桓武天皇
桓武天皇像(延暦寺蔵)©Public Domain

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桓武天皇かんむてんのう A.D.737〜A.D.806
第50代天皇(在位781年4月30日 - 806年4月9日)。第49代光仁天皇(白壁皇子)の第1皇子(山部王)。母は高野新笠たかののにいがさ。父の譲位で即位し、長岡京・平安京と遷都する。健児こんでい勘解由使かげゆしをおき、坂上田村麻呂さかのうえの-たむらまろを征夷大将軍として東北地方に派遣するなど、律令国家としての強化・拡大をはかった。正史「続日本紀しょくにほんぎ」を完成させ、その治世中、最澄空海により唐から新仏教がつたえられた。

桓武天皇

桓武天皇
天皇家と藤原家の関係 ©世界の歴史まっぷ

律令国家の形成

平安京の確立と蝦夷との戦い

奈良時代後期の政治的変動の中で、称徳天皇が死去して専権をふるった道鏡が追放されたのち、式家の藤原百川らの策謀によって、それまでの天武天皇系の皇統にかわって天智天皇系の白壁王(施基皇子しきのみこの子)が即位し、光仁天皇こうにんてんのうとなった。
はじめ光仁天皇の皇后には、天武天皇系の血を継ぐ聖武天皇県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじとの間に生まれた井上内親王とその子他戸親王おさべしんのうが立ったが、その2人も排除されて、やがて光仁天皇と渡来系氏族出身の高野新笠たかののにいがさとの間に生まれた山部親王が即位し、桓武天皇かんむてんのうとなる。山部親王擁立の背景にも、藤原百川の力があった。

桓武天皇は、光仁天皇がとった行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策を受け継ぐとともに、新しい王朝の基盤を固め、それまでの仏教政治の弊害を断つ意味も込めて、784(延暦3)年に大和の平城京から山背国乙訓郡長岡の長岡京(京都府日向市など)に遷都した。しかし、新しい皇族の桓武天皇の基盤ははじめ確固としておらず、遷都に反対する勢力もあって、桓武天皇の腹心で長岡京の造営を主導していた藤原種継ふじわらのたねつぐ(藤原百川の甥)が暗殺される事件がおこった。この事件をめぐって皇太子の早良親王さわらしんのうや大伴氏・佐伯氏の人々が退けられ、幽閉された早良親王は自ら食を絶って憤死した。貴族層内の対立が表面化する一方、桓武天皇の母や皇后が相次いで死去した。こうした不幸が早良親王の怨霊によるものとされる中で、なかなか完成しない長岡京からの再遷都がはかられ、794(延暦13)年、ついに山背国葛野郡宇太の地(京都市)に新都を造営した。

新都は期待を込めて平安京と名付けられ、「山背国」も「山城国」と改められた。以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くまで、国政の中心が平安京にあった約400年間を平安時代と呼んでいる。
平安京は、東西約4.5km、南北約5.2kmの平城京にほぼ近い規模で、その条坊の痕跡は今の京都の街並み・道路に姿をとどめている。

桓武天皇は、長岡京そして平安京への遷都とともに、東北地方の蝦夷の支配に力を注いだ。奈良時代以来、東北では各地に置かれた城柵を行政拠点として、東国などの各地から移住させた農民(柵戸)による開拓を進める一方、帰順した蝦夷を国内各地に俘囚ふしゅうとして移住させ、蝦夷の地への浸透がはかられた。しかし、光仁天皇の時の780(宝亀11)年、帰順した蝦夷で郡司に任じられていた伊治呰麻呂これはりのあざまろが乱を起こし、一時は多賀城を陥れるという大規模な乱に発展した。こののち、蝦夷を軍事的にに制圧するための大軍が継続的に送られ、東北では30数年にわたって戦争状態が繰り返された。

蝦夷征討

桓武天皇は788(延暦7)年、紀古佐美きのこさみを征東大使とし、翌年、大軍を進めて北上川きたかみがわ中流の胆沢いさわ地方の蝦夷勢力を制圧しようとしたが、蝦夷の族長阿弖流為あてるいの活躍により征東軍は大敗した。
次は周到に準備して、大友弟麻呂おおとものおとまろを征夷大使、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろを副使として大軍を送り、田村麻呂らの活躍によって成果をあげた。
坂上田村麻呂は797(延暦16)年には征夷大将軍となり、さらに802(延暦21)年には胆沢の地に胆沢城いさわじょう(岩手県奥州市)を築き、阿弖流為を帰順させて胆沢地方を制圧する。そして郡司官庁の鎮守府を多賀城から北の胆沢城に移した。
翌803(延暦22)年にはさらに北方に志波城しわじょう(岩手県盛岡市)を築造し、東北経営の前進拠点とした。こうして北上川の上流地域まで、また日本海側でも米代川流域まで律令国家の支配権が及ぶこととなった。のち嵯峨天皇さがてんのう811(弘仁2)年に文室綿麻呂ふんやのわたまろを征夷将軍として送り、綿麻呂は雫石しずくいし川の侵浸を受けた志波城を移して、その南に徳丹とくたん城(岩手県矢巾町)を築いた。

しかし、桓武天皇が追求した造都と征夷の二大政策は、国家財政やそれを支えた民衆への過大な負担を伴うものであった。晩年の805(延暦24)年、桓武天皇は徳政相論とくせいそうろんと呼ばれる議論を裁定し、藤原緒嗣ふじわらのおつぐの「天下の民が苦しむところは軍事と造作である」という意見を入れて、ついに対蝦夷戦と平安京造営の二大事業を打ち切ることを決定した。

平安初期の政治改革

桓武天皇は、26年に及ぶ在位のうちに強い権力を確立し、長く左大臣をおかないなど、貴族をおさえながら積極的に政治改革を進めた。特に地方政治の改革に力を入れ、奈良時代に多増下していた定員外の国司や郡司を廃止し、また勘解由使かげゆしを設けて国司交替の際の事務引き継ぎを厳しく監督させた。そして、国司在任中の徴税や官有物の管理などに問題がなかった時に新任国司から前任国司に対して与えられる文書である解由状の授受を厳重に審査させた(解由制)。

また、対外的緊張のゆるみもあって、東北の陸奥・出羽や九州の地を除いて、従来の兵役による兵士の質の低下などで行き詰まっていた軍団兵士を廃止して、健児の制を設けた。
律令に基づく軍団制は、正丁3〜4人に1人の割合で兵士を徴発して軍団で訓練させるものであったが、農民に大きな負担となり、役立たない状況ともなっていたので、郡司の子弟や有力農民から志願により少数精鋭の健児を採用した。健児には国の大小や軍事的必要に応じて国ごとに20人〜200人までの人数を定め、60日交替で国府の警備や国内の治安維持にあたらせたものである。
なお、九州には選士せんし1320人、陸奥には健士けんし2000人をおいて、同様に軍事力の維持強化をはかっている。階層分解の目立つ一般農民の負担を軽減しながら兵士の質の向上をはかる政策であった。

地方と貴族社会の変貌

8世紀の後半から、農村では調・庸や労役の負担を逃れようとして浮浪・逃亡する農民が相次いだ。その背景には、農民層が有力農民とその経営下に入る農民とに分解していったこと、また貴族・寺院などによる大土地所有が進展して、浮浪・逃亡農民を受け入れたことなどがある。9世紀になると、戸籍には兵役・労役・租税負担の中心となる男性の登録を少なくするなど偽りの記載(偽籍ぎせき)が増え、平均的な農民家族を単位として班田収授を行い、租税の徴収をはかってきた律令の制度は実態と合わなくなる。こうして、手続きの煩雑さもあって8世紀の終わりころから班田収授の実地が困難になっていった。

桓武天皇は、班田収授を励行させるため、6年1班であった班田の期間を12年(一紀いっき)1班に改め、律令の定める土地制度の維持をはかった。また農民の負担軽減として、公出挙くすいこの利息を利率5割から3割に減らし、また雑徭ぞうようの期間を年間60日から30日に半減するなど、農民の生活安定と維持を目指した。しかし、9世紀には班田が30年、50年と行われない地域が増えていった。

唐風文化と平安仏教

平安新仏教

奈良時代の後半には仏教が政治に深く介入して、過度な仏教中心政策がとられる弊害もあったことから、桓武天皇は、遷都に伴って南部の大寺院を長岡京・平安京に移転することを認めず、最澄空海らによってもたらされた、従来の国家仏教とは異なる新しい仏教を志向する仏教界の動きを支持した。

桓武天皇が登場する作品

空海

弘法大師空海入定1150年を記念して製作された1984年の映画。空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、桓武天皇を丹波哲郎、嵯峨天皇を西郷輝彦が演じています。
空海(映画)登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ

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