3B政策 3C政策 モロッコ事件 帝国主義対立の変化
帝国主義対立の変化 ©世界の歴史まっぷ
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3B政策

19世紀末から第一次世界大戦期の、中東・インド洋進出を目指したドイツ帝国主義政策の日本での呼称。3Bとはベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードの3都市の頭文字に由来した。

3B政策

19世紀末から第一次世界大戦期の、中東・インド洋進出を目指したドイツ帝国主義政策の日本での呼称。3Bとはベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードの3都市の頭文字に由来した。

参考 世界史用語集

帝国主義とアジアの民族運動

世界分割と列強対立

同盟外交の展開と列強の二極分化

ドイツもオーストリア=ハンガリー・イタリアとの間の三国同盟を更新し、ヨーロッパの国際関係は、三国同盟と露仏同盟という二大ブロックが対峙する形になった。イギリスはヨーロッパの同盟関係から超然として「光栄ある孤立」を保っていた。しかし、イギリスはアフリカやアジアでフランスとロシアに対立し、さらにドイツ・日本・アメリカという新たなライヴァルが登場した。とりわけ、1898年、ドイツは「世界政策」と称して積極的な植民地獲得政策に乗り出した。外洋向け艦隊をいっきょに増強するドイツの海軍拡張計画は、北海・バルト海におけるイギリスの覇権を脅かした。また、ドイツはアナトリアからペルシア湾にいたるバグダード鉄道の敷設権をオスマン帝国から獲得して近東への経済的進出を本格化させた。ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードを結ぶドイツの3B政策は、黒海から東地中海への出口を求めるロシアの南下政策やインドへの道として東地中海地域を重視するイギリスの3C政策( アフリカの植民地化 – 世界の歴史まっぷ)と衝突した。

参考

61.列強の国際対立の激化

61.列強の国際対立の激化
61.列強の国際対立の激化流れ図 ©世界の歴史まっぷ

三大勢力(英・露仏・独墺)の鼎立

ドイツのビスマルク体制は、1890年に世界政策をかかげるヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の親政が始まると瓦解しはじめた。皇帝がロシアとの再保障条約の更新を拒否したので、ロシアはドイツ・オーストリアに対抗し、工業化の資本を得るためにもフランスに接近し、1891年から1894年にかけて露仏同盟を成立させた。これによりフランスは外交的孤独を脱し、国際関係は流動化した。ドイツは中東に関心をむけバグダード鉄道の建設を進め、ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードを結ぶ3B政策で、イギリスの3C政策を脅かした。イギリスはイラン・アフガニスタンでロシアとの対立を深め、さらに義和団事件以後ロシアの脅威を感じ、1902年日英同盟を結んで「光栄ある孤立」政策を放棄した。また1904年英仏協商を結び、アフリカでのイギリス・フランス間の対立関係を調整した。

参考

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