更新世の日本

地質学でいう第四紀は約1万年前を境に更新世(最も新しい時代の意)と完新世(現世と同義)に分けられる。
更新世は氷河時代とも呼ばれ、世界的に気温が低下し、氷河が拡大した。ヨーロッパでは、ギュンツ・ミンデル・リス・ヴュルム氷河という、少なくとも4回の著しく寒冷な氷期が確認されている。それら氷期の間には比較的温暖な間氷期が訪れた。

更新世の日本

地質学でいう第四紀は約1万年前を境に更新世(最も新しい時代の意)と完新世(現世と同義)に分けられる。
更新世は氷河時代とも呼ばれ、世界的に気温が低下し、氷河が拡大した。ヨーロッパでは、ギュンツ・ミンデル・リス・ヴュルム氷河という、少なくとも4回の著しく寒冷な氷期が確認されている。それら氷期の間には比較的温暖な間氷期かんぴょうきが訪れた。

日本列島と旧石器時代の遺跡分布 日本列島と旧石器時代の遺跡分布地図
日本列島と旧石器時代の遺跡分布地図 ©世界の歴史まっぷ
氷期には、大量の水が氷として陸上に固定されたため海面低下が起こり、海面は現在に比べ100m余りも下降した。日本周辺では海面低下の結果、宗谷海峡間宮海峡が陸橋となり(地図参照)、日本列島はサハリン(樺太)を通じてアジア大陸と陸続きになった。対馬(朝鮮)海峡が陸化した時期があったかどうかは意見が分かれている。北方からはマンモスやヘラジカが南下し、南方からは中国の黄土動物群に由来するナウマン象オオツノジカがやってきて北上した。
人類もこうした大型獣を追いかけながら、日本に移動してきたと考えられる。この時代の気候が非常に寒冷であったことは、遺跡に残された泥炭層から亜寒帯や冷温帯の針葉樹の遺存体(カラマツ・アカエゾマツ・チョウセンゴヨウなど)が発見されることに示されている。

更新世と完新世

地表に現れた岩層を元に地球の歴史が組み立てられるようになった38億年前から現在までを、地質時代と呼ぶ。その地質時代の最後の年代区分が第四紀であり、その年代は180万〜160万年前以降とされる。更新世は洪積世、完新世は沖積世という用語で呼ばれたこともあった。
洪積世は聖書が伝えるノアの箱舟の洪水がもたらした堆積物の時代、沖積世はそれ以後の河川による堆積物の時代という意味があるが、現在では国際的に通用している更新世・完新世の用語を使うべきである。
更新世は氷河時代、それに対して完新世を後氷期と位置付けることができる。更新世から完新世への移行期には、気候が急に温暖化し、植物相と動物相が変化し、それに対応して人類の生活も大きく変化した。

酸性の土壌が多い日本では、人骨は容易に水分に溶かされるため、残りにくい。現在までに日本列島で発見された更新世の化石人骨は、その一部が原人段階や旧人段階にさかのぼると考えられた時期もあったが、全てが新人段階の骨とする見方が有力になっている。

1931(昭和6)年に兵庫県明石で直良信夫なおらのぶおによって発見された腰骨は、原人段階の骨と認定され「明石原人」として有名になった。しかし、骨自体は戦災で消失してしまった。近年、残された模型を人類学者が調査し、現代人に含まれる可能性があると指摘しているが、旧人とする説もあり、決着がついていない。

琉球諸島には石灰岩が広く存在するため、化石人骨が残りやすい。沖縄県具志頭で発見された港川人みなとがわじんは(男1・女4体分の化石)、約1万8000年前の新人段階の人骨である。このうち港川1号人骨(男)は、東アジア地域の中でも最もよく保存された形で発見された。推定身長は153cmと小柄で、肩や上腕骨・背骨は華奢きゃしゃであるが、手は大きく、下半身は頑丈であった。港川人の顔は、ひたいが狭く、幅広い立体的な形をしており、強く噛むための筋肉が発達していた。このような特徴は、のちの縄文時代の人骨に受け継がれている。静岡県浜北市で発見された浜北人はまきたじん(頭骨・寛骨の一部)も、新人の骨と考えられている。この港川人を日本列島の縄文人、中国南部(広西省柳江県りゅうこうけん)の柳江人りゅうこうじん、中国北部の山頂洞人さんちょうどうじん(北京郊外・周口店)、東南アジアのワジャク人(インドネシア)などと比較すると、港川人は縄文人とワジャク人に似ている点が多く、山頂洞人と柳江人に似ている点は少ないとされる。残された骨や歯の形態を研究する形質人類学からは、港川人と縄文人の祖先が氷河時代の東南アジアからやってきたという、南方起源説がとなえられている。

港川人(全身骨格と復元CG)
港川人(全身骨格と復元CG)画像出典:山川詳説日本史図録

写真の港川人は、成人男性で推定身長は155㎝。現代人と比べ小柄で、上半身は華奢であるが、手足は身体のわりに頑丈である。最近の研究では、港川人の形質に縄文人と異なる点が多いことから、縄文人の祖先とすることは難しいとされる。また下顎骨の特徴は、オーストラリアの先住民に近いという指摘もある。

参考 山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

日本人の形成

日本人を含むアジア人(モンゴロイド)は、南方アジア人(古モンゴロイド)と北方アジア人(新モンゴロイド)に分けられる(モンゴロイドは頻繁に使われてきた用語であるが、差別的な意味が込められることがある。そのため現在ではその使用を避け、アジア人またはアジア系集団という用語が使用される場合が多い。)。

北方アジア人は、氷期の高緯度地方の、極端に寒冷な気候に適応して出現した人々である。その特徴は、体温を保持するために体の体積が大きくなり(胴長)、しかも体温を逃がさないように皮膚面積が小さい(短い手足)。顔面の凹凸が少なく、水分の多い目を凍らせないように厚い一重まぶたが普通である。これに対し、寒冷適応を起こさなかった南方アジア人は、より古い形態を保っていると考えられる。

現代日本人には北方アジア人的特徴が色濃く認められるが、形質人類学の見地からは、日本人の基層は南方アジア人であったと考えられている。日本の縄文時代人は低身長で、顔が幅広く高さが低く(低顔)、凹凸に富んでいた。旧石器時代の人骨も同様の特徴をもつため、縄文人の直接の先祖であったと考えられる。これらの人々の特徴は、南方アジア人の範疇はんちゅうに属するものである。

ただし遺伝学の分野では、縄文人はアジアの北方との関係が深いといわれている。縄文人と弥生人の骨から抽出したミトコンドリアDNAを分析した研究によれば、縄文人は現在の日本本土の日本人や沖縄の住民、アイヌ、朝鮮半島住民、モンゴル人と近縁な関係にあり、東南アジア人や南太平洋の人々とはあまり関係がなかったという。
考古学の証拠からも、旧石器時代に日本列島とアジア大陸北部の沿海州やシベリアとの強い文化的つながりが認められる。

寒冷適応を遂げた北方アジア人の特徴が日本列島の人骨に現れてくるのは、弥生時代から古墳時代である。この時期、朝鮮半島から相当数の人々が日本列島へ渡来し、稲作をはじめ多くの新しい技術や文化をもたらした。
これらの人々は縄文人に比べて高身長・高顔(面長)を特徴とし、弥生時代に北部九州や山口県西部に移住し、在地の縄文人と混血を重ねながら全国へ広がっていった。現代日本人の遺伝子の分析によれば、日本人はアイヌ・沖縄の人々と、それ以外の人々という二つのグループに分けられるという。日本列島の北と南の人々が、中間の本土の日本人を挟んで互いに類似するということは、北と南の端で縄文人の特徴が保持されてきたと考えれば、説明できる。

一方、日本人の起源と深く関わる日本語の起源・系統は、さらに複雑な問題である。
文法構造や音韻組織からみて、古代日本語はトルコから中央アジア、中国東北部、朝鮮の言語の総称としてのアルタイ語との関係が深いという考えは根強い。チベット=ビルマ語と同じ起源を持つという説もある。最近は、古代日本語に単一の祖語を求めるのではなく、複数の言語を基本にして形成された混合語ととらえる見方も有力である。また、古代日本語に多くの語を残したとされるオーストロネシア語(南島語もしくはマレー=ポリネシア語とも呼ばれる)の影響も重視されている。

参考