孝明天皇
孝明天皇(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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孝明天皇 こうめいてんのう( A.D.1831〜A.D.1866)

第121代天皇(在位1846〜66)。公武合体の立場をとり、通商条約に強く反対した。妹和宮の降嫁を認め、尊攘急進派を抑制したが、第二次長州征討中に急死、幕府の痛手となった。

孝明天皇

在位1846〜66。公武合体の立場をとり、通商条約に強く反対した。妹和宮の降嫁を認め、尊攘急進派を抑制したが、第二次長州征討中に急死、幕府の痛手となった。

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第121代天皇。徹底した上位鎖国論者で、安政の五カ国条約に際し幕府に開国条約調印の勅許を与えなかった。しかし倒幕運動には反対で、1862年に公武合体を支持して皇女和宮の降嫁を行う。八月十八日の政変で朝廷より尊攘派を追放。天然痘を病み急死。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

開国と幕末の動乱

開国

日米和親条約に基づき、1856(安政3)年、アメリカの初代駐日総領事として下田に駐在したハリス(Harris, 1804〜78)は翌57(安政4)年、江戸に入って将軍に謁見し、強い姿勢で通商条約の締結を求めた。ハリスとの交渉にあたった老中首座堀田正睦ほったまさよし(1810〜64)は勅許を得ることによって通商条約をめぐる国内の激しい意見対立をおさえようと上京し、アメリカをはじめとする列強と戦争になることを避けるため、条約を結ばざるを得ないと朝廷を説得した。堀田は勅許を容易に得られるものと判断していたが、朝廷では孝明天皇こうめいてんのう(在位1846〜66)を先頭に条約締結反対・鎖国攘夷の空気が濃く、勅許を得ることができなかった。

ところが1858年、アロー戦争(第2次アヘン戦争)で清国がイギリス・フランスに敗北して天津条約を結んだことが伝えられると、ハリスはこれを利用してイギリス·フランスの脅威を説き、早く通商条約に調印するよう迫った。大老に就任した井伊直弼(1815〜60)は、勅許を得られないまま同年6月日米修好通商条約に調印した。しかし、この調印は反対派から違勅調印いちょくちょういんであるとして、幕府への激しい非難と攻撃を生んだ。

政局の転換

ハリスから通商条約の調印を迫られていたころ、幕府では13代将軍家定(1824〜58)に子がなかったため、その後継を誰にするのかという将軍継嗣問題が大きな争点となっていた。越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・土佐藩主山内豊信雄藩の藩主は、「年長・英明」な将軍の擁立をかかげて徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(1837〜1913)を推し、譜代大名らは幼年ではあるが血統の近い紀伊藩主徳川慶福(のち徳川家茂、1846〜66)を推して対立した。慶喜を推す一橋派は、雄藩の幕政への関与を強めて幕府と雄藩が協力して難局にあたろうとし、慶福を推す南紀派は、幕府の専制政治を維持しようとし、朝廷も巻き込んで激しく争った。結局通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という難局に対処するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めた。

通商条約の調印は、開港を好まない孝明天皇の激しい怒りを招き、幕府への違勅調印の非難は高まったが、井伊は一橋派を厳しく取り締まり、公家や大名とその家臣、さらには幕臣たち多数を処罰し、弾圧した。この安政の大獄では、徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永らは蟄居ちっきょ・謹慎などを命じられ、越前藩士の橋本左内(1834〜59)・長州藩士の吉田松陰(1830〜59)・若狭小浜藩士の梅田雲浜(1815〜59)・頼山陽の子三樹三郎(1825〜59)らが処刑されるなど、処罰を受けた者は100名を超えた。しかし、この厳しい弾圧に憤激し、水戸藩を脱藩した浪士たちは、1860(万延元)年、井伊を江戸城桜田門外に襲って暗殺した。
この桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の独裁は崩れ始めた。

公武合体と尊攘運動

桜田門外の変のあと、幕政の中心にすわった老中安藤信正(1819〜71)は、通商条約調印により対立した朝廷との関係を改善し、それによって幕府批判勢力をおさえ込み、さらに条約問題で分裂した国論を統ーして幕府の権威を回復させるため、朝廷(公)と幕府(武)が協調して政局を安定させようとする公武合体政策を進めた。それを象徴するものとして、孝明天皇の妹和宮かずのみや(1846〜77)を将軍家茂の妻に迎えることに成功したが、有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王(1835〜95)との結婚が決まつていたにもかかわらず降嫁させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、安藤は1862(文久2)年、江戸城坂下門外で水戸藩を脱藩した浪士らに襲われて傷つき、まもなく失脚した(坂下門外の変)。

倒幕運動の展開

1866(慶応2)年には、土佐藩出身の坂本竜馬(1835〜67)・中岡慎太郎(1838〜67)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允きどたかよしらが相互援助の密約を結び(薩長連合)、反幕府の態度を固めた。幕府は6月に攻撃を開始したが、長州藩領へ攻め込むことができず、逆に小倉城こくらじょうが長州軍により包囲され落城するなど戦況は不利に展開し、幕府はまもなく大坂城中で出陣中の将軍家茂が急死したことを理由に戦闘を中止した。また、この年の12月に孝明天皇が急死したことは、天皇が強固な攘夷主義者ではあったが公武合体論者でもあったので、幕府にとっては大きな痛手となった。

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