国文学の発達
かぐや姫を籠に入れて育てる翁夫妻。(17世紀末(江戸時代後期)/メトロポリタン美術館蔵)©Public Domain

国文学の発達

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国文学の発達

中古文学(平安時代の文学)漢詩・漢文が引き続き栄えるとともに、初の勅撰和歌集である古今和歌集が編纂され、和歌が漢詩と対等の位置を占めた。当時の公式文書は漢文であったが、平仮名の和文による表現が盛んにはじまり、紀貫之の『土佐日記』が書かれたのに続き、清少納言の随筆『枕草子』、紫式部の『源氏物語』など古典文学の代表作と言える作品が著された。

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国文学の発達

文字

中国の文字である漢字によって、日本語を表現しようとする努力は、漢字の受容直後から始まった。当初は、人名・地名などの固有名詞を漢字の音を用いて表記する試みがなされ(埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘の「獲加多支鹵わかたけるなど)、奈良時代には漢字の音訓を用いて、和歌などを書き記す万葉仮名が発達した。8世紀後半以降には、この万葉仮名で書状などの普通の文章を記す例も見られるようになる。
平安時代に入ると万葉仮名の字体が崩されて草書体となり(草仮名)、さらに簡略化されて平仮名が成立し、主に宮廷女性によって書状や歌のやりとりに用いられた。
片仮名は、僧侶が漢文で書かれた仏教の経典などを訓読するために考案したもので、万葉仮名の漢字のごく一部を取り出し、その音を用いて漢文の文章の傍訓ぼうくんや送り仮名を記した。これらの仮名文字は、11世紀の初めになると字形もほぼ一定し、上記のような分野で盛んに用いられるようになった。
一方、公的な政治の世界を中心とする男性貴族の社会では、依然として漢字・漢文が正式なものとして用いられたが、『御堂関白日記』などの日記では、正規の漢文とはかなり文体の異なる日本化した漢文が書かれるようになる。

国風文化
仮名の発達 左は平仮名、右は片仮名の例。片仮名・平仮名は、共に字母も省略の仕方も、初めは一定したものではく、いくつかの書き方をしていた。それが次第に整理されて、ほぼ決まった形を取ってくるのは11世紀の初めころになってからである。そして現在のかたちに統一されたのは、ずっと下って、1900(明治33)年の小学校令の公布によってである。

仮名の音節

『万葉集』の仮名には静音と濁音の別があり、また、エキケコソトノヒヘミメヨロの13音が2種にわかれ、合計87の音節があった。この区別は奈良時代から乱れ始め、9世紀初めの延暦年間に習字の手本として用いられた「あめつちの詞」では、
「あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(育せよ)えのえを(榎の枝を)なれゐて(馴れ居て)」
という48文字となった。なお「いろは歌」はこれから「江」を除いた47字からなっており、平安初期に存在していたと考えられるア行の「エ」とヤ行の「エ」の区別がされていない。
「いろは歌」は、空海の作ともいわれるが、おそらく平安時代の中期以後のものであろう。
また「五十音図」は、インドの梵字ぼんじの知識をもとに日本語の音節組織を図式化したものである。吉備真備の作ともいわれるが、これには真言宗の僧侶が関係したと考えられる。

このように、日本語を書き表すための文字や文体の工夫が進んでいくにしたがい、それらを用いて日本人の感覚をより生き生きと表現することが可能となり、和歌をはじめとする国文学が発達した。

和歌

和歌については、漢詩文が盛んだった9世紀前半にも私的な宴会などでは和歌が詠まれていたが、9世紀後半になると六歌仙ろっかせん(僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主)らの歌人が活躍し、10世紀に入ると、905(延喜5)年に最初の勅撰和歌集ちょくせんわかしゅうである『古今和歌集』が成立する。
『古今和歌集』には、中心的編者である紀貫之きのつらゆきの「仮名序」と共に、漢文の「真名序」があり、またその構成にも9世紀の勅撰漢詩文集の影響がみられる。これ以後、和歌は漢詩とともに宮廷の行事の中でも重要な位置を占め、歌合などが盛んに開催されるようになり、勅撰和歌集も相次いでつくられた(これらを総称して三代集八代集という)。

物語

物語では、かぐや姫の説話を題材とした『竹取物語』をはじめとして、貴族社会の様子を描いた『宇津保物語うつぼものがたり継子物語ままこものがたりの先駆である『落窪物語おちくぼものがたり』などが10世紀までにつくられ、また歌物語としては『伊勢物語』『大和物語』などが生まれた。さらに紀貫之が土佐かみの任期を終えて帰京するまでを仮名でつづった『土佐日記』は、
「をとこ(男)もすなるにき(日記)といふものを、をむな(女)もしてみむとてするなり」
という書き出しで始まっており、当時の仮名文字及び仮名文学の位置を示している。

摂関政治が全盛期を迎えた10世紀末以降になると、仮名文学は宮廷女性によっていっそう洗練されることとなった。これは中央での相対的に安定した政治状況の中で、皇后など地位の高い女性の元に才能豊かな女房(侍女)が集まり、一種の文芸サロンを形成したためである。なかでも一条天皇の皇后藤原定子ふじわらのていしに仕えた清少納言せいしょうなごんの随筆『枕草子』と、藤原道長の娘で同じく一条天皇の中宮藤原彰子ふじわらのしょうしに仕えた紫式部むらさきしきぶの長編小説『源氏物語』は、その最高峰ともいえる作品である。このほか、藤原道綱母の『蜻蛉日記かげろうにっき』『紫式部日記』『和泉式部日記いずみしきぶにっき』、菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめの『更級日記さらしなにっき』などの日記文学には、女性特有の細やかな感情が表されている。

紫式部日記の女房観

『紫式部日記』には、中宮彰子・皇后定子・斎院選子内親王(村上天皇の娘)らに仕えた女房の容姿や性格、才能などを具体的にあげて批評した箇所がある。
和泉式部については、手紙のやりとりは巧みだが、歌というものが十分にはわかっていないとし、『栄花物語』の作者赤染衛門あかぞめえもんについては、風格のある歌を詠むが、格別優れた歌人とはいえない、となかなか手厳しい。とりわけ清少納言については、漢文学の知識をひけらかして得意になっているのは鼻もちならず、このような軽薄な人の将来はろくなことがないと痛烈であるが、これは紫式部と清少納言が、彰子と定子という対抗関係にあった后に仕えた女房だったことも影響していると考えられる。
これに対して紫式部本人は、幼い頃から父の教えで学問を身につけてきたが、その知識をひけらかすことなく、目立たないように心がけているとしており、当時の貴族女性と漢文学との複雑・微妙な関係が示されていて興味深い。

勅撰和歌集

三代集

  • 『古今和歌集』905年 紀貫之ら
  • 『後撰和歌集』961年 清原元輔ら
  • 『拾遺和歌集』996? 藤原公任?

八大集(三代集に下の五つを加える)

  • 『後拾遺和歌集』1086年 藤原通俊ら
  • 『金葉和歌集』1126年 源俊頼ら
  • 『詞花和歌集』1141年 藤原顕輔ら
  • 『千載和歌集』1187年 藤原俊成ら
  • 『新古今和歌集』1205年 藤原定家ら

おもな著作物一覧

詩歌
『古今和歌集』紀貫之ら
『和漢朗詠集』藤原公任ら

物語
『竹取物語』未詳
『伊勢物語』未詳
『宇津保物語』未詳
『落窪物語』未詳
『源氏物語』紫式部

日記・随筆

『土佐日記』紀貫之
『蜻蛉日記』藤原道綱母
『枕草子』清少納言
『和泉式部日記』和泉式部
『紫式部日記』紫式部
『更級日記』菅原孝標女

その他
『和名類聚抄』源順

参考