参考