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学問の発達

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学問の発達

ダーウィンの進化論は1870年代後半、アメリカの動物学者で帝国大学理科大学に教授として招かれたモ一スらによって日本にも伝えられ、キリスト教があまり広まらなかった日本では、進化論の考えはいち早く広まった。

学問の発達

19世紀のヨーロッパでは、ダーウィンの進化論などの影響によって科学的精神が重んじられた。それは人文·社会科学諸分野に大きな影響をもたらし、しばしば宗教(キリスト教)上の教義との対立・衝突をもたらしたが、しだいに宗教的束縛を脱して、大学を中心にめざましい学問的発展を示した。進化論は1870年代後半、アメリカの動物学者で帝国大学理科大学(のち東京帝国大学理学部)に教授として招かれたモ一ス( Morse, 1838〜1925)らによって日本にも伝えられた。キリスト教があまり広まらなかった日本では、アメリカなどと異なり、キリスト教思想と衝突することがなかったので、進化論の考えはいち早く広まった。

明治時代の初め、政府は盛んに外国人教師を招いてその指導のもとに、いろいろな分野での科学的研究が取り入れられるようになった。そして、1890年代以降になると、しだいに日本人の学者の手による独創的な研究も進められるようになった。

科学技術の面では、まず物理学の分野で大森房吉おおもりふさきち(1868〜1923)の地震計の考案(1901)・木村栄きむらひさし(1870〜1943)の緯度変化公式のZ項の発見(1902)、長岡半太郎(1865〜1950)の原子模型理論の発表(1903)などがある。

医学の面では、コッホのもとで細菌学を研究した北里柴三郎(1852〜1931)が破傷風菌の純粋培蓑・免疫体の発見などで業績をあげ、その弟子志賀潔しがきよし(1870〜1957)が赤痢菌を発見し(1897)、野口英世(1876〜1928)が蛇毒の研究・梅毒スピロヘータの純粋培養に成功するなどいずれも世界的名声を博した。薬学の面では、秦佐八郎はたさはちろう(1873〜1938)のサルバルサンの創製、高峰譲吉(1854〜1922)のアドレナリンの抽出とタカジアスターゼの創製、鈴木梅太郎(1874〜1943)のビタミンB1(オリザニン)の抽出など、重要な業績がみられる。

植物学では、多くの新種を発見し、植物分類学に独創的な業績を残した牧野富太郎(1862〜1957)が名高い。

数学では、近代数学の開拓者菊池大麓きくちだいろく(1855〜1917)がおり、さらに応用化学の面では、下瀬雅允しもせまさちか(1859〜1911)の発明した新火薬(下瀬火薬)が、日露戦争で実用に供され、大きな威力を発揮した。

ー方、工業技術の分野では豊田佐吉とよたさきちによる自動織機の発明(1897)をはじめとする一連の織機の改良が、綿織物業·紡績業の発展に大きく貢献した。また、白熱電灯・無線電信・電話などが輸入されて実用化され、明治末期には自動車が輸入されて陸上交通機関に用いられるようになった。電気事業、とくに水力発電事業が大いに発達したが、それとともに工場原動力として電動機が重要な地位を占めた。科学技術教育もしだいに普及し、大学の理工系学科・各種学会・研究所なども整備·設立されるようになった。

こうして日本の科学技術は政府の積極的な振興策によって著しく発展し、世界的水準に迫ったが、同時に官学や軍事研究偏重という欠点もあった。民間の自主的な研究が冷遇されて国内で認められず、かえって外国で認められるということも少なくなかった

例えば、野口英世の研究は東京帝大医科大学(のち医学部)では認められず、のち渡米してアメリカのロックフェラー研究所で多くの実績をあげた。また、秦・高峰らの研究もいずれも外国で認められたものである。

ー方人文科学·社会科学の面では、はじめ英・米系の自由主義的傾向のものが主流であったが、明治時代の後半には、ドイツ系の国家主義的な学問がしだいに優勢となった。哲学において、ドイツ哲学の影響を受けた井上哲次郎大西祝(1864〜1900)、法学においてはフランス法系の梅謙次郎(1860〜1910)·富井政章(1858〜1935)、イギリス法系の穂積陳重、経済学においては田口卯吉(1855〜1905)らが業績をあげた。歴史学の分野においても西洋流の科学的な研究方法が取り入れられ、江戸時代以来の考証学的伝統と結びついていろいろな業績が生まれた。明冶初期には文明史観に基づく新しい歴史の見方が取り入れられ、田口卯吉の『日本開化小史』のような文明史観による日本史の概説書が生まれた。明治のなかごろになると、帝国大学に招かれたリース(Riess、1861〜1928)らの指導により、ドイツ流の実証主義歴史学が帝国大学を中心に盛んになり、日本史では久米邦武重野安繹しげのやすつぐ(1827〜1910)·三上参次(1865〜1939)、東洋史では那珂通世なかみちよ(1851〜1908)·白鳥庫吉しらとりくらきち(1865〜1942)・内藤湖南(1866〜1934)、西洋史では坪井九馬三つぼいくめぞう(1858〜1936)らが排出した。また、帝国大学に史料編纂掛(のち史料編箱所)がおかれて、『大日本史料』『大日本古文書』などの編謀事業が進められた。国文学では芳賀矢ー(1867〜1927)・藤岡作太郎(1870〜1910)らの文学史研究が始まった。各種の専門的な学会もつくられ、学術研究の雑誌も刊行された。例えば歴史学の分野についてみると、1889(明治22)年、帝国大学文科大学史学科・国史科の教師・学生を中心に史学会が創立され、『史学会雑誌』(のち『史学雑誌』)が創刊された。これは、日本における歴史学研究の最も高い水準の専門的学術誌の一つとして、今日まで存続している。このように近代的な学界が形成されるようになった。

大学を中心とした学問研究や高等教育は、明治前期には西洋人教師·学者により外国語で行われることが多かったが、明治後期になると、留学生活から帰国した日本人の教師や学者などにより、日本語で進められるようになった。大学での西洋の学問についての講義が、西洋の言語ではなくほとんど自国の言語で行われたのは、アジア諸地域のなかでも、むしろ珍しい事例であった。

おもな在日外国人と業績一覧

おもな在日外国人と業績

 業績国名在日機関
宗教ヘボン 宣教師として来日し、横浜の居留地で医療や伝道に従事。ヘボン式ローマ字を考案。開いた英語塾をもとに、1886年、明治学院(のちの明治学院大学)を創設。1859〜92
フルベッキ 幕末に宣教師として来日し、英学を教授。維新後、開成学校(のちの東京大学)の経営や政府の外交・教育・法律の顧問として活躍。のち伝道に専念し、1879年東京一致神学校を設立。1859〜98
ジェーンズ 熊本洋学校教師として来日。1876年生徒の一団が花岡山においてキリスト教信仰の盟約をおこない、熊本バンドを結成したが、解任された。1871〜99
教育クラーク 開拓使の招きで、札幌農学校教頭として来日。農学校の組織化と農学・植物学・英語の教授をおこなう。生徒の中には内村鑑三や新渡戸稲造のようにキリスト教を信仰し、札幌バンドを結ぶ者も出た。滞在9ヶ月で帰国の際、"Boys, be ambitious"の言葉を残したことは有名。1876〜77
自然科学モース 東京大学で動物学・生理学を教え、ダーヴィンの「進化論」を初めて本格的に日本に紹介。1877年、大森貝塚を発見し、初の考古学的調査もおこなった。1877〜79
ナウマン 政府の招きで来日し、開成学校で地質学を教え、全国の地質調査を実施。フォッサ=マグナを指摘し、ナウマンゾウの化石も発見した。1875〜85
ミルン 地質学者。工部省の招きで来日し、工部大学校・東京大学で地質学を教える。地震学も研究して地震計を考案したほか、日本地震学会の創設(1880年)にも貢献した。1876〜95
医学ベルツ 内科医。政府の招きで来日。東京医学校・東京帝大で内科・産科を講義し、ドイツ医学の移植につとめる。滞在中に記した『ベルツの日記』は日本の政治・社会をするどく批判しており、明治を知る好資料の一つ。1876〜1905
ホフマン 内科医として来日。東京医学校でドイツの内科学・病理学・薬物学を教え、初めて病理解剖をおこなった。1871〜75
文芸フェノロサ 東洋・日本美術研究家。東京大学の招きで来日し、哲学など教授。日本古来の美術を高く評価して、その復興に尽力し、岡倉天心とともに東京美術学校の設立にかかわった。1878〜90
ケーベル ドイツ哲学者。東京大学教授として招かれ、西洋哲学・古典語学・ドイツ文学を伝授。日本哲学の基礎を築く。1893〜1923
美術ラグーザ 彫刻家。工部美術学校に招かれて来日し、はじめて西洋彫刻法を教えた。日本西洋彫刻の基礎を築く。滞在中、清原玉と結婚。玉とともにイタリアで工芸学校を創立した。1876〜82
フォンタネージ 工部美術学校に招かれた画家で、油絵などの洋画を教えた。門下生として浅井忠らを排出し、明治洋画の基礎を築いた。1876〜78
ワーグマン 画家。『絵入りロンドンニュース』の特派員として来日幕末の諸事件をレポートする一方、風刺雑誌『ジャパン=パンチ』を創刊。1861〜91
キヨソネ 銅版画家。大蔵省に招かれて来日し、各種の紙幣や郵便切手の原版をつくり、またその技術を教えた。明治天皇や西郷隆盛の肖像画を描いたことでも有名。1875〜98
建築コンドル 建築家。政府の招きで来日し、工部大学校や帝国大学で西洋建築学を教える。辰野金吾や片山東熊らを育てるとともに、自ら70を超える作品を残す。鹿鳴館・ニコライ堂が代表作。1877〜1920

おもな自然科学者の実績一覧

おもな自然科学者の業績

医学北里柴三郎 細菌学者。ドイツに留学してコッホに師事。1889年破傷風菌の純培養に成功し、翌年免疫抗体を発見して血清療法の道を開く。92年福沢諭吉の援助で伝染病研究所を設立し、日本細菌学の基礎を築く。
志賀潔 細菌学者。伝染病研究所で北里柴三郎に師事。1897年赤痢菌を発見して世界的に有名となり、留学して生物化学・免疫学も研究。のち、北里研究所の設立に尽力し、1929年京城帝国大学総長に就任した。
薬学高峰譲吉 化学者。1890年渡米。1894年麹菌から消化薬タカジアスターゼの創製に成功し、胃腸薬として商品化した。1900年に副腎から血圧を高くする作用をもつアドレナリンの分離に成功し、ニューヨークに高峰研究所を創設した。
鈴木梅太郎 化学者。東京帝大教授となり、米糖から脚気予防に有効なオリザニン(ビタミンB1)を発見した。グルタミン酸やサルチル酸の製造、乳酸菌の研究、合成酒の発明など、生活に密着した応用化学の面で成果をあげた。
秦佐八郎 細菌学・化学療法学者。伝染病研究所勤務後ドイツに留学。1910年エールリッヒとともに、梅毒の化学療法剤サルバルサンを創製。帰国後、北里研究所に入り、のち慶應義塾大学で細菌学を教えた。
地震学大森房吉 地震学者。東京帝大教授。余震・地震帯・地震史など地震に関する幅広い研究をおこない、大森式地震計も考案した。震災予防調査会の設立にも尽力し、近代地震学の確立につとめた。
天文学木村栄 地球物理学者。岩手県水沢の緯度観測所長として、地球の緯度変化の観測に従事。1902年、緯度変化の計算式にZ項を加えるべきことを発見した。
物理学長岡半太郎 物理学者。東京帝大教授。磁気歪の研究をおこない、1903年には土星形原子模型を提唱するなど、原子構造の研究で有名となった。実験物理・数理物理・地球物理研究のパイオニア。
田中館愛橘 物理学者。東京帝大教授。日本全国の地磁気の測定をおこない、震災予防調査会の設立に尽力。そのほか、メートル法やローマ字の普及につとめ、航空物理学に寄与するなど、日本物理学の基礎を築く。
植物学牧野富太郎 植物学者。帝国大学助手・講師。独学で植物学を学び、全国を調査。1000種以上の新種を発見して命名するなど、植物分類学の権威。編纂した『牧野植物図鑑』は現代も使用されている。

人文・社会科学の発達

人文・社会科学の発達

歴史学田口卯吉 歴史学者・経済学者。歴史学では、ギゾーのヨーロッパ文明史の影響をうけた日本史論である『日本開花小史』を1877年に刊行した。経済学では、1879年に『東京経済雑誌』を刊行し、自由主義経済の立場から保護貿易を批判して、自由貿易を主張した。
帝大史料編纂掛 1869年の史料編輯国史校正局にはじまり、1888年、修史事業が帝国大学に移管されて、95年に史料編纂掛(現・東京大学史料編纂所)となる。1901年から『大日本史料』(六国史の後から明治維新までの日本史関係基礎史料集)、『大日本古文書』(編纂所が編修した古文書集成)を刊行。
久米邦武 歴史学者。岩倉使節団に随行し、記録係として『特命全権大使米欧回覧実記』を編纂。帰国後、帝国大学教授として史料編纂事業に従事した。1891年『史学会雑誌』に発表、1892年に『史海』に転載された「神道は祭天の古俗」が神道家や国学者から非難を浴び、教授を辞職した(久米事件)。
法学梅謙次郎 法学者。帝国大学教授としてフランス法を研究。民法典論争では、フランス民法の導入を主張していたことから、ボアソナード民法を支持した。民法・商法の開拓者で、法典整備に尽力した。
穂積八束 法学者。帝国大学教授として憲法を教授。民法典論争に対し、1891年『法学新報』に論文「民法出デテ忠孝亡ブ」を発表し、ボアソナード民法(旧民法)に反対する立場をとった。また、天皇機関説に対しても君主主権説を主張。兄の陳重も法学者。

参考

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