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西夏遠征


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西夏遠征
チンギス=ハン率いるモンゴル帝国が、西夏に対して起こした征服戦争。全五次(第一次〔1205年〕、第二次〔1207年〕、第三次〔1209年〕、第四次〔1218年〕、第五次〔1226年〕)にわたって行われた。
1227年にチンギス=ハンは病死するが、その3日後に西夏は滅亡した。

西夏遠征

背景

ウイグル(回鶻)崩壊以来、約300年ぶりにモンゴル高原を統一したモンゴル帝国は、急速に周囲に拡大しようとしており、周囲の金(王朝)、西夏、天山ウイグル王国といった国家は早くからその脅威を感じていた。
モンゴル帝国初代皇帝(大ハーン)チンギス=ハンが即位した頃には金(王朝)への遠征を視野に入れていたが、その準備段階として後顧の憂いをなくすため、またいわば誕生したばかりのモンゴル軍の小手調べの意味からも、西夏遠征が決定された。

経緯

第一次遠征

1205年 高原がチンギス=ハンによって統一されて初めて定住民に行われた遠征であったが、結果は芳しくなかった。都城の守備を固める方針をとった西夏に対し、攻城戦を知らないモンゴル軍は至るところで苦戦を強いられ、思うような戦果を上げることができなかった。一度講和を結びモンゴルの宗主権を認めさせ、モンゴル軍は西夏から撤退した。

第二次遠征

1207年秋、西夏の貢納の遅れを口実に再びモンゴル軍は西夏に侵攻した。しかしこのときも依然としてモンゴル軍は攻城戦に苦しみ、西夏の国土の一部を荒らしたにとどまった。

第三次遠征

1209年秋、再び西夏に侵入したモンゴル軍は、今度は国王・襄宗(西夏)の世子の軍を破り、いくつかの都城を落として首都興慶(現在の銀川)に迫った。
興慶で籠城戦を続ける襄宗(西夏)に対し、チンギス=ハンは水攻めを行おうとしたものの失敗し、かえって自陣に洪水が氾濫することとなり、撤退を余儀なくされた。チンギス=ハンは自ら講和の使者を出し、襄宗が娘をチンギス=ハンの妃として差し出すことで講和は締結され、モンゴル軍は撤退した。結果として西夏はモンゴル軍を撃退した形となったが、3度にわたるモンゴル軍の侵入で国土は荒廃し、西夏の国力はすでに限界に達していた。

第四次遠征

西夏遠征の経験が活かされた第一次対金戦争において、モンゴル軍は金(王朝)側の失態もあり、莫大な戦果を上げた。
東方で成功を収めたチンギス=ハンは今度は西方に目を向け、ホラズム・シャー朝への遠征を計画し始めた。
チンギス=ハンは西夏に派兵の要求をしたが、クーデターを起こして即位した神宗(西夏)がこの派兵要請を拒否すると、1218年、モンゴル軍は再び西夏へ侵攻した。ホラズムへの遠征を控えたモンゴル軍は深入りしなかったものの、この遠征で西夏は国勢回復が不可能な状況に陥り、神宗は献宗(西夏)に位を譲った。

第五次遠征

1219年から1222年にわたって行われたチンギス=ハンの西征によって、モンゴル帝国は事実上ユーラシア大陸最強の国家に発展していた。
一方で西夏は、再び金(王朝)と反モンゴル同盟を結んで反モンゴルの旗幟を明らかにしていた。
モンゴル帝国は通常大規模な遠征を行う際には2年ほど情報収集を行い、計画を立てた上で遠征を行っているが、チンギス=ハンは1225年、本拠地であるモンゴル高原に西征から戻った後、1226年にすぐさま西夏遠征(第五次)に旅立った(これにはチンギス=ハン自身が自らの老いを感じ、帝国の基礎固めを急いだという説がある)。
疫病や飢饉で弱っていた西夏は、各地でたやすくモンゴル軍に打ち破られ、首都興慶は包囲された。しかしこの頃、六盤山で避暑していたチンギス=ハンは危篤に陥り、1227年8月18日に死去した。その3日後に興慶は開城し、チンギス=ハン最後の遠征である第五次西夏遠征は終了し、西夏は滅亡した。

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