白村江の戦い 律令国家への道
白村江の戦い ©世界の歴史まっぷ

2. 律令国家への道

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律令国家への道

朝鮮半島では655年、高句麗百済連合が新羅に侵攻、新羅は唐に救援を求め、高宗(唐)は百済を滅ぼした。斉明天皇と中大兄皇子は、朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと百済救済の大軍を派遣したが、663年白村江の戦いで大敗した。668年、中大兄皇子が即位(天智天皇)して国土防衛と国制の整備につとめた。

律令国家への道

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朝鮮半島では、655年、高句麗と百済が連合して、新羅に侵攻した。新羅は唐に救援を求め、高宗(唐)は660(斉明天皇6)年、まず百済に出兵して、その都扶余ふよをおとしいれ、百済の義慈王は降伏した。
ここに百済は滅亡したが、各地に残る百済の遺臣たちは、百済の復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋ほうしょう(生没年不詳)の送還と援軍の派遣を要請してきた。

斉明天皇さいめいてんのう(在位655〜661, 皇極天皇が重祚ちょうそした)と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救援の大軍を派遣することに決した。
661年中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の位につかないまま、戦争指導を行った。
662年に大軍を渡海させたが、翌663(天智天皇2)年、白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に大敗した。

664(天智天皇3)年、中大兄皇子は、甲子の宣かっしのせんを出して国政改革を断行した。これは豪族を大氏・小氏・伴造とものみやつこに再編成するとともに、民部かきべ家部やかべの領有民を確認して諸豪族との融和につとめるものであった。また、国土の防衛にも専念し、対馬・壱岐や九州北部に防人さきもりとぶひ(烽火)をおき、筑紫に水城みずきを築いた。
665年からは、筑紫太宰の周辺や瀬戸内海沿岸から大和にかけて、大野城・基肄城きいじょう・長門城・高安城などの朝鮮式山城を築造した。
667年には、都を飛鳥から近江の大津宮おおつのみやに遷し、翌668年に中大兄皇子が正式に即位して(天智天皇てんじてんのう)、国土防衛と国制の整備につとめることになった。

この間、唐・新羅連合軍は668年に高句麗を滅ぼしたものの、朝鮮半島支配をめぐって対立した。670年から戦争状態に入ったのち、676年に結局、新羅は唐の勢力を駆逐して半島を統一する

天智天皇は、668(天智天皇7)年に近江令おうみりょうを編纂させたといわれるが、これは体系的な法典ではなく、単行法令の集成がこのように称されたものとみられる。
670(天智天皇9)年には、最初の全国的な戸籍である庚午年籍こうごねんじゃくが作成された。これは全国の豪族から公民・部曲・奴婢までを登録して姓を定めたもので、その結果、徴税と徴兵は行いやすくなったが、地方豪族の不満は高まっていった。

庚午年籍

庚午年籍は、670(天智天皇9)年の庚午年につくられた戸籍。全国的で、豪族から公民・部曲・奴婢までの全階層にわたるわが国最初の戸籍である。また、全国民の姓を定めたもので、律令制成立以降にも、氏姓の根本台帳として永久に保存されることとなった。
11世紀の『上野国交替実録帳こうずけのくにこうたいじつろくちょう』にも、「庚午年90巻<管郷捌拾陸駅家 肆>」とみえ、里(郷)や駅家うまやごとに一巻ずつつくられたことがうかがえる。この戸籍が完成した結果、徴税と徴兵は容易に行えることとなったが、一方では、公地公民が徹底していないこの時期に造籍を強行したことは、地方豪族の不満を高めることとなり、壬申の乱で近江朝廷が敗北する一つの要因となった

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