好太王碑
好太王碑填本(Wikipedia

好太王碑


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好太王碑こうたいおうひ

高句麗好太王(位391〜412, 広開土王ともいう)の功業記念碑。414年に子の長寿王が都の丸都城(中国吉林省集安市通溝に建立。高さ6.4m, 4面約1800字には倭の朝鮮出兵も記されているが、その解釈には諸説ある。

好太王碑

高句麗好太王(位391〜412, 広開土王ともいう)の功業記念碑。414年に子の長寿王が都の丸都城(中国吉林省集安市通溝に建立。高さ6.4m, 4面約1800字には倭の朝鮮出兵も記されているが、その解釈には諸説ある。

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好太王碑 碑文

倭に関する記述

399年
百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年
5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年
倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

日本の学会による解釈

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。

朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国の学会による解釈

諸説あり

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民
新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残はそんな倭と連合して(高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。(好太王は)臣民である(百残が)どうしてこんな事をしたのかと思った。

5世紀初の朝鮮半島地図

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