安史の乱
明皇幸蜀図-台北故宮博物院蔵の青緑山水画。画題は玄宗皇帝が安禄山の乱を避けて長安から蜀へ向かう様子を表したもの。現存する作品は北宋以降の模本で、明末の擬古作とする研究者もいる。©Public Domain

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安史の乱 A.D.755〜A.D.763

安史の乱あんしのらんとは、唐(王朝)のソグド系の蕃将ばんしょうで北辺の3節度使を兼任していた寵臣安禄山が、楊貴妃一族の宰相楊国忠と対立し、楊国忠打倒を掲げて挙兵した反乱。安禄山の死後、子の安慶緒あんけいちょ、部将史思明ししめい父子によって継続されたため、安史の乱と称され、約9年におよぶ大乱となった。ウイグルの援助などにより鎮圧されたが、唐繁栄を一挙にくつがえし、唐の政治・経済・社会の各方面に重大な変化をもたらした。

安史の乱

戦争データ

年月日:755年〜763年
場所:中国北部
結果:唐王朝・ウイグル帝国連合軍の勝利、唐王朝の弱体化
交戦勢力
燕 (安禄山) 唐・ウイグル帝国連合軍
指導者
安禄山
史思明
安慶緒
高仙芝
粛宗(唐)
葉護太子(ウイグル帝国)
ブグ・カガン(牟羽可汗)
僕固懐恩
戦力
15万 不明
損害
不明 不明

東アジア世界の形成と発展

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア文化圏の形成

玄宗の政治と唐の衰退

玄宗(唐)の治世後半の天宝年間(742〜756)になると、玄宗自身も政治に飽き、気に入りの寵臣ちょうしんを重用し、愛妃楊貴妃ようきひとの愛情生活におぼれるなど、政治の乱れが目立ってきた。寵臣のひとりソグド系の部将安禄山あんろくざん(705〜757)は、たくみに玄宗(唐)の信任をえて、北辺の3節度使(范陽はんよう平盧へいろ・河東)を兼任するまでに出世した。
一方、朝廷では楊貴妃の一族の楊国忠ようこくちゅうが宰相として実権を握っており、玄宗(唐)の恩寵を安禄山と争って対立した。このため755年、安禄山は楊国忠打倒を掲げて突如挙兵し、たちまち洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝だいえんこうていと自称するにいたった。玄宗はへ落ち延びたが、途中で部下の兵士の不満をなだめるため、最愛の楊貴妃に死を命じねばならなかった。

この反乱は、安禄山の死後、子の安慶緒あんけいちょ、さらに部将史思明ししめい父子によって継続されたため、安史の乱と称され、約9年におよぶ大乱となったが、ウイグルの援助などにより、ようやく鎮圧された。しかし、安史の乱は唐(王朝)繁栄を一挙にくつがえし、唐(王朝)の政治・経済・社会の各方面に重大な変化をもたらした。

まず政治面では、安史の乱に際して、唐朝は内地にも藩鎮をくまなく設置して、各地の防衛にあたらせたが、この藩鎮が強大な地方権力に成長し、しばしば朝廷に反抗して唐朝を苦しめた。

影響
なかでも河朔三鎮かさくさんちんと呼ばれる河北の3節度使は、節度使の地位を世襲するなど、半独立の状況にあった。

中央政界では、安史の乱後に皇帝の親衛隊(神策軍しんさくぐん)を掌握した宦官が絶大な権力を持つようになり、のちには皇帝の廃立をも自由に操り、「門生天子、定策国老」とまで称されるようになった。

唐代の科挙では、合否の決定にあたる試験官は、合格した受験生から特別な礼を受けた。この言葉は天子の即位を決定(定策)する宦官を試験官に、天子を受験生(門生)に例えたものである。

また唐朝を支えるべき官僚層も、出自の違いや政策の相違によって派閥抗争をくりかえし、とくに9世紀半ばには、牛僧孺ぎゅうそうじゅ李徳裕りとくゆうを首領とする牛李の党争と呼ばれる激しい派閥抗争が展開され、政治の混乱に拍車をかけた。

次に経済・社会面では、安史の乱後、均田制・租庸調制は完全に崩壊し、780年、徳宗(唐)の宰相楊炎ようえんにより、両税法が施行された。
両税法は、土地私有を公認した画期的な税制であり、戸(家)を単位として土地(資産)の多少に応じて課税し、毎年夏・秋に徴収するもので、以後、宋をへて明の中期にいたるまで基本税制として継承された。

これは個々の丁男を単位に均等に課税する律令的な人民支配の理念が完全に変化したことを意味する。また両税の額は年々の予算に応じて決定され、銭額で表示されたが、これも貨幣経済の発展という社会情勢の変化に対応した新しい税制の原理であった。

また安史の乱のころより、塩の専売が開始され、国家の重要な財源となったが、高価な塩を買わされる民衆の困窮は増した。

隋唐の社会
官人永業田

また、土地国有を理念とする均田制のもとでは大土地所有が抑制されたが、官僚身分に対しては官人永業田かんじんえいぎょうでんと呼ばれる土地所有が公認されていた。しかし、九品中正という制度的特権を失った唐代の貴族層にとって、手段をつくして代々朝廷の官職につくことが重視され、そのため官界での活動や社交に有利な長安・洛陽への一族をあげての移住が進み、貴族層はしだいに地方における大土地所有という基盤から分離する傾向が強まっていった。この傾向は、安史の乱による地方の荒廃によっていっそう進行し、貴族層は王朝権力に密着した 官僚貴族となっていった。
一方、両税法による土地所有の公認により、地方には、貴族層にかわってあらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばしていった。こうして土地所有という基盤を失って王朝権力に寄生する存在となった貴族層は、唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていったのである。

唐代の文化
李白と杜甫

李白・杜甫はいずれも安史の乱を挟む玄宗朝の繁栄とその後の混乱期に生きた詩人である。この激動期が詩を中心とする唐代文学の絶頂期である。李白は「詩仙」と称される。酒好きで放浪をくりかえした生活そのままに、詩風も自由奔放で豪快なものが多い。一方、杜甫は、「詩聖」と称される。科挙の試験にうからず苦労しながら詩作に励んだ彼の詩風には、誠実と苦悩が滲み出ている。安史の乱により焼土と化した長安を「国敗れて山河あり」とうたった「春望しゅんぼう」は名詩として名高い。

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唐文化の波及と東アジア諸国
吐蕃

吐蕃とばん(7〜9世紀)は、チベットにおいてソンツェン・ガンポが建国した。吐蕃は国力が強大となり、しばしば中国に侵入したので、唐は皇女(文成公主ぶんせいこうしゅ)を降嫁し、その慰撫いぶにつとめた。吐蕃はインド系の仏教(密教)を受容し、チベット仏教(ラマ教)の基礎が形成され、また、インド系の文字をもとにして独自のチベット文字がつくられた。安史の乱によって唐が衰え始めると、吐蕃は勢力を拡大し、敦煌を占領し、一時長安にも侵入(763)するなど、唐を苦しめた。823年、ラサにたてられた「唐蕃会盟碑とうばんかいめいひ」は、両国の和約を記したものであるとともに、漢文・チベット文で書かれており、言語学上においても貴重なものとなっている。

内陸アジア世界の変遷

遊牧民とオアシス民の活動

内陸アジアの新動向
突厥

8世紀に入ると、突厥に服属していたトルコ系の鉄勒てつろく(チュルク)部族のひとつ、ウイグルが有力となり、744年、東突厥(第二可汗国)を滅ぼした。ウイグルは、モンゴル高原のオルド・バリクを都城として大帝国を樹立し、唐(王朝)との関係でも、安史の乱に際して唐の要請に応じて援軍を送るなど、大いに優位に立ったが、9世紀の半ばになると衰退に向かい、840年、南シベリアのトルコ系遊牧民キルギスの攻撃を受けて、帝国は崩壊した。ウイグルでは、ウイグル文字が使用され、マニ教が厚く信仰された。

貴族政治と国風文化

摂関政治

国際関係の変化

安史の乱:755〜763年、唐の武人安禄山・史思明が玄宗(唐)に対しておこした反乱。玄宗(唐)は都長安を追われ、退位を余儀なくされた。乱は結局鎮圧されたが、その後、唐の国内では武人政権が各地に割拠するようになった。

詳説日本史研究

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