大秦帝国 -QIN EMPIRE- 孟子
大秦帝国 -QIN EMPIRE- ©SPO.

大秦帝国 -QIN EMPIRE- あらすじと登場人物

ドラマ


大秦帝国 -QIN EMPIRE-
紀元前361年
中国西部の弱小国・秦の君主・嬴渠梁えいきょりょうは、隣国・との戦いで苦境に立たされ、函谷関など重要拠点を手放すことで辛くも、滅亡の危機を脱する。
疲弊し傷ついた国を建て直すべく、彼は「国家改革」を決断し、「広く奇計の士を求む」と国内外より優秀な人材の登用に動く。
一方、魏の宰相・公叔座の弟子・衛鞅(商鞅)は、師の亡き後魏を出奔し、秦へと向かう。

大秦帝国 -QIN EMPIRE-

相関図

大秦帝国 相関図
大秦帝国 相関図 ©SPO.

登場人物

首都:櫟陽れきよう咸陽かんよう

献公けんこう

献公
献公

(紀元前384年 – 紀元前362年)
秦の第25代公。(えい師隰ししつ
渠梁(孝公)、熒玉の父。穆公以来の旧法を守り、崩れ落ちた秦国を立て直そうとするが、戦場で受けた傷が元で死去。
骨肉の争いを何より危惧し、死の間際まで後継者を決められずにいた。

けん

虔

秦の第1公子。(えいけん
献公の庶子で渠梁(孝公)の異母兄。勇敢な名将。左庶長だったが、衛鞅にその職を譲った後は太子・駟の後見役になる。
しかし太子・駟が白氏一族を虐殺したため、監督不行きを理由に「鼻削ぎの刑」にされ、免職、宮廷追放となる。
公子から太子首傅に昇格。

渠梁きょりょう

渠梁
渠梁

秦の第2公子。(えい渠梁きょりょう
献公の嫡子。後の秦の第25代公・孝公こうこう
(紀元前361年 – 紀元前338年)。
秦国を強国にするため、衛鞅とともに「新法」に基づく改革を行う。聡明で、度量の広い名君。

黒伯こくはく

黒伯
黒伯

内侍長。
献公、孝公に仕える。

子岸しがん

子岸
子岸

孝公の信頼が厚い将。河西の戦い後、函谷関の県令を任される。
櫟陽県令から将軍へ降格。衛鞅の行った嬴虔の刑罰に反抗する。
咸陽の将軍から函谷関将軍へ昇格。

杜摯とし

杜摯
杜摯

中大夫。
甘龍とともに衛鞅の唱える新法に反対する。甘龍の配下的存在だが、失言や失態が多いため、甘龍からは才がないと見放されている。
中大夫から太廟令に昇格(上大夫と同等)。

公孫賈こうそんか

公孫賈
公孫賈

献公時代は記録係の長史。その後、太子の教育係になる。在任時は貴族と衛鞅の間で中立な立場を保っていたが、太子の起こした事件で処されてから不満が爆発。甘龍らとともに衛鞅を陥れた。
長史から太子右傅、爵位は上卿。

景監けいかん

景監
景監

孝公の寵臣。密使として魏国の動きを探る中、衛鞅の才能に惚れ込み、彼を孝公に推挙する。
衛鞅が登用されてからも片腕的存在として支え、旧貴族らと戦い続けた。
内史から左庶長府長史に降格。後左庶長府の領書から上大夫へ昇格。

太后

太后
太后

献公の正室。渠梁(孝公)の生母。
献公と苦労を共にし、孝公の理解者であり、秦の富国強兵のため、衛鞅の改革にも理解を示し陰ながら応援する。

甘龍かんりょう

甘龍
甘龍

献公の時代から重用される老太師(上大夫)。穆公時代からの制度を重んじるため、改革派の衛鞅と対立。
旧貴族の頂点に立ち、裏で密かに内乱を操る陰湿な輩。
上大夫から太師に昇格。

熒玉けいぎょく

熒玉
熒玉

公女。公主。献公の娘。虔と渠梁(孝公)の妹。(えい熒玉けいぎょく
景監と共に密使として魏に潜伏し、黒林へいりんとして衛鞅の動向を探る。

車英しゃえい

車英
車英

将軍。(子車英ししゃえい
秦の第9代公・穆公ぼくこうが死去した際、良臣だった子車氏の3人の息子・奄息えんそく、仲行、鍼虎かんこが殉死させられ、「詩経」・国風の秦風にある「黄鳥」の詩で謳われた。子車氏の子孫が隴西で暮らしていた。
衛尉から左庶長府衛尉に降格。後、衛鞅の下で執法都尉3千の武装兵を率いる。後、新軍大将、国尉から内史将軍へ昇格。

百里遥ひゃくりよう

百里遥
百里遥

秦の第9代公・穆公ぼくこうの宰相・百里奚ひゃくりけいの子孫。
衛鞅、申不害らとも交流がある。
秦国が強国になるために必要なことは、国内外問わずに卓越した人材を探すことだと提言する。

玄奇げんき

玄奇
玄奇

百里遥の孫娘。
墨子の最後の弟子である玄奇は力による改革に反発する。墨家の議決権を持つ。

侯嬴こうえい

侯嬴
侯嬴

秦の旅館・渭風古寓いふうこぐう執事。
魏の白氏のもとで商売を学び、秦で宿屋を営む。求賢令で魏からやってきた衛鞅を弟のように受け入れる。
貧しくとも誇り高い秦人を気に入っている。

王軾おうしょく

王軾
王軾

衛鞅と同時期に求賢令を見て士官してきた書生。咸陽県令を任され、衛鞅とともに改革に力を尽くした。咸陽県令から内史郡守へ昇格。
しかし孝公の死後、職務放棄を起こしてしまう。私情により衛鞅によって軽刑で済まされるが、これがかえって衛鞅の首を絞める原因になった。

太子・

駟

秦の第25代公・孝公(渠梁きょりょう)の嫡子。後の秦の初代王・恵文王(秦)
少年時代に法を犯したため追放されるが、その後20年近くを経て、改心したことを認められ太子に復帰。衛鞅には禍根があったようだが、公私を混同することを避け、衛鞅の教えを守り君主として秦を更に強国にしていく決意をする。

国都:安邑あんゆう、大梁
紀元前453年に韓、趙と共に晋から独立(三晋)

恵王けいおう

恵王
恵王

(紀元前369年 – 紀元前319年)
魏の第3代君主・初代王。(おう

公叔座こうしゅくざ

公叔座
公叔座

公族。恵王時代の宰相さいしょう
臨終の間際に自分の客の公孫鞅を推挙し、採り入れない場合は、他国に公孫鞅がつけば脅威となるため殺害を遺言したが、恵王はこれを聴かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。

衛鞅えいおう商鞅しょうおう

衛鞅
法家。法治を口説く「法治派」。
衛鞅

魏国の宰相・公叔座に仕える(中庶子:小役人)が、恵王に用いられず魏国を去る。後、秦国の孝公に見出される稀代の策士。
秦では客人待遇の大臣として客卿。後左庶長へ昇進。
「新法」を用いて法治国家の基礎を作り上げ、秦を一大強国にした功労者。だがその反面 旧貴族らの恨みを買い、孝公の死後、彼らにより酷刑に処された。

ごう

卭

公子。
恵王の異母弟?
密使の景監から貢がれる。
公叔座亡きあと丞相の座を狙い、支持を得るべく龐涓を訪ね、諸国制覇への協力を条件に手を結ぶ。

龐涓ほうけん

龐涓
龐涓

魏の将軍。
秦の滅亡を願い、帰属化を望む公叔座こうしゅくざと対立する。
紀元前341年、魏と斉が激突した戦馬陵の戦いで孫臏そんぴんの計略に敗れる。

白雪はくせつ

白雪
白雪

酒場「洞香春」の店主。
大商人で丞相じょうしょうだった白圭の娘。
白圭から財産と広い人脈、志を引き継いだ。財産と才知を国のために使おうと、好意で衛鞅を応援し、夢を託そうとする。

首都:臨淄
紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉を滅ぼしてからを田斉でんせいという。戦国時代中期には、湣王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、戦国七雄の一つにも数えられた。

威王(斉)いおう

威王
威王

(紀元前356年 – 紀元前320年)
田斉の第4代君主・初代王。
稷下の学者村を作り、多額の資金を支給して学問・思想の研究・著述にあたらせ、積極的な人材登用を行った。

孫臏そんぴん

孫ピン
孫ピン

兵家(孫子の子孫とされる)。威王(斉)の兵法の師。斉の軍師。
桂陵の戦い、馬陵の戦いを勝利に導く。

国府:陽、新鄭

昭侯しょうこう

昭侯
昭侯

韓の第17代君主。 (釐侯きこう
申不害を宰相に任用して韓の全盛期を築き上げた。

思想家

慎到しんとう

慎到
慎到

法家の名士。王の権勢を口説く「勢治派」。法家にも道家にも属する思想家。稷下の学士の一人。
酒場「洞香春」で衛鞅(商鞅)と出会い、斉国の稷下学問所で再会する。

申不害しん ふがい

申不害
申不害

法家の書生。臣下の統制を口説く「術治派」。
酒場「洞香春」で衛鞅(商鞅)と出会い、斉国の稷下学問所で再会する。
韓の君主・昭侯に仕えて宰相となり、最弱国の富国強兵に導く改革を推し進める。

孟子もうし

孟子
孟子

斉国の稷下学問所の討論会で衛鞅(商鞅)と出会う。

戦国時代地図

戦国時代七雄
戦国時代七雄

禽滑釐きんかつり

禽滑釐
禽滑釐

墨家2代目鉅子。

紀元前315年頃の中国

紀元前315年頃戦国時代地図
紀元前315年頃戦国時代地図 ©世界の歴史まっぷ

大秦帝国主要都市地図

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あらすじ

第1話

戦国時代の中国大陸には「戦国七雄」と呼ばれる国々があった。斉・楚・燕・趙・魏・韓・秦である。中原より遥か西部に位置し、七雄ながらも弱小国扱いされ、会盟にも呼ばれなかった秦国は、隣国・魏からの侵略に常に脅かされていた。紀元前362年、秦国の24代君主・献公は歩兵および騎兵20数万を率いて、河西の要地・少梁を攻撃。一方、魏国は宰相・公叔座を総師とし、重装備兵20数万を配して秦国を迎撃した。この戦いで、献公の次男・渠梁=後の孝公が公叔座を捕らえるが、献公もまた毒矢を受けて重傷を追ってしまう。

紀元前362年、河西(少梁しょうりょう)の戦い。

第2話

河西地方・少梁の戦にて、毒矢を受けて重傷を負った秦国君主・献公は、次男・渠梁=後の孝公に指揮の符を授け、秦軍は少梁での戦いから撤退した。死を目の前にした献公は、国家改革のために2人の息子どちらが後継者に相応しいか、老太師・甘龍に意見を求める。長男・嬴虔は勇猛果敢で寛容にして徳が深く、軍内や宮廷内でも人望を集めている。嬴虔が即位すれば、民を団結させ失った土地を奪還できる。一方、渠梁は知謀に長けて政の才もあるが、性格的に多少気弱な面があると甘龍は述べた。そして、献公は2人の息子を別々に公室に呼び寄せる。

紀元前362年秋、秦軍少梁から撤退。

第3話

秦国君主・献公は、魏国の公叔座を捕らえた次男・渠梁の能力を買い、後継者に任命した。そして、長男・嬴虔には重臣として渠梁を支えるよう誓いを立てさせる。献公は渠梁に「報復を焦ってはならぬ」「臣下には誠意を忘れず、内政を安定させよ」「兄弟で心を一つにし、憎み合わぬこと」この3つのことを守るよう伝え、息を引き取った。紀元前362年冬、国の存亡が危ぶまれている時期に、渠梁は第25代君主・孝公に即位する。一方、魏国では献公の死と渠梁の即位を聞いた第3代君主・恵王と重臣らが秦国を滅ぼすべく策を打ち出していた。

紀元前362年冬、献公崩御。渠梁が疲弊しきった秦国の第25代君主に即位する。

第4話

君主となった渠梁=孝公は、重臣らに、魏軍との戦に備えつつも侵略を断念させる策を打ち出すと伝える。食料も武器用の鉄も兵力も土地も少ない、貧しく弱い今の秦国では勝てないと考えたからであった。一方、公叔座の食客で弟子の衛鞅=後の商鞅は独断で秦国を訪ねた。衛鞅は魏軍の総司令官・龐涓と公叔座の意見の違い、公叔座の救出、秦国の救済策を渠梁に訴える。嬴虔と妹・熒玉が反対する中、孝公は秦を守るため公叔座を解放する決意をする。

第5話

公叔座の弟子・衛鞅が兄・嬴虔と語る様子を見た君主・渠梁は、衛鞅が提示した休戦の盟約に同意した。条件は、公叔座と衛鞅を魏国に帰す代わりに、函谷関など重要拠点を魏国に譲渡することである。盟約通り、魏国に帰った公叔座と衛鞅だが、魏軍の総司令官・龐涓は秦国の滅亡が天下統一である主張。これに対し、秦国を討滅しないことが覇権を握る道につながると考える公叔座は「派兵をやめて、領土の割譲を認める」「領土を完全に収めた後、機を見て策を講じる」この二段階の策を提示した。

函谷関
函谷関

函谷関:孝公が東方からの侵入を防ぐため、王都・櫟陽やくよう、(後の咸陽・長安郊外)の東、渭河と合流する黄河の最後の大屈曲、潼関から下流約70キロメートルの地点、南北から山脈が迫る峡谷の地(現在の三門峡・霊宝市函谷関鎮)に作られた。3層の楼閣2棟があった。

第6話

魏国君主・恵王は六国で秦国を分割すべく、総司令官・龐涓を全権特使に任命した。紀元前361年、魏国。龐涓を中心に、秦国を分割する策を進めるため、六か国同盟が開かれる。六か国同盟締結の知らせを聞いた、秦国君主・孝公は衛鞅の動向を見定めるべく、景監と熒玉を魏国に潜入するよう命じる。

紀元前361年,

第7話

魏国への潜入を命じられた熒玉は男装をして、「黒林」と名を変える。魏国の国都・安邑では、第三代君主・恵王が有数の商人を集め、「王の軍令に従うこと」「派遣した密偵を受け入れること」「定期的な情報の報告」この三つを条件に秦国で商売を始めると発表。全ては秦国を自滅させるためであった。一方、公叔座は見舞いに訪れた恵王に、後継者として衛鞅を推薦するが、身分の低さから興味を持たなかった。「魏国の将来のために、衛鞅を他国に出してはならない」と進言し、公叔座は息を引き取った。

第8話

秦国君主・孝公は燕・趙の密使が隴西の八大部族の一つ・西豲に入ったと噂を聞く。隴西の事情に詳しい嬴虔は、西豲の族長は王を自称し、燕と趙と交流があるため、部族の中で最も危険だと伝える。孝公は魏国の策略だと察知し、将軍・車英を西豲平定の全軍大将に命じた。そして、車英は魏国の密使と扮し、西豲の族長を訪ねる。一方、魏国では景監と熒玉が薛の商人と名乗り、公子卭に取り入る。

西豲せいかん:隴西の部族
隴西ろうせい匈奴きようどていきように対する戦略要地で,秦代に郡が置かれた。甘粛省の蘭州の南東の県。

第9話

秦国は燕と趙と手を組んだ隴西の部族・西豲を打ち破る。かろうじて勝利した秦国だが、3万人以上の死者を出した。一方、秦国に負けた魏国では、恵王と龐涓が意見の違いにより対立。燕と趙に続き、斉と楚も六ヵ国連合から脱退する。四ヵ国の脱退や龐涓の指揮権返上から、景監は無能の公子卭に魏国の丞相につける手を貸すと手紙を送る。後日、衛鞅に近づくため、景監と熒玉は酒場「洞香春」を訪れ、景監と衛鞅は囲碁対決をする。

第10話

龐涓は公叔座が後継者として推薦した衛鞅を調べさせる。また、景監と熒玉も酒場「洞香春」に通い、衛鞅の動向を探った。そこで、法家の名士・慎到や申不害と酒を交わす衛鞅を目撃する。一方、丞相の座を狙う公子卭は、支持を得るべく龐涓を訪ね、諸国制覇への協力を条件に手を結んだ。だが、衛鞅の本心が見えてきた頃、龐涓は自ら衛鞅を訪ねる。

第11話

公叔座の死後、衛鞅は囚われの身同然であった。ある日、衛鞅が公叔府に戻ると酒場「洞香春」にいた不思議な絵師の少年(=魏の実力者の娘・白雪)が現れる。少年は衛鞅が秦国から監視されていると忠告。後に衛鞅の家を訪ねた少年は、魏の実力者である白圭の娘・白雪だと身分を明かす。そして、「韓国が改革の準備に人材を募り始めたこと」「斉国も改革準備に官紀を粛正したこと」との情報を話す。この2つの動きを聞いた衛鞅は、魏国から脱出することを決意。白雪は自らの夢を衛鞅に託し、魏国脱出の手助けをする。

孫臏そんぴん:斉の軍人・思想家。兵家の代表的人物の一人。龐涓に才知を妬まれ、脚を切断する刑と額に罪人の印である黥を入れる刑に処された人物。

第12話

魏国を脱出し、白雪と別れた衛鞅は学問の盛んな斉国へ向かった。斉国の稷下学問所にて、衛鞅は斉王の御前で行われる孟子を招いた討論会に出席。そこで、自らの法治を元に性悪説について語り、孟子を論破し注目を浴びる。衛鞅は学問所への入門を勧められるが、自らの思想が斉王の統治と合わないと考え、これを拒否。また、衛鞅の動向を探る黒林(熒玉)も密かに討論会に参加していた。その夜、黒林は衛鞅の元を訪ね、魏・斉・楚・秦で商売をしていると偽る。しかし、衛鞅は黒林を秦国の密使であると見抜く。

稷下の学士しょくかのがくし:中国の戦国時代、斉の国都である臨淄(りんし)に集まった学者たち。臨淄の城門のひとつである「稷門」の近くに住んだことから、この名がある。
法家三派
慎到:王の権勢を口説く「勢治派」
申不害:臣下の統制を口説く「術治派」
衛鞅:法治を口説く「法治派」

第13話

渠梁と景監は五玄庄主人・五玄公の元を訪ねた。そこで、五玄公が秦国宰相・百里奚の子孫である百里遥だと告白。百里遥は秦国が強国になるために必要なことは、国内外問わずに卓越した人材を探すことだと提言する。秦国・朝堂に戻った渠梁は自ら求賢令を作成。一方、韓国の甲不害の元を訪れた衛鞅は百里遥と玄奇と会う。その食事中、衛鞅は偶然にも白雪を目撃する。白雪から渠梁が公布した求賢令を渡された衛鞅は、秦国へと旅立つ。別れのとき、衛鞅は白雪への愛を初めて語る。

秦の第9代公・穆公:春秋五覇の一人に数えられる。百里奚や由余、蹇叔、丕豹、公孫支等の異邦の異才を登用して国力を増強させた。

第14話

衰退の一途をたどる国家を改革すべく渠梁が公布した求賢令に応じ、衛鞅のほか多くの人材が秦に集まった。秦国は諸国から集まった賢人のために招賢館を建設する。渠梁が時間をかけて人材を選ぶことを伝えると、複数の賢人らがすぐに職位を与えてほしいとこれに反対。しかし、渠梁は3か月分の路銀を渡す代わりに秦国内を巡り政策を報告する任命を与える。その内容を見てから、ふさわしい職位を割り当てるというものだった。その後、衛鞅は景監の館を訪問。景監は渠梁に会わせると提案するが、衛鞅はこれを辞退し、秦国内を巡る旅に出る。

第15話

秦国を巡る衛鞅は戦争で体の一部を失った村人らを目にし、身分が低いものが戦で功を立てても、帰郷後の生活はより貧しくなるだけであるという現状に胸を痛めた。ある夜、宿泊先で父親から売春相手として差し出された13歳の娘を不憫に思った衛鞅は、彼女を養妹として一緒に連れて行くことに。そして3か月が経過した。秦国内を巡った書生らが次々と招賢館に戻る中、衛鞅だけが戻らず、魏に逃げ帰ったという噂も立った。しかし、景監の館にぼろぼろの服をまとった衛鞅が養妹と共に帰って来る。

第16話

景監から衛鞅が多くの貧しい地域を巡察し戻って来たと聞いた渠梁は、早速面会の場を設けた。しかし、期待に反して、一度目は為政者であれば誰もが知る政道、二度目は王道について語り、衛鞅の話は途中で打ち切られる。失望を隠せない景監だったが、全ては衛鞅の作戦であった。そして、船上で行われた三度目の面会時、衛鞅は覇者の道について説く。衛鞅は改革のための九項目を提案する。「強秦九論」に心を打たれた渠梁は船を引き返し、宮中にて二人は三日三晩語り合った。そして、貴族たちの反発を退け、渠梁は衛鞅に国家改革の重責を託す。

斉の稷下の学士・田常でんじょうは秦を批判し書生が秦から去るよう扇動したが、孝公の批判を真摯に受け止め、手厚く扱う姿勢に心打たれ自らを詫て自決する。
衛鞅の悪い噂の出処は、ビ県の老太師・甘龍の弟子趙亢ちょうこうで、中大夫・杜摯も絡んでいた。

第17話

渠梁は兄・嬴虔の同意も得て、国家改革の実行を決意。渠梁は求賢令により、諸国から集まった賢人たちにそれぞれ職位を与える。しかし、衛鞅は客人待遇の大臣として客卿に留めた。一冬の間、衛鞅は与えられた屋敷にこもり、国家改革案を練り上げる。一方、渠梁は旧臣を昇進または降格させ、人事を一新。そして、初春の朝議が開かれ、客卿に過ぎない衛鞅が富国強兵のための改革を発表した。甘龍ら復古派の多くが衛鞅の提案に対し反発。改革への結論が出ない中、渠梁はある石碑を見せる。

第18話

渠梁は自らの血を流した「国恥」と書かれた石碑を見せ、国家改革への決意を表明した。渠梁の気概を目の当たりし、反発していた甘龍ら復古派も賛同。一同は石碑の前で改革と雪辱を果たすことを誓い、渠梁は衛鞅を客卿から国政の改革を司る左庶長に任命した。開府の第一として、衛鞅は農耕奨励、軍功叙爵、什伍の連座、旅客検問、そして私闘禁止の5項目を発令。そして、政府の改革を示すため、衛鞅はまず庶民の前で「柱を運んだ者に賞金を与える」と宣言。一人の青年が運び終え、賞金を受け取ると、人々は政府への信頼を深めた。しかし、そんな矢先、民衆の水争いが起こる。

紀元前356年、第一次変法

第19話

夏の田植え時期が訪れると、政府より各氏族が川で水を汲むことが出来る日程が発表された。しかし、今まで優先的に水源を独占していた孟・西・白の三族は下流に水を流さず、下流の移民との間に大規模な争いを引き起こす。その結果、堰の縄が切れ、大洪水が発生、多数の死者が出る大惨事となった。現地を訪れた衛鞅の元に孟・西・白の三氏が抗議にやって来るが、衛鞅は三人を公務の妨害として3日の労役刑に処した。そして、衛鞅は首謀者、殺人など、700人もの重罪人に死刑を求刑。その中には「国恥」の石碑を彫った白駝も含まれていた……。

郿県ビけん もう西乞せいきつはく(改革反対派)と戎狄じゅうてきが私闘、百里渠ひゃくりきょが決壊。
孝公はいきなり700名以上の処刑に反対する。

第20話

渠梁は「国恥」の石碑を彫った白駝を含む合計712名の処刑について衛鞅に反論。「秦の改革のため」と渠梁を説得するが、囚われた者たちを釈放するように大勢の民が衛鞅の元に押しかける。衛鞅は「1人でも不公平な処罰が実行された場合は、自分が処罰を受ける」と宣言し、死刑を実行。その後、第二の新法として「新田法」「新国人法」「新領土法」の3つを布告。井田制を廃止し土地所有を認めること、奴隷制を廃止すること、官奴婢・私奴婢・貧農などは自由民となり土地を分配されるという。それは貴族たちにとって損害となる法であった。

法が裁くのは心ではなく行為なのです。善人だろうと人を殺せば罪人です。

第21話

第二の新法が貴族たちに不利益となる法であったため、郿県では白龍(白氏の族長)が解放奴隷への耕地分与を拒否。一方、解放奴隷は貴族が土地を分けようとしないと不満を募らせ、衝突が起きる。衛鞅は新法に逆らった白龍を逮捕。そして、新法の役割を語るも、断固として白龍は納得しない。国家に忠実な秦人が、法に逆らうはずはないと妙に思った衛鞅は、要因は宮廷と官吏にあると警戒する。背後に居るのは誰か。

郿県県令趙亢ちょうこうと孟氏と西乞氏と白一族を扇動した白龍は処刑。

第22話

衛鞅が白雪と再会した中、護衛の荊南が行方不明になり、何者かが衛鞅に刃を向けている謎の絵が落ちていた。その夜、黒い服をまとった集団が衛鞅を襲撃。衛鞅が話し合いを求めると、彼らは暗闇に消えていった。一方、視察のため地方へ出掛けた渠梁と黒伯もまた、騎馬集団に襲われるが、衛鞅の命令で駆けつけた車英に救われる。車英により墨家剣士の仕業であることが判明。改革への誤解を解く必要があると考えた渠梁は、墨家へ向かう。

陳倉関ちんそうかん

第23話

地方視察を続ける渠梁は、百里遥の孫娘・玄奇と再会する。墨子の弟子である玄奇は力による改革に反発。正義を行うことを目的とした墨家に正当な改革を理解させるため、渠梁は玄奇に墨家の本営である神農山への案内を頼む。渠梁が神農山へ向かったと聞いた衛鞅は、すぐさま白雪の元に駆けつけるが、既に南山へ出発した後だった。そして、春小麦の収穫時期が訪れ、太子・駟が、後に農民の反乱となる事件を引き起こす。そんな中、渠梁は玄奇に導かれ、神農山に近づきつつあった。

鉅子きょし:墨家の長の尊称。 禽滑釐きんかつりは2代目鉅子。

第24話

玄奇に導かれた渠梁は、墨家の本営である神農山に入った。一方、隴西へ向かっていた嬴虔と熒玉は途中、秦から出て行こうとする多数の農民を目撃。解放奴隷の村から眉県の太子府庫へ貢納された小麦に、大量の砂が混入していたことに激怒した太子・駟が、農民らを虐殺し、反乱が起こっていることを知る。嬴虔と熒玉は急いで朝廷へと引き返す。全てを知った衛鞅は、太子らを監視下に置く。そんな中、太子の暴行に怒った多数の農民らが朝廷に押し掛けてくる。

第25話

太子・駟の暴行に激怒し朝廷に押し掛けた農民らに、衛鞅は新法に従うことを発表する。太子は成人前だったため、新法の規定に従い体刑は免除されるが処分すること、勤勉な農民への恩賞、そして後見役・嬴虔を鼻そぎの刑に処するなど、騒ぎに関わった者全てを公平に処罰することが伝えられる。衛鞅への信頼が強くなった農民らは村へと戻っていった。一方、神農山を訪れた渠梁は、墨家の第二代総師・禽滑厘と対面し、改革への和解が成立した。

第26話

太子・駟と農民の事件について、景監は意図的に小麦に砂を混入した者がいるはずだと追求しようとする。それに対し、衛鞅は捜査を進めても成果は上がらないと意見。一方、嬴虔が鼻そぎの刑に処されたことを知った渠梁は屋敷を訪ねる。渠梁は、「改革を止め、衛鞅を処刑し、一族で秦の再興を」とまで言うが、改革のためには兄上が必要だとも訴える。しかし、嬴虔は「お前の兄はもう死んだのだ」と言い残して、その場を立ち去る。渠梁は、太子・駟の宮廷追放を決定する。

第27話

更なる改革は「人口増加のための移民奨励」「県制の実施」「父子兄弟が一つの家屋に暮らすことの禁止」「度量衡の統一」「新たな軍制による軍の国府直属化」が定められた。ある時、太后から衛鞅と熒玉の婚姻を望んでいると聞いた渠梁は、白家の秦国店舗支配人・侯嬴に仲立ちを依頼する。白雪の存在を知っている侯嬴は複雑な思いであったが、その話を伝えると、衛鞅は激しく動揺。悩みながらも、巡察のために衛鞅は商於へと向かう。

第二次変法

第28話

白雪との婚姻を望む衛鞅は、二人で秦を去ることを決意。だが白雪は衛鞅に「天性の才能と魂を備えている。まさに政治家になるために生まれてきた人」と話し、更に「侯嬴を通じて婚姻承諾の返事をした」と別れを告げる。白雪が秦を去った後、衛鞅は大良造および上将軍に昇格し、軍事と政治を統括する命が下される。その一方、衛鞅を敵と恨む嬴虔が熒玉との結婚を許してはいないことに太后と渠梁は胸を痛めていた。

第29話

衛鞅は、密偵から魏軍が集結したとの情報を入手。秦は兵力の低下で、まだ大きな戦には耐えることが出来ない。新たな軍を作ることが唯一の策だと語る車英に、衛鞅は国尉と新軍の指揮を命じた。一方、衛鞅と渠梁は北阪の盆地へと向かう。衛鞅はこの地をカンが明るい地から「咸陽」と名付け、新しい都と決めた。咸陽を後に、衛鞅と熒玉は隴西へ向かう。そこで、熒玉は、何年も消息が途絶えている駟(太子)の行方を捜索したいと衛鞅に相談する。そして熒玉は一人旅立つ。

咸陽かんよう:現在の陝西省咸陽市。風水においては山・丘・阜などの南側、河・江・川・湖などの水辺の北側を陽と言う。この都市は九嵕山きゅうそうざんの南、渭水の北に当たり「咸(みな)陽」なためにこの名前がついた。

第30話

熒玉は甥である駟の行方を探り当てる。山で遭難した駟は、斉出身の書生だと身分を隠し、商於県の黒林村へ辿り着いていた。そこで、改革で村の生活が向上していること、兵士として国に貢献したい村人が大勢いることを知る。数年後、駟は世話になった夫妻や村人に見送られ、黒林村を出発。その途中、相思相愛であった娘が駟を追いかけて来た。だが、別れを告げられた娘は谷に身を投げてしまう。一方、衛鞅と渠梁の元に魏国が動き出したとの情報がもたらされる。

第31話

魏国では中原の覇者として復活すべく、兵を起こそうとしていた。将軍・龐涓は先に秦を滅ぼすべきだと主張。秦が成長すれば天下を揺るがす国になる。成長途中で軍隊も弱い今をおいて、秦を滅ぼす時期は無いとした。だが、秦を小国だと軽視する公子卭や太子は先に趙・韓を攻めるべきだと反発。魏国王もこれに賛成した。やがて、魏軍が趙に向かったと知らせが秦国に届く。衛鞅と渠梁は秦国にとって最大の好機だと改革を進める。

桂陵の戦い

第32話

秦国改革を開始してから十数年後の紀元前342年、無敵の精鋭部隊が秦に誕生。故郷と国を守り河西の地を取り戻すべく軍容を整え、来るべき戦いに備えていた。その頃、魏では韓との決戦に将軍・龐涓が反対。韓の狙いは、陳と宋を併呑し斉と楚の勢力を切り崩すことであり、魏の覇業を助けるだろうと主張した。だが、決戦は決定され、総師は龐涓が務めることになる。一方、韓では申不害が斉、楚、趙と同盟し、魏の来襲に備えていた。

第33話

魏軍との決戦により、韓人の血で染まった新鄭を見た韓公は憤死し、申不害も自害。その後、国力をほぼ使い果たした韓は衰退の一途を辿る。その頃、龐涓は韓攻めを中止し、軍を撤退していた。だが、馬陵の道にて、韓から援軍の要請を受けた斉の攻撃により、龐涓は戦死。わずかの兵が残るも覇権を失った魏軍は大敗した。一方、魏の大敗を知った秦では、衛鞅が咸陽への遷都、今こそ魏に奪われた河西を取り戻す時だと渠梁に進言する。

申不害の改革派無残に失敗。当時行われた改革の中で最大の悲劇であり、「臣下の統制」による改革のもろさと、戦時法治体制の難しさと危険性を実証してしまった。
紀元前350年、涇陽けいよう(陝西省の咸陽市の管轄下にある県)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名前を咸陽と改める。
紀元前341年、馬陵の戦いー魏と斉が激突した戦い。孫臏の計略により斉の圧勝に終わる。

第34話

秦の新都は咸陽へと移され、失地回復へ向けて着実な歩みを進めていた。秦は勝てると一気に魏を攻める考えの車英に対し、渠梁は油断してはならぬと慎重であった。渠梁は、まず住民の調査をし、一か月以内に咸陽の守りを固めておくよう命じた。一方、魏では秦軍が河西に入ったと情報が入る。河西の戦略について議論するも、公子卭や太子と将軍・龍賈の意見は反発するばかりであった。そんな折、河西返還を求め衛鞅から挑戦状が届く。

第35話

秦の本営では、魏の公子卭が出陣したとの知らせが届く。先に進軍していた龍賈軍を全滅させれば、魏軍は恐れおののく可能性がある。そして、過去の例から公子卭は退却するに違いない。だが、魏軍の主力となる鉄騎部隊を逃せば、河西を奪回しても東部と函谷関は取り戻せないだろう。そのために、今回の戦で魏の主力部隊を倒し、一度で決着すると衛鞅は命令する。秦の領土から魏軍を撤退させるべく、衛鞅率いる新秦軍は動き出した。

第36話

衛鞅は公子卭に和議を求めるが、公子卭はこれを受け入れなかった。そこで、衛鞅は公平に戦で決めることを提案。ついに衛鞅率いる新秦軍と公子卭率いる魏軍が決戦の時を迎えた。山の上から両軍を観戦する衛鞅と公子卭。結果、圧倒的な強さで新秦軍が勝利した。そこで、衛鞅は人質とした公子卭に魏王へ手紙を書かせ、秦の旧領地の返還を求めることに。一方、この事態を知った龍賈は新秦軍との戦を決断し、河西へと向かう。

紀元前340年、秦に大敗した魏は黄河以西を失ったため、秦の圧力を恐れて安邑から東方の大梁(現在の開封)へ遷都した。
戦国初期には最大の強国であったが、これを機に覇者の座から滑り落ちた。

第37話

紀元前340年、対魏軍との戦に勝利した秦は河西の地を取り戻し、黄河の天然要塞を手中に収めた。秦は改革大成と戦勝に喜び、戦に参戦した全将兵は昇格。衛鞅には商君の称号が授けられる。喜びに溢れる秦国内では、各地で祝いの宴が行われ、咸陽には次々と祝いの品が届く。だが、衛鞅改め商鞅は新法に基づき、昇進に対して私的な贈与を行ってはならぬと法に禁じられた贈り物は返還すると宣言。そんな矢先、渠梁が病で倒れる。

大良造・衛鞅は商など15県を領地として賜り、商君の称号を授かる。(商鞅しょうおう
景監は上大夫、車英は内史将軍、子岸は函谷関将軍へ昇格。
周の顕王けんおうより、魏を討ち、改革を断行し、国を豊かにし、新都を築いた大きい功績により、渠梁は「西方諸国の盟主」とし天子の代理としての権限を賜る。

第38話

今後の秦が進むべき道について、渠梁は強国を作り、天下統一をすることだと考えていた。渠梁の考えに対し、商鞅は「法治は名君を生み、暗君を退ける」と説く。渠梁は更なる20年後を共に歩もうと乾杯を求めるが、商鞅は新法の礎が根付いた今が去り時だと辞職を願い出た。商鞅の辞職に悩む渠梁は、景監に商鞅が何かやり残したことがないかと尋ねる。すると、景監は10年余前に商鞅と結婚を約束した娘・白雪の存在を明かす。

第39話

商鞅は白雪、初めて会う息子と対面。別れから13年もの歳月が流れていた。商鞅は渠梁から辞職の許しを得たことを打ち明け、そして白雪と永遠の愛を誓う。だが突然、顔を隠し、加勢を連れた男が商鞅を襲撃。白雪と荊南の活躍により難を逃れるが、声に聞き覚えがあった商鞅は、正体が秦の元太子右傳・公孫賈だとにらんだ。そんな折、商鞅に渠梁が重病だと知らせが届く。「秦のために」と言う白雪の後押しもあり、商鞅は秦へと向かう

第40話

白雪と再会した商鞅だったが、渠梁が重病であると知り、急いで秦へと引き返した。商鞅は渠梁に、太子・贏駟を探し、世継ぎを決めるべきだと話す。商鞅は景監や車英らに、贏駟を尋ねること、新法で裁かれた罪人の現況を調べること、そして新法で降格となった官吏の現況を調べ上げて動向を把握することを命じた。全ては有事に備え、国の安定を図り秩序を守るためである。一方、各地を巡る贏駟は白山という青年と会い、ある真実を知る。

第41話

景監と商鞅の調べにより、贏駟の居場所を知った渠梁は自ら迎えに行き、両者は対面。そして、渠梁は贏駟を連れて咸陽へと戻る。一方、商鞅は新法で裁かれた罪人の元太子右傳・公孫賈の行方を追っていた。贏駟は隴西の北地を巡った後、関中へと戻り、眉県白村に滞在していたことが判明。その際、旅の書生らと論文を記し、竹簡を県府へと送っていた。渠梁は自分が犯した罪を反省し、別人となった駟を認め、正式に太子として任命する。

第42話

名医・扁鵲により、渠梁は「活力の病」と診断される。異常はないが全ての臓器が衰弱してしまうという。扁鵲はその原因が精魂を傾けすぎたこと、切迫した全てのことを一気に解決しようとする重圧、恋患いをしていると告げた。そして、渠梁の余命が半年だと知った商鞅は熒玉に何か心残りがないか尋ねる。すると、渠梁の思い人で百里老孫娘・玄奇の存在を明かした。兄を思い、身重の熒玉は玄奇を探す旅に出るが……。

扁鵲へんじゃく:その行動、人格、診察、治療のありさまは『韓非子』や『史記』その他にさまざまな逸話を残し、「漢方医で脈診を論ずる者はすべて扁鵲の流れを汲む」とも言われ、また彼の言動業績から「六不治ろくふち」など多くの漢方医学の用語や概念がうまれた。 転じて、今では「扁鵲」もしくは「耆婆扁鵲ぎばへんじゃく」というと、それだけで名医の代名詞として用いられることも多い。

第43話

商鞅は太子・駟のもとを訪ねた。改正を加えれば新法は更に完璧になると意見する駟に、商鞅は秦が統一を果たし太平の世となった時に初めて法を変えられると述べる。そんな折、六国の特使が秦に来訪。彼らの目的は太子が新法を貫くか探ることだと商鞅は推測した。一方、渠梁は熒玉から太后が遺言を残していたことを知る。「贏虔は国の大きな災いとなる。密かに殺せ」と書かれていた。その遺言を実行すべく、渠梁は内密に兵を動かす。

献公の時代、周の太史・老子が秦にやって来て、五千語に及ぶ文章を秦に残し、「秦と周は合いて別れる運命にある。秦は周を救いて国を形成するに至る。その後500年分かれた後、秦と周は再び合う。その17年後に羅王が現れる」と予言した。

第44話

自分が殺されることを察知した贏虔は、胡人の名医から人を死んだように見せることが出来る薬を入手する。最長で十か月。確実に生き返る保障はなく、失敗した場合人体はただの血と化すという。そして、渠梁は贏虔が「死んだ」と知らせを受ける。一方、太后の遺言を守り贏虔暗殺の意図があったことを知った商鞅は、法治を裏切ることが国を滅ぼすことに繋がると非難した。その頃、太子・駟の元に鉄仮面を被った楚の商人が訪ねて来る。

第45話

視察のため函谷関を訪ねた渠梁が倒れる。「わが秦は必ず法治を貫け。人治はならぬ」と遺言を残し、志半ばにして渠梁は永眠。紀元前338年、享年46歳であった。これにより、太子・駟が新公に即位。だが、渠梁の死により、二代にわたり秦公に仕えた黒伯は墓全の前で殉死、王軾は剣を振り回し取り押さえられ、景監はショックのあまり寝込む。一方、渠梁の死を知った魏国では、河西奪回に向けて再び動き出そうとしていた。

紀元前338年、秦の第25代公・孝公(渠梁)崩御。
紀元前338年、渠梁の嫡子である太子・嬴駟が即位。(のちの恵文王(秦))

第46話

渠梁の死を機に、甘龍は新法により没落した貴族たちを集め、失われた勢力を取り戻そうと密かに動き始める。甘龍からの要求は一つ。国政において復古主義者の権力を復活させるため、法の遵守を大義とし、横暴な官吏を消し去ることであった。そして、甘龍は新公に異議申し立てのため参内。商鞅が法に背いて独断で王軾の罪を軽減したこと、改革により商鞅が公正を欠き多くの冤罪者を出していると訴える。戸惑う新公は贏虔を訪ねる。

第47話

旧貴族の動きを知るも、商鞅は彼らの名誉回復に反対。景監は新公に商鞅の考えを伝えるが、秦の根幹を成すため恨みを買ってはいけないと異論。段階的な名誉回復を実行が可能であれば、法の範疇で旧貴族を納得させた上に国の安定を図ることも出来ると意見する。同時に、商鞅が退官を考えているため、秦の法と安泰が侵されぬ限りは国政に関与しないと告げた。一方、甘龍のもとに秦の元太子右傳・公孫賈が現れる。

第48話

商鞅は熒玉とともに商南へ向かう。そして、渠梁が商鞅護衛のために残した軍を解散し、秦軍へ戻るように命じた。秘密裏に大軍を持てば国中が疑念を抱き、内紛も起きかねない。新法が秦に根付いた今、国民からの信頼を裏切ることは出来ないと説く。一方、甘龍は商鞅が私軍を動かしたと考え、新公に法に背く行動だと訴えていた。新公は商鞅を咸陽へ連れ戻すため軍を派遣。この動きを知った熒玉は新公が商鞅を疑ったと激しく非難する。

第49話

咸陽へと向かう商鞅は途中、魏にいる白雪に会いに行こうとする。だが、魏との国境付近にて公子卭が現れ、影の参謀となり一生仕えれば、白雪との暮らしを約束すると提案。だが、商鞅は逆に自分に仕えた方が楽に暮らせると嘲笑い、その場から去った。その頃、荊南から商鞅の状況を聞いた白雪は、息子・子嶺と梅姑を墨家へ連れて行くよう託し、単身で咸陽へと向かう。一方、商鞅は囚われるのを覚悟で、自ら延尉府に赴いた。

商鞅の有名な逸話 「法を為すの弊、一にここに至るか」

第50話

商鞅を思うがあまり、病に倒れたケイ玉を景監と車英は牢にいる衛鞅のもとに連れて行く。商鞅はケイ玉を救えるのは玄奇しかいないと景監と車英に頼み、秦のため3年は辞めてはならぬと遺言を残した。一方、商鞅への陰謀をめぐらす甘龍らを、商鞅の名誉を守りに来たという刺客が襲う。彼の要求は、残酷な刑を科さぬこと、民による埋葬を認めること、そして処刑場には祭壇を置くことの3つ。そして、従わなければ命はないと脅し……。

第51話

新公・駟が不在のまま、甘龍と景監を中心に朝議が開かれる。商鞅の処罰を決めるためであった。甘龍らは車裂の刑を要求し、新公に書を送る。朝議では処罰に対する意見が分かれ、決議に至ってはいないと新公は、太師府と延尉府で合議の上決定すると命を下した。そして、新公は牢にいる衛鞅を訪ねる。朝議により旧貴族らが酷刑を望んでいることを伝えると、商鞅は自分の死が秦にとって有益ならば悔いはないと答えるのであった……。

紀元前338年、商鞅処刑。
第26代君主・恵文君の時代を中心に描く「大秦帝国 縦横 ~強国への道~」へと続く。
中国の車裂の刑: 古代の周王朝から記録が見受けられる。春秋時代になると、互いに覇を競う諸侯たちは、自身を害しようとする反逆分子をこの方法で処刑した。戦国時代には秦の宰相・商鞅が、さらに秦王・政(後の始皇帝)の母親の愛人である嫪毐などがこの方法で処刑された。秦による統一以降も陳勝の部下であった宋留が処刑され、前漢建国の功臣・彭越も謀反の疑いで車裂に処せられ、一族も滅ぼされている。

参考サイト

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画像出典: 长篇历史剧《大秦帝国》_网易娱乐

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