アンリ3世(フランス王)
アンリ3世(フランス王)(Frans Hogenber画/フランス国立図書館蔵)©Public Domain

アンリ3世(フランス王)


アンリ3世(フランス王)( A.D.1551〜A.D.1589)

ヴァロワ朝最後のフランス王(在位1574年5月30日 - 1589年8月2日)。ユグノー戦争のなか、兄シャルル9世(フランス王)のあとをついで即位。ギーズ公アンリ1世を暗殺するが自身も暗殺された。

アンリ3世(フランス王)

ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ主権国家体制の形成

フランス宗教戦争〜改革と狂信

1562年、新旧教派の流血事件を契機にユグノー戦争(1562〜1568)と呼ばれる宗教内乱が始まった。ギーズ公ら旧教派による新教派の大量虐殺がおこなわれたことで有名な1572年のサン・バルテルミの虐殺では、コリニー提督(ガスパール・ド・コリニー)をはじめ、多数のユグノーが犠牲になった。

この事件に関する死者は全国で3,000人をこえたといわれる。この事件は、カトリーヌ・ド・メディシスの謀略とされ、対立をいっそう激化させた。旧教派はローマ教皇・スペインなどと結び、ユグノーはイギリス・スイス・ドイツ新教諸侯の支持をえ、国外からの影響も加わった。アンリ3世(フランス王)によるギーズ公の暗殺がおこなわれ、今度はそのアンリ3世が暗殺されるなどの混乱が続いた。

アンリ3世(フランス王)が暗殺されてヴァロワ朝が絶えると、1589年、ナバラ王であったブルボン家のアンリがフランス国王位に登った(アンリ4世(フランス王)(位1589〜1610))。プロテスタントであったアンリ4世は、即位に際してカトリックに改宗し、この一方、1598年にはナントの王令を発して、ユグノーにも信仰の自由と市民権を認める政策をとった。こうして、内乱はようやく収拾され、フランスの王権は急速に強化された。

フランス宗教戦争〜改革と狂信 – 世界の歴史まっぷ

略歴

  • 1551年 アングレーム公(1551年 – 1582年)
  • 1560年 オルレアン公(1560年)
  • 1556年 アンジュー公(1566年 – 1576年)
  • 1562年 ユグノー戦争勃発
  • 1569年 ジャルナックの戦い 勝利
  • 1569年 モンコントゥールの戦い 勝利
  • 1570年 エリザベス1世(イングランド女王)37歳への求婚準備 宗教観の違いと18歳の年の差などにより実現せず
  • 1572年 サン・バルテルミの虐殺
  • 1572年 ポーランド王(1573年5月9日 – 1575年5月12日)
    ポーランド・リトアニア共和国のジグムント2世(ポーランド王)が嗣子なく没しヤギェウォ朝断絶。国王候補にあがる。マクシミリアン2世(神聖ローマ皇帝)の息子エルンスト・フォン・エスターライヒ(1553-1595)、ヨハン3世(スウェーデン王)、ロシアのツァーリイヴァン4世らが対立候補のなか、アンリが選出される
  • 1574年 兄シャルル9世(フランス王)死去。貴族の権力が異常に強く王権の弱いポーランドの政治文化に違和感のあったアンリは、シャルル9世の訃報が届くとフランスに逃亡した。
  • 1574年 フランス王(1574年5月30日 – 1589年8月2日)
    フランス王位を継いだアンリ3世(フランス王)は母后カトリーヌ・ド・メディシスと、カトリックとプロテスタントが激しく対立する国政にあたった。
  • 1576年 ボーリュー勅令
    カトリーヌに軽んじられていた弟フランソワ(アンジュー公)(1555〜1584)が南方のプロテスタントと組んで一時的に国王に反旗を翻したため、苦境に立ったアンリ3世は1576年、ボーリュー勅令によってパリ城内を除くフランス全土でのプロテスタントの公的礼拝を許すことになった。
  • 1576年 第6次ユグノー戦争(1576年 – 1577年)
    しかし今度は過激派のカトリック貴族がカトリック同盟を結成してボーリュー勅令を廃止に追い込んだ。これに対してナバラ王アンリを盟主とするプロテスタントが蜂起した(第6次ユグノー戦争)が、カトリック側から味方になる者はおらず、1577年のベルジュラックの和約ではユグノー側への宗教的寛容が大きく制限された。
  • 1579年 第7次ユグノー戦争(1579年 – 1580年)
    これに不満な一部の急進派プロテスタントはアンリ1世(コンデ公)を担いで反乱を再発させた(第7次ユグノー戦争)が失敗に終わって、王国内には一時的に平和が訪れた。
  • 1584年 第8次ユグノー戦争(1585年 – 1588年)(三アンリの戦い)
    弟フランソワ(アンジュー公)が亡くなると、サリカ法に基づきナバラ王アンリが筆頭王位継承者となった。このことは反プロテスタント感情を再び高め、パリ市民の強い支持を得たアンリ1世(ギーズ公)率いるカトリック同盟が1585年3月に北フランスの主要都市を占拠する軍事行動に出た(第8次ユグノー戦争 / 三アンリの戦い)。
    アンリ3世は面目を守るためにカトリック同盟の盟主となり、彼らの意に従ってナバラ王のフランス王位継承資格を奪い、プロテスタントに改宗を強制する七月勅令を発した。これに対してプロテスタント側はナバラ王を指導者として戦うことを決め、イングランド、デンマークなどのプロテスタント諸国の支援を取り付けた。また穏健なカトリック教徒たちも、ガリカニスム(フランスのカトリック教会のローマ教皇からの独立、教皇権の制限を求める政治的、宗教的立場のこと)の伝統を無視するカトリック同盟のローマ教皇との結び付きを危険視し始めた。
  • 1588年 ギーズ公アンリ1世暗殺
    宗教内戦の平和的解決を願うアンリ3世(フランス王)は、英雄視されるギーズ公と違いカトリック同盟内では評判が悪かった。アンリ3世はギーズ公の野心を察知してパリ入城を禁じたが、逆にパリ市民は国王に対して蜂起し、アンリ3世は身の危険にさらされてシャルトルに逃亡した。カトリック同盟はギーズ公の主導のもと、ブロワで三部会を招集し、王権の制限を議論し始めた。これに対する報復として、アンリ3世は和解すると偽ってギーズ公と弟のギーズ枢機卿(ルイ・ド・ロレーヌ(1555-1588))を暗殺させると、今度はナバラ王のいるプロテスタント陣営と協力関係に入った。パリ市民とカトリック同盟は憤激し、アンリ3世をもはや国王と認めないと宣言して、ギーズ公の弟シャルル(マイエンヌ公)を新指導者に推戴するに至ったため、王国は完全に二つに割れた。
  • 1589年 アンリ3世(フランス王)暗殺
    8月1日朝、アンリ3世はカトリック同盟に属するドミニコ会修道士ジャック・クレマンの謁見に応じたが、この暗殺者に短剣で襲われて重傷を負った。国王は翌日の深夜2時に死去し、ナバラ王がアンリ4世として分裂した王国の収拾に乗り出すことになった。

参考 Wikipedia

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