平安初期の政治改革
知恩院を警護する検非違使 ©Public Domain

平安初期の政治改革

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平安初期の政治改革

  • 定員外の国司や郡司を廃止
  • 勘解由使かげゆしの設置
  • 軍団兵士を廃止して健児の制こんでいのせい設置
  • 蔵人頭くろうどのとう設置
  • 検非違使けびいし設置
  • 弘仁格式こうにんきゃくしきの編纂

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平安初期の政治改革

桓武天皇
天皇家と藤原家の関係 ©世界の歴史まっぷ

桓武天皇は、26年に及ぶ在位のうちに強い権力を確立し、長く左大臣をおかないなど、貴族をおさえながら積極的に政治改革を進めた。特に地方政治の改革に力を入れ、奈良時代に多増していた定員外の国司や郡司を廃止し、また勘解由使かげゆしを設けて国司交替の際の事務引継ぎを厳しく監督させた。そして、国司在任中の徴税や官有物の管理などに問題がなかった時に新任国司から前任国司に対して与えられる文書である解由状の授受を厳重に審査させた(解由制)。

また、対外的緊張のゆるみもあって、東北の陸奥・出羽や九州の地を除いて、従来の兵役による兵士の質の低下などで行き詰まっていた軍団兵士を廃止して、健児の制こんでいのせいを設けた。
律令に基づく軍団制は、正丁3〜4人に1人の割合で兵士を徴発して軍団で訓練させるものであったが、農民に大きな負担となり、役立たない状況ともなっていたので、郡司の子弟や有力農民から志願により少数精鋭の健児を採用した。健児には国の大小や軍事的必要に応じて国ごとに20人〜200人までの人数を定め、60日交替で国府の警備や国内の治安維持にあたらせたものである。
なお、九州には選士せんし1320人、陸奥には健士けんし2000人をおいて、同様に軍事力の維持強化をはかっている。階層分解の目立つ一般農民の負担を軽減しながら兵士の質の向上をはかる政策であった。

これらの改革は、律令政治を当時の社会的実情に合わせたかたちで実行しようとするものであった。しかし、一方で新しい宮都の造営や東北の蝦夷との戦いという二大政策を遂行する民には膨大な人的・物的な費用をつぎ込んでいたため、十分な成果を上げることは難しかった。

桓武天皇の政治改革は、平城天皇へいぜいてんのうや続く嵯峨天皇さがてんのうにも引き継がれた。平城天皇は、令で定められた官司や官人の整理・統合を大胆に行い、財政負担の軽減に勤めた。嵯峨天皇は、天皇の秘書官長としての蔵人頭くろうどのとうや、平安京内の警察や裁判にあたる検非違使けびいしなど、令に定められていない新しい官職(令外間りょうげのかん)を設けた。

蔵人頭は、810(弘仁元)年の平生太后天皇の変(薬子の変くすこのへん)の際、嵯峨天皇が太上天皇側に秘密が漏れることなく天皇の命令を太政官組織に伝えるために側近の藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐ巨勢野足こせののたりらを任じたのが始まりで、その役所が蔵人所くろうどどころである。

平城太上天皇の変(薬子の変)

809(大同9)年、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位したが、太上天皇としての権威と権力は保持しており、嵯峨天皇が病になると、翌年、寵愛する藤原薬子ふじわらのくすこ(藤原種継の娘)やその兄藤原仲成ふじわらのなかなりとともに再び権力を握ろうとして、もとの平城京への遷都をはかった。
平安京の天皇と平城京の太上天皇の間で「二所朝廷にしょちょうてい」と呼ばれる政治的混乱となったが、迅速な対応をとった嵯峨天皇側の勝利となり、仲成は射殺され、東国に向かうことに失敗した太上天皇は出家し、薬子は毒を飲んだ。「薬子の変」と呼ばれるのは嵯峨天皇が罪を太上天皇に及ぼさないようにしたためで、実は平城太上天皇が深く関わっていた。この変を契機に、天皇の意思を太政官組織に迅速に伝えるための蔵人頭が設けられるなど、政治の仕組みにも影響を与えた。

蔵人は、やがて天皇の側近として宮廷において政治的な重要な役割を果たすことになった。検非違使は、初めは犯人逮捕や治安維持など警察的任務にあたったが、のち訴訟・裁判も行うようになって、やがて京都の政治を担う重要な職となった。

また、嵯峨天皇は法制の整備も進めた。律令の制定後に実際の政治過程で出されたさまざまな法令を、律令を補足・修正した法令であるきゃくと施行細則であるしきとに分類・編集し、弘仁格式こうにんきゃくしきが編纂された。これも、実態に合わせた政治の実務の遂行をはかったものと言える。その後も法典の編纂は受け継がれ、清和天皇せいわてんのうのときに貞観格式じょうがんきゃくしき醍醐天皇だいごてんのうのときに延喜格式えんぎきゃくしきが編纂されて、合わせて三代格式さんだいきゃくしきと呼ばれている。格については、3代の格を集めて分類した『類聚三代格るいじゅうさんだいきゃく』、式については、最も整った『延喜式』が今日に伝わっている。そのほか、国司交替についての規定として、延暦・貞観・延喜の3代の『交替式こうたいしき』もつくられている。833(天長10)年には、それまでまちまちであった令の条文解釈を公的に統一した『令義解りょうのぎげ』が清原夏野きよはらのなつのらによって編纂された。さらに9世紀後半には、惟宗直本これむねのなおもとによって、令の諸注釈を集めた『令集解りょうのしゅうげ』が私的に編まれている。

参考

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