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大名の配置地図(1664年) 幕藩体制
大名の配置地図(1664年)©世界の歴史まっぷ

幕藩体制

3代将軍家光までに、将軍と諸大名との主従関係は確立した。強力な領主権をもつ将軍と大名(幕府と藩)が土地と人民を統治する支配体制を幕藩体制という。

幕藩体制

幕府は大坂夏の陣直後の1615(元和元)年に、大名の居城を一つに限る一国一城令を出した。本城を除くすべての支城を破壊させ、幕府に対抗する軍事的拠点となる要素を取り除かせるものだが、諸大名にとっても、領内の支城を拠点にして大名と対抗するような有力武士を弱体化させる効果をもった。幕府はさらに、武家諸法度を制定して大名を厳しく統制した。

武家諸法度

1615(元和元)年の大坂落城後、徳川家康金地院崇伝こんちいんすうでん(1569〜1633)らに命じて法度草案を起草させ、検討ののち、7月7日に将軍徳川秀忠が諸大名を伏見城に集め、崇伝に朗読させて公布した。内容は大別すると、政治・道徳上の訓戒、治安維持の規定、儀礼上の規定となるが、これによって幕府と諸大名との関係は、これまでの私的な従属関係を脱して公的な政治関係となった。つまり大名は、各領国において公儀として領民にのぞみ、そのことによって領域的支配の正当性を認められた。

家康の死後、1617(元和3)年に2代将軍秀忠は、大名・公家・寺社に領知(地)の確認文書(領知宛行状りょうちあてがいじょう)を発給し、自ら全国の土地領有者としての地位を明示した。大名とは1万石以上の領地を与えられ、将軍と主従関係を結んだ武士をいうが、軍事力を備えているだけにその統制には苦心した。1619(元和5)年、広島城主(49万8000石)福島正則を武家諸法度の城郭修補の項に違反した理由で改易し、そののち信州川中島(4万5000石)へ転封した。こうして法度を遵守させるとともに、将軍より年功の西国布力外様大名をも処分できる圧倒的な力を示した。

例外として下野の喜連川氏は5000石の石高でも10万石格の大名であり、蝦夷地の松前氏は無高でも大名であった。この逆に、出羽の生駒氏のようにl万5000石の石高でも認知されず、大名とされなかった場合もある。

その一方で、巧妙に大名を配置した。大名の数は江戸時代初期にはかなり変動があったが、中期以降は約260〜270ぐらいであり、これらは将軍との親疎しんその関係で親藩譜代外様にわけられる。

大名の配置地図(1664年)
大名の配置地図(1664年)©世界の歴史まっぷ

親藩しんぱん三家さんけ(尾張・紀伊·水戸の3藩)など徳川氏一門の大名、譜代は三河以来の徳川氏伝統の家臣が大名となった者であるが、関ヶ原の戦い前後には37家にすぎなかった。その後幕府の信任あつい譜代大名は多く取り立てられ、硲末には145家まで増やした。譜代は大老・老中・若年寄など将軍直屈の重職に任じられたが、石高は5万石内外と少なかった(井伊家の35万石は例外)。外様は関ヶ原の戦い前後、徳川氏に臣従した者で加賀の前田(102万石)、薩摩の島津(73万石)、陸奥の伊達(56万石)のように領地は広く、有力な者が多かった。これらの危険性がある外様は、東北・四国·九州などのはたもと辺境の地に配置され、逆に関八州かんはっしゅうは幕領・旗本知行地・譜代大名で固め、また東海道・中山道・近畿地方などの要地も同様であった。

1623(元和9)年将軍職を徳川家光(1604-51)にゆずった秀忠は、大御所として幕府権力の基礎固めを行い、1632(寛永9)年に死去した。3代将軍家光は、肥後の有力外様大名加藤忠広(清正の子、1601〜53)を改易して出羽庄内しょうないに配流し、そのあとに小倉こくらから細川氏を転封し、小倉には譜代の小笠原氏を封じて、九州も将軍の意が及ぶ地域とした。また徳川忠長とくがわただなが(家光の弟、駿河大納言、1606-33)も改易し、家光時代に外様29名、一門・譜代19名を改易して力による大名統制を進めた。

さらに1634(寛永11)年、家光は30万余りの軍勢を率いて上洛したが、これは全国の譜代から外様にいたる大名に、統ーした軍役を賦課して将軍権力を示したものであった。大名・旗本は領知石嵩(御恩)に応じて一定数の兵馬を常備し、将軍の命令で出陣する義務(奉公)を負っていた。1616(元和2)年に出された軍役規定は、1633(寛永10)年に家光によって改定された。そこでは1000石の旗本はやり2本・弓l張・鉄砲l挺で総勢23人の出陣を、1万石の大名は馬上で出陣する武士10騎、鉄砲20挺・弓10張・鑓30本・旗2本などと規定された。平時には江戸城などの修築や河川の工事(普請)などを負担した。改易以前の肥後熊本52万石の加藤忠広は、1622(元和8)年、江戸城本丸石垣の御手伝普請おてつだいぶしんに約5000人の人夫を半年間動員した。このうち1200人が藩抱えの足軽で、3400人が国元の百姓、400人が水夫であった。このように大名に課された軍役は百姓などに転嫁され、農村を疲弊させることにつながった。

家光は1635(寛永12)年、武家諸法度を発布し、諸大名に遵守じゅんしゅを厳命した。そのなかで大名には国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代を義務づけ、妻子の江戸居住を強制した。参勤交代は毎年4月を交代期として、全国の大名の半ばが江戸に、半ばが国元にいるという制度だが、関東の大名は半年交代、対馬の宗家は3年に1回の参勤であり、水戸家は常に江戸藩邸に詰めた。大名はこれによってばく大な出費をさせられたが、江戸と街道筋の宿場がにぎわい、交通が発達した。江戸に参勤した大名たちは、軍役として江戸城諸門の警衛や火事の際に出動するなどの役務を担った。

幕藩体制の構造図
幕藩体制の構造図 ©世界の歴史まっぷ
こうして3代将軍家光までに、将軍と諸大名との主従関係は確立した。強力な領主権をもつ将軍と大名(幕府と藩)が土地と人民を統治する支配体制を幕藩体制という。

参考

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