トプカプ宮殿
トプカプ宮殿 @Wikipedia

トプカプ宮殿


トプカプ宮殿

トルコのイスタンブールにある15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国のスルタンが居住した宮殿。1985年、世界遺産「イスタンブール歴史地区」に登録されている。
旧ビュザンティオン市のアクロポリスがあった旧市街の半島の先端の丘に位置する。かつては宮殿を取り囲む城壁の傍らにアヤソフィア・モスクがあり、この地区で帝国の政治と公的行事が執り行われていた。数百年にわたって増築を繰り返された宮殿建築が残る。宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されている。

トプカプ宮殿

歴史

1460年代頃 オスマン帝国第7代スルタン・メフメト2世が造営を開始。1478年頃までに完成。メフメト2世がここに居を定める。
1453年にコンスタンティノープルを征服して以来の宮殿が「旧宮殿」と呼ばれるようになったのに対して「新宮殿」(サライ・ジェディードあるいはイェニ・サライ)と呼ばれる。
またイスタンブールに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれる。
現在使われているトプカプ宮殿の名は、19世紀にこの宮殿から皇帝が去った後、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」(トルコ語:トプカプ)にちなんで呼ばれるようになった。
トプカプ宮殿
トプカプ宮殿「敬礼の門」Wikipedia

左右の尖った塔が「敬礼の門」で、トプカプ宮殿本体の入り口にあたる。この宮殿の台所であった場所にオスマン帝国宮廷が集めた東洋陶磁器のコレクションが展示されている。

宮殿は君主の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能した。君主(のちには大宰相)が主催するオスマン帝国の最高意思決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は、宮殿の「ドームの間」(クッベ・アルトゥ)と呼ばれる部屋で開かれ、古い時代にはさらに「ドームの間」の隣には中央政府の書記局と、帝国の公文書や宝物・税金を蓄える国庫が置かれた。

当初は後宮(ハレム)は旧宮殿に残されていたが、オスマン帝国第10代スルタン・スレイマン1世のときトプカプ宮殿に移された。
ハレムの人々は、スレイマンの夫人ヒュッレム・スルタンを端緒として16世紀後半頃から政治に介入するようになり、17世紀には君主の母后が政治を自由に動かす「女人の天下」と呼ばれる時代を迎えた。

17世紀中頃に大宰相の執務所と書記官僚の文書行政機構が大宰相公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に移ると、宮殿はオスマン帝国の最高政務機関としての実質を失った。その後も、トプカプ宮殿は依然として皇宮であり、帝国の儀礼と公式行事の中枢であったが、1853年に宮廷が西洋風のドルマバフチェ宮殿に移ってからは放置され、荒廃した。

トルコ共和国は、1924年にトプカプ宮殿を博物館とし、修復して一般の人々の見学に開放した。

参考 Wikiwand

世界遺産「イスタンブール歴史地区」

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