嵯峨天皇
嵯峨天皇像 ©Public Domain

嵯峨天皇


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嵯峨天皇さがてんのう A.D.786〜A.D.842
第52代天皇(在位809年5月18日 - 823年5月29日)。桓武天皇の第二皇子で、母は太政大臣藤原良継(式家)の娘乙牟漏。皇后は橘諸兄の子・橘奈良麻呂の孫・橘嘉智子。先代:同母兄・平城天皇, 次代:異母弟・淳和天皇。

嵯峨天皇

嵯峨天皇
天皇家と藤原氏の関係系図1-2

律令国家の形成

平安朝廷の形成

平安京の確立と蝦夷との戦い

嵯峨天皇811(弘仁2)年に文室綿麻呂ふんやのわたまろを征夷将軍として送り、綿麻呂は雫石川の侵浸を受けた志波城を移して、その南に徳丹城(岩手県矢巾町)を築いた。

平安初期の政治改革

嵯峨天皇は、天皇の秘書官長としての蔵人頭くろうどのとうや、平安京内の警察や裁判にあたる検非違使けびいしなど、令に定められていない新しい官職(令外間りょうげのかん)を設けた。
蔵人頭は、810(弘仁元)年の平生太后天皇の変(薬子の変くすこのへん)の際、嵯峨天皇が太上天皇側に秘密が漏れることなく天皇の命令を太政官組織に伝えるために側近の藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐ巨勢野足こせののたりらを任じたのが始まりで、その役所が蔵人所くろうどどころである。

平城太上天皇の変(薬子の変)

809(大同9)年、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位したが、太上天皇としての権威と権力は保持しており、嵯峨天皇が病になると、翌年、寵愛する藤原薬子ふじわらのくすこ(藤原種継の娘)やその兄藤原仲成ふじわらのなかなりとともに再び権力を握ろうとして、もとの平城京への遷都をはかった。
平安京の天皇と平城京の太上天皇の間で「二所朝廷にしょちょうてい」と呼ばれる政治的混乱となったが、迅速な対応をとった嵯峨天皇側の勝利となり、仲成は射殺され、東国に向かうことに失敗した太上天皇は出家し、薬子は毒を飲んだ。「薬子の変」と呼ばれるのは嵯峨天皇が罪を太上天皇に及ぼさないようにしたためで、実は平城太上天皇が深く関わっていた。この変を契機に、天皇の意思を太政官組織に迅速に伝えるための蔵人頭が設けられるなど、政治の仕組みにも影響を与えた。

蔵人は、やがて天皇の側近として宮廷において政治的な重要な役割を果たすことになった。検非違使は、初めは犯人逮捕や治安維持など警察的任務にあたったが、のち訴訟・裁判も行うようになって、やがて京都の政治を担う重要な職となった。

嵯峨天皇は法制の整備も進めた。律令の制定後に実際の政治過程で出されたさまざまな法令を、律令を補足・修正した法令であるきゃくと施行細則であるしきとに分類・編集し、弘仁格式こうにんきゃくしきが編纂された。これも、実態に合わせた政治の実務の遂行をはかったものと言える。その後も法典の編纂は受け継がれ、清和天皇せいわてんのうのときに貞観格式じょうがんきゃくしき醍醐天皇だいごてんのうのときに延喜格式えんぎきゃくしきが編纂されて、合わせて三代格式さんだいきゃくしきと呼ばれている。格については、3代の格を集めて分類した『類聚三代格るいじゅうさんだいきゃく』、式については、最も整った『延喜式』が今日に伝わっている。そのほか、国司交替についての規定として、延暦・貞観・延喜の3代の『交替式こうたいしき』もつくられている。833(天長10)年には、それまでまちまちであった令の条文解釈を公的に統一した『令義解りょうのぎげ』が清原夏野きよはらのなつのらによって編纂された。さらに9世紀後半には、惟宗直本これむねのなおもとによって、令の諸注釈を集めた『令集解りょうのしゅうげ』が私的に編まれている。

地方と貴族社会の変貌

8世紀後半から調・庸などの租税の都への貢進が遅れたり、品質が悪くなったり、未進となることが広まると、中央の国家財政の維持が次第に困難になっていった。政府は、国司・郡司たちの租税徴収に関わる不正・怠慢を取り締まるとともに、823(弘仁14)年には大宰府管内に公営田くえいでんを設けた。

公営田

823(弘仁14)年に太宰大弐小野岑守おののみねもりの建議で、大宰府管内で行われた田制。良田1万2000余町の口分田などを公営田くえいでんとし、徭丁ようてい6万余人を動員して5人ごとに1町を耕作させ、収穫した稲から、徭丁の調・庸・租分を差し引き、食料も支給してなお残る100万余束を納官する仕組み。徴収が困難な調・庸などの人別負担を土地別に課するという、人から土地への課税方式の変更でもあった。

やがて中央の諸官司は、それぞれ自らの財源となる諸司田しょしでんをもち、国家から支給される禄に頼ることができなくなった官人たちも、墾田を集めて自らの生活基盤を築くようになった。9世紀には、天皇も勅旨田ちょくしでんと呼ぶ田をもち、皇族にも天皇から賜田しでんが与えられるようになった。こうして、太宰官を中心に地方から徴収した租税を官人たちに分配する統一的・一元的な律令の財政体系は変質していった。

唐風文化と平安仏教

平安京に遷都してから9世紀末ころまでの文化を、嵯峨天皇・清和天皇の時代の元号をとって弘仁・貞観文化こうにん・じょうがんぶんかと呼んでいる。
この時代は、政治的には新しい都で律令制を改革して文章経国もんじょうけいこくがはかられ、文人貴族が登用されることもあった。貴族たちは平安京において都市貴族化する一方、文化的には唐文化を摂取して自らのものに消化した段階を迎え、宮廷で漢文学が発展した。また仏教では、新たに最澄空海らによって伝えられた天台宗・真言宗が広まり、密教が盛んになったという特色をもつ。

書道では、唐風文化の隆盛に応じて唐風の書(唐様からよう)が広まり、嵯峨天皇・空海・橘逸勢たちばなのはやなりらが能書家として知られ、のち三筆さんぴつと称せられた。空海が最澄に送った書状の『風信帖ふうしんじょう』は、闊達かったつな唐様の名筆として名高い。

嵯峨天皇は、法典を編纂するとともに、中国風の文化を重んじ、日本在来の風習に多くの唐風の儀礼を取り入れてさまざまな宮廷の儀式を整え、確立した。嵯峨天皇の時に『内裏式』が撰され、のちの儀式署に続いていく。儀式の整備は、法典や歴史書の編纂とならんで、文化と結びついた国家経営の一環として重視されたものである。
また、平安宮内の殿舎に唐風の名称をつけたほか、文章経国もんじょうけいこくの思想に基づいて政界に文人・学者を登用するとともに、宮廷で漢詩文を詠む宴をしばしば催した。
もともと古代貴族の教養として漢詩文をつくることは重視されており、奈良時代にも漢詩集として『懐風藻』が編まれたが、9世紀前半の嵯峨天皇・淳和天皇のころには、814(弘仁5)年に小野岑守おののみねもりら撰の『凌雲集りょううんしゅう』、818(弘仁9)年に藤原冬嗣・仲雄王なかおのおおきみら撰の『文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう』、827(天長4)年に良岑安世よしみねのやすよ滋野貞主しげののさだぬしら撰の『経国集』といった3つの勅撰漢詩文集が相次いで編まれ、漢文学が盛んになった。漢詩文を自らのものとし習熟した表現を持つ作品が作られるようになり、嵯峨天皇や空海・小野篁おののたかむら都良香みやこのよしか、そしてやや遅れて菅原道真すがわらのみちざねらが優れた作者として知られている。この時代が、文学史における「国風暗黒時代」と称されるほどである。

嵯峨天皇が登場する作品

空海

弘法大師空海入定1150年を記念して製作された1984年の映画。空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、桓武天皇を丹波哲郎、嵯峨天皇を西郷輝彦が演じています。
空海(映画)登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ

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