義和団事件 北清事変と日英同盟 北清事変
北清事変(義和団事件)に出兵した連合軍(8カ国共同出兵) ©世界の歴史まっぷ
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北清事変と日英同盟

日英の接近、日清戦争の勝利でいよいよ日本もイギリスの紹介で列強クラブの仲間入り。洋装に高下駄、目が細くて出っ歯の男の登場にメンバーはとまどっている。

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北清事変と日英同盟

このような列強の進出に対抗して、清国内には光緒帝こうしょてい(1871〜1908)のもとで康有為こうゆうい(1858〜1927)·梁啓超りょうけいちょう(1873〜1929)らを中心に 、明治維新以来の日本の改革にならって立憲政治を取り入れて国内の改革をはかり、国力を充実しようとする動き(変法自強の運動(戊戌の変法)がおこったが、1898年、西太后せいたいこう(1835〜1908)ら保守派のクーデタによって変法派は一掃され、その多くは日本などの海外に亡命を余儀なくされ、改革は挫折した(戊戌の政変ぼじゅつのせいへん)。

戊戌の変法
戊戌の政変 ©世界の歴史まっぷ

19世紀末、日清戦争に敗れて洋務運動からの転換を迫られた清国は、康有為らを中心に明治維新を範に議会政治を基本とする立憲君主制をめざす変法運動を展開した。しかし、西太后によって変法運動は弾圧され、義和団の乱を招くこととなった。 参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

日本に亡命した梁啓超は、日本の歴史・文化・生活習慣などを研究して、業績をあげた。

こうした情勢のさなかに、民衆の間に外国人排斥気運が高まり、山東省では義和団ぎわだんを中心に「扶清滅洋ふしんめつよう」を叫ぶ排外運動がおこった。清国政府がむしろこれをあおり立てたので、運動は華北ー帯に広がり、各地でキリスト教会が襲われ、外国人宣教師が殺されたり、鉄道が破壊されたりした。1900年には、北京でドイツ公使や日本の公使館書記生が殺害され、列国公使館が清国兵や民衆に包囲された。清国は列国に宣戦を布告した。日本は米・英・露・仏などの諸国とともに軍隊を派遣し、義和団の乱を鎖圧して外交官や居留民を救出した。翌1901年、北京議定書が調印され、清国は列国にばく大な賠償金を支払い、北京などに列国の守備兵をおくことを認めた。これが北清事変ほくしんじへん(義和団事件)である。

ロシアの満州占領 北清事変と日英同盟
ロシアの満州占領 ©世界の歴史まっぷ

1900年の義和団の乱に際し、満州に出兵したロシアは、その鎮圧後も撤兵せずに占領を続けた。イギリスとの外交に不満を持つ伊藤博文は「満韓交換」をおこなう日露協商論を主張したが、桂内閣は日英同盟協約を締結して日英同盟を成立させ、韓国の権益をまもる方針をとった。

ところが、口シアは北清事変が収まったのちも十数万人の大軍を満州にとどめ、事実上、満州を軍事占領し、さらに清国と露清密約を結んで南下する気配を示した。このため韓国を勢力下におこうとした日本は、韓国問題と満州問題をめぐって正面からロシアと対立するにいたった。

北清事変と日英同盟
北清事変に出兵した連合軍 ©世界の歴史まっぷ

1900年、義和団は天津の外国人居留地を攻撃し、さらに北京の各国公使館を包囲した。これに対し、8カ国による列強の連合軍が形成され、救援することになった。なかでも日本は、1個師団を出兵させ、連合軍の主力であった。 参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

ロシアの勢力拡張に脅威を感じた日本政府部内には、二つの意見が生じた。ーつは伊藤博文井上馨らの日露協商論で、ロシアの満州における自由行動を認めるかわりに、日本の韓国支配を認めさせようとするいわゆる満韓交換まんかんこうかんによって、日露間の利害を調整しようとするものであった。これに対し、桂太郎首相小村寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟論を唱えた(第1次桂内閣)。勢力均衡の立場からどことも同盟を結ばず「光栄ある孤立」を保ってきたイギリスではあったが当時バルカンや東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて日英同盟論を歓迎し、1902(明治35)年1月に日英同盟協約が成立した。

協約の内容は、(1)清国・韓国の独立と領土保全を維持するとともに、日本の清韓両国及びイギリスの清国における政治的·経済的特殊利益を互いに擁護し、(2)もし日英のいずれかが第三国と戦争を始めたときは、他方は厳正中立を守り、(3)さらに二国以上と交戦したときは援助を与え、共同して戦闘にあたる、というものであった。

北清事変と日英同盟
1987年の日本 – 列強クラブの新入り(ジョルジュ・ビゴー画//明治30年)©世界の歴史まっぷ

日英の接近、日清戦争の勝利でいよいよ日本もイギリスの紹介で列強クラブの仲間入り。洋装に高下駄、目が細くて出っ歯の男の登場にメンバーはとまどっている。 参考:明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界

このように日英同盟協約は日本が欧米列強と結んだ初めての対等条約で、これは日本にとって欧米先進諸列強への仲間入りを意味するものであった。こうして日本は国際政局に登場し、列強相互の対立を利用しつつ、対外的な勢力拡張を企てることになった。

帝国主義

帝国主義という言葉は非常にさまざまな意味をもっており、最も広義には、「侵略主義」あるいは対外的な勢力拡張政策一般と同じ意味に使われる。しかし狭義には、とくに独占資本主義段階における積極的な対外膨張政策を指す場合が多い。この段階では、生産の独占集中・金融資本の支配・資本の輸出などの経済的特色がみられ、これらを背景に武力による海外植民地設定·領土拡張政策が進められるとされる。世界史的には19世紀末期から帝国主義時代が始まったと考えられている。日本がいつごろから帝国主義段階に入ったかについては諸説あるが、日露戦争以後とする説が有力である。いずれにせよ、日本の場合は国内における独占資本の十分な成熟を待たずに、国内の経済的な条件よりも、むしろ国際政治の条件に刺激されて、対外膨張政策へ突入したという面が強い。

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参考