高宗(唐)
高宗(唐)肖像画 ©Public Domain

高宗(唐)


Previous Post

Next Post

高宗(唐) A.D.628〜A.D.683

唐朝の第3代皇帝(在位649年7月15日 - 683年12月27日)。第2代皇帝太宗(唐)の第9子。高宗の時代は、西は西突厥を大破して滅亡に追い込み、アラル海にいたる西域を支配下におさめ、東は新羅と結んで、高句麗百済を滅ぼすなど、唐(王朝)領土は最大に達した。

高宗(唐)

東アジア世界の形成と発展

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア文化圏の形成

唐の建国と発展

太宗(唐)から次の高宗(唐)の時代は、唐(王朝)第一の盛時であり、唐は世界的な大帝国へと発展していった。
高宗(唐)時代には、西は西突厥を大破して滅亡に追い込み、アラル海にいたる西域を支配下におさめ、東は新羅と結んで、高句麗・百済を滅ぼすなど、唐(王朝)領土は最大に達した。
唐は、領土内の異民族に対しては、それぞれの部族長に唐朝の官爵を与えて、間接的に諸部族を支配する羈縻政策きびせいさくを採用し、これら諸部族に対する統治・監視機関として、辺境に六都護符(安西・北庭・安北・単于・安東・安南)を設置した。

唐の混乱

7世紀末になると、唐は内部から動揺しはじめた。則天武后そくてんぶこう(位690〜705)は、太宗(唐)の後宮から高宗(唐)の皇后となり、高宗の晩年にはかわって政務を執り行うようになった。武后は、高宗(唐)が没すると、すでに即位していた実子の中宗(唐)を廃し、かわった睿宗えいそう(唐)をも退位させてみずから帝位につき、国号も唐にかえてと称した(武周革命ぶしゅうかくめい)。

詳説世界史研究

律令国家の成立

律令国家への道

655年、高句麗と百済が連合して、新羅に侵攻した。新羅は唐王朝に救済を求め、高宗(唐)は660(斉明天皇6)年、まず百済に出兵して、その都扶余を陥れ、義慈王は降伏した。
ここに百済は滅亡したが、各地に残る百済の遺臣たちは、百済の復興に立ち上がり、倭国に滞在していた百済の王子豊璋ほうしょうの送還と援軍の派遣を要請してきた。
斉明天皇さいめいてんのう(在位655〜661, 皇極天皇が重祚ちょうそした)と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救済の大軍を派遣することに決した。
661年中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の位につかないまま、戦争指導を行った。
662年に大軍を渡海させたが、翌663(天智天皇2)年、白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に大敗した。

参考

詳説日本史研究

同時代の人物

天武天皇(大海人皇子)(?〜686)

第40代天皇。天智天皇(中大兄皇子)の同母弟の大海人皇子は、天智天皇の長子で、671年に政権に参画した大友皇子(弘文天皇)との大王位継承争いを発端とした、古代日本最大の内乱・壬申の乱をおこして勝利し、天武天皇に即位した。

広告
Previous Post

Next Post