古墳文化の変化
奈良県新沢千塚古墳群 @Google Maps

古墳文化の変化

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古墳文化の変化

後期古墳の特色

  • 古墳のあり方:
    • 前方後円墳が縮小(近畿地方をのぞく)
    • 群集墳(小円墳・横穴)の造営→山間部・小島にまで分布
    • 地域色 石人・石馬(九州北部)、装飾古墳(九州・茨城県・福島県など)
  • 埴輪:形象埴輪(人物埴輪・動物埴輪)が増加
  • 埋葬施設:横穴式石室が一般化
  • 副葬品:多量の土器(土師器・須恵器)、金銅の武器・馬具・日用品

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古墳文化の変化

古墳時代の後期になると、古墳自体にも大きな変化がみられるようになる。古墳の外形、すなわち墳丘の形態についてはあまり大きな変化はなく、前期・中期以来の前方後円墳・円墳・方墳などがつくられ続ける。ただ前方後方墳は、出雲地方(島根県東部)など一部の地域を除くと、ほとんどみられなくなる。大きな変化がみられるのは、古墳の内部の埋葬施設である。それまでの竪穴式石室をはじめとする竪穴系の埋葬施設にかわって、朝鮮半島の古墳の影響を受けて成立した横穴式石室をはじめとする横穴系の埋葬施設が一般化する。

横穴式石室は墳丘の外部へ通じる通路をもつ墓室で、前期の終わりころ朝鮮半島の影響を受けて、まず北部九州に成立し、中期には九州を中心にごく一部ではあるが中国地方や近畿地方にも広がり、後期には日本列島の古墳の最も一般的な埋葬施設となった。
死者を葬る墓室を玄室と呼び、そこにいたる通路を羨道と呼ぶ。横穴系の埋葬施設には、横穴式石室のほか、山や丘陵の崖面に直接墓室を掘り込んだ横穴や棺を納める小規模な石槨せっかくの前に入口や簡単な羨道をつけた横口式石槨などがある。

こうした埋葬施設の変化とともに、副葬品にも大きな変化が生じる。それは従来からみられた鏡、鉄製の武器、武具や馬具などの副葬品に、新しく多量の須恵器すえき土師器はじきなどの土器が加わることである。
こうした横穴系の埋葬施設の普及や墓室内への大量の土器の副葬は、朝鮮半島などの古墳とも共通する新しい葬送儀礼や来世観の広がりを反映するものと考えられている。

古墳時代中期の中葉以降に出現した人物・動物埴輪の樹立は、後期になるとさらに盛んになった。こうした人物・動物埴輪の群像は、その古墳に葬られた首長がマツリゴトを執行するさまを表現したもの、亡き首長から新しい首長が首長権を継承するための儀礼を表現したもの、あるいは葬送儀礼のさまを表現したものとする諸説があるが、確実なことはわかっていない。
九州の古墳には土製の埴輪とともに石の埴輪である石人せきじん・石馬が立てられ、また九州や山陰地方、さらに茨城県・福島県などの古墳や横穴には、墓室の内部に彩色や線刻による壁画がみられるなど、古墳の地域色が顕著になった。
関東地方の古墳には、人物・動物埴輪を樹立するものが極めて多いことも、こうした地域色の一つとして理解できる。

古墳それ自体の変化とともに、古墳のあり方にも大きな変化が生じる。近畿地方中央部では、後期になっても大阪府河内大塚古墳、奈良県五条野(見瀬)丸山古墳など依然として巨大な前方後円墳が営まれるのに対し、それ以外の地域ではあまり大規模な古墳がみられなくなる。
例えば、中期には造山古墳など近畿の大王墓に匹敵するような巨大な前方後円墳が営まれた吉備地方(岡山県、広島県東部)でも、後期には岡山県総社市のこうもり塚古墳が最大の前方後円墳である。このことは、日本列島各地の豪族が同盟して連合政権をつくるという形から、大王を中心とする近畿地方の勢力に各地の豪族が服属する形へと、ヤマト政権の性格が大きく変質していったことを示している。

こうした支配者層の大型古墳のあり方の変化とともに、今一つ注目されるのは、小型古墳の著しい増加である。大規模な平野部やその周辺ばかりでなく、山間部や瀬戸内の小島にまで群集墳と呼ばれる小古墳が多数営まれるようになる。奈良県新沢千塚古墳群や和歌山県岩橋千塚古墳群など各地に今も残る千塚や塚原などの地名はその名残であり、例えば大阪府の平尾山千塚古墳群では、横穴式石室をもつ小円墳を中心に約1500基もの古墳が確認されている。これは、それまで古墳を造営することなど考えられなかった階層の人々までもが古墳をつくるようになったことを示すものにほかならない。本来は、各地の支配者である首長たちだけで構成されていた連合政権の身分秩序に、新たに台頭してきた有力農民層をも組み込むことによって支配体制の強化を目指したものととらえられている。

装飾古墳

古墳の墓室の内部や石棺に絵画や彫刻などの装飾を施したものを装飾古墳と呼んでいる。
すでに前期の段階に、石棺に直線と弧線を組み合わせた直弧文と呼ばれる呪術的な文様や鏡など、魔除けの意味をもつ図文を彫刻したものがみられる。
中期になると、九州の有明海沿岸では、石棺の内外面や横穴式石室の内部に立てめぐらされた石障と呼ばれる板石に直弧文や鏡、さらにゆきや盾など武具の図文を彫刻したものが盛んにつくられ、さらにそれらの図文に赤・青・白などの色を加えたものが現れる。
そして後期になると、九州を中心に横穴式石室の内部の壁面に彩色壁画を描いた華麗な装飾古墳が登場する。こうした九州の古墳の彩色壁画には、中期以来の直弧文の流れをくむ連続三角文、円文(鏡)、武器・武具など魔除けの図文以外に、船や馬などの絵が加わる。
この船や馬については、死者の来世への乗り物ではないかと考えられている。
この段階の装飾古墳を代表するのは福岡県王塚古墳で、5色の彩色で見事な壁画が描かれている。

九州の一部の古墳には、方位を司る神である四神(福岡県竹原古墳)や月を象徴するヒキガエル(福岡県珍敷塚古墳)など、中国や高句麗の壁画古墳のモチーフと共通する図文がみられる。これは何らかの形で高句麗などの壁画古墳の影響を受けたものと考えられ、本格的な装飾古墳が有明海沿岸で成立することとあいまって、日本列島の装飾古墳の成立には朝鮮半島の影響を考えざるを得ない。

九州以外にも、山陰地方、関東から東北南部の太平洋沿岸地域の古墳や横穴には、彩色あるいは線刻の壁画をもつものが数多くみられる。
それらの中には、茨城県虎塚古墳のように九州の壁画古墳の図文に近いものもみられるが、鳥取県地方の魚や茨城県の渦巻き文のように独自のモチーフの図文が描かれるものもあって、それぞれの地域で特色ある壁画が生み出されている。

なお、日本列島の装飾古墳の多くは壁画をもつ壁画古墳であるが、それらは前・中期の石棺や石障に彫刻をもつ古墳から発達したものであり、両者を一体的に捉えるために装飾古墳という用語が用いられている。

藤ノ木古墳

藤ノ木古墳
金銅装透彫鞍金具(後輪) Source:斑鳩町

藤ノ木古墳は、奈良県斑鳩町の法隆寺西方に位置する直径40数mの古墳時代後期にあたる6世紀後半の円墳で、その内部の横穴式石室内に家形石棺があり、2人の成年男子が合葬されていた。
東アジアで発見されている古代の馬具の中で、工芸的にも最高レベルの見事な金銅製馬具、豪華な倭風の大刀、冠、くつなどの金銅製装身具類、鏡、鉄製武器、鉄製農工具、土器などの豪華で多様な副葬品が発見されている。
この時代は、まだ前方後円墳がつくられている時代であるにもかかわらず、この古墳が中規模の円墳であること、それにもかかわらず超一級の豪華な副葬品をもつことから、被葬者は大王家の大王以外の人物、すなわち皇子みこクラスの人物ではないかと考えられている。この時期の近畿の支配者層の古墳で、本来の副葬品の全体像や埋葬の実態が明らかにされた例は少なく、貴重な調査例とされる。その調査成果は、古代国家成立前夜の近畿の最高支配者層が、東アジア世界でも最高水準の工芸品を手に入れていたこと、朝鮮半島風の装身具類を身につけながらも、伝統的な倭風の大刀をもち、鏡や農工具の副葬など、古墳時代前期以来の伝統的な習俗を保持していたことを示している。
このことは、当時の倭国の支配者層が積極的に外来文化を受け入れながらも、なお伝統的な価値観を大切にしていたこと、すなわち外来文化の受容に際し、受け入れる側の主体性が保たれていたことを示すものとして興味深い。

参考