アンドリュ=ジャクソン
アンドリュ=ジャクソン(ホワイトハウス公式ポートレート/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

アンドリュー=ジャクソン


ジョン・クィンシー・アダムズ

マーティン・ヴァン・ビューレン

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アンドリュー=ジャクソン Andrew Jackson( A.D.1767〜A.D.1845)

第7代合衆国大統領(在任1829〜1837)。独立13州以外から出た最初の大統領。南部の奴隷所有者の圧倒的支持を背景に、自由貿易と州権論に基づく政策を定着させるとともに、先住民の強制移住法を制定した。ジャクソン大統領時代の民主化と改革は総称してジャクソニアン=デモクラシーとよばれる。

アンドリュー=ジャクソン

第7代合衆国大統領(在任1829〜1837)。独立13州以外から出た最初の大統領。南部の奴隷所有者の圧倒的支持を背景に、自由貿易と州権論に基づく政策を定着させるとともに、先住民の強制移住法を制定した。

ジャクソニアン=デモクラシー

ジャクソン大統領時代の民主化と改革の総称。白人男性普通選挙制の普及、二大政党制の確立、資本家勢力の抑止などを達成した。一方先住民に対しては強制移住を命じ、また労働運動や奴隷解放運動には敵対的であった。

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欧米における近代国民国家の発展

アメリカ合衆国の発展

民主主義の発展

1812年6月18日議会で宣戦布告が可決され、アメリカ=イギリス戦争(1812〜14)が勃発した。
アメリカ側はワシントンが占領されるなど戦況は不利であったが、イギリスとの貿易が絶えることによってアメリカ合衆国の経済的自立が始まり、ニューイングランド地方を中心に木綿工業の進展がみられた。1814年ナポレオン戦争が終結し、戦争継続の意味がなくなったので、12月オランダのガンで平和条約が締結された(ガン条約)が、この連絡が伝わらなかった英・米両軍が1815年1月ニューオーリンズ郊外で衝突し、のちに大統領になるアンドリュー=ジャクソンが率いるアメリカ軍が勝利した。

さらに19世紀前半におけるアメリカ合衆国にとっての重要な事件は1828年の大統領選挙であった。合衆国がイギリスから独立を達成したのち、フロンティア西漸せいぜんし(西漸運動(西部開拓))、白人の西部への入植が増大した。フロンティアの存在は東部の社会的矛盾を解決するものであり、産業資本のための広大な市場でもあり、西部には東部のような植民地時代からの伝統もなく、実力主義の社会であったので、アメリカの民主主義の進展に貢献したといわれる。この西部を背景に、アンドリュー=ジャクソン(1767〜1845 任2829〜37)が最初の西部出身の大統領となった(「1828年の革命」)。彼は資本家の力を抑えて社会の平等化に貢献し、民主主義が進展したのでこれをジャクソニアン=デモクラシー Jacksonian Democracy と呼ぶ。反ジャクソン派はジャクソンの専制を避難してホイッグ党(ウィッグ)を形成し、奴隷制反対運動の高まりに対応して54年共和党へと発展した。一方ジャクソン派は民主党を形成した。

ジャクソニアン=デモクラシー:スポイルズ=システム(党人任用制)と官職交代制の2つがその代表的制度である。これは、選挙に勝利した政党や党派が自分の支持者を官僚に任命して独占する制度で、だれでもが官僚になれることを示した。

アメリカの政党の発展と変遷

1824年の大統領選挙で旧フェデラリストを中心に結成されたのが国民共和党で、34年になってジャクソン大統領の「専制」に対抗する意味でホイッグ党と改名し、54年に奴隷制反対を唱えて資本家や西部農民を支持基盤として共和党に発展した。一方、反連邦派(リパブリカン)は1800年ジェファソン大統領を当選させ、連邦派の政策もとりいれて民主共和党が生まれ、モンロー大統領の時代には一党政治を実現した。しかし西部の開拓、南部奴隷制の拡大、政党の大衆化などの現象によって党内に労働者・西部農民・職人などの左派が台頭したので、西部出身のジャクソンを大統領に送り民衆中心の政策を進め、民主党と改名した。1829年から61年まで2期(8年)をのぞいて大統領を独占したが、40年代から50年代にかけては南部奴隷主が党の主導権を掌握したので、奴隷制問題が深刻化すると党内は分裂し、南北戦争を迎えた。

領土の拡張

インディアンの強制移住政策を進めたのが、アメリカ民主主義を進展させたとされるジャクソン大統領であった。彼は1830年インディアン強制移住法を制定し、在任中に94の移住条約を結び、インディアンを西部に設定した保留地へとおいやっった。チェロキー族はオクラホマまで約1300km、途中で飢え、寒さ、病気などで死亡したもの約4000人に達し、そのルートは「涙の旅路」 Trail of Tears と呼ばれた。そしてその保留地もインディアンの自作農を創設するとの大義名分のもと、部族の共同所有の土地を個人の所有に変更することによって貧困化したインディアンから土地を奪い取り、インディアンの生活基盤を奪っていった。組織的抵抗は1890年のウーンデッドニーの虐殺をもって終了し、フロンティアの消滅が宣言された。

これをドーズ法 Dawes Act, 正式にはインディアン一般土地割当法という。この法は保留地の部族共有地を廃止して個人の所有地にして、部族組織と部族文化を破壊して白人社会にインディアンを同化させようとする意図があった。すなわち、従来の軍事的征服から文化解体政策への転換を示す法である。
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