源頼朝 藤原隆信
国宝 伝源頼朝像(藤原隆信画/神護寺蔵)©Public Domain

源頼朝


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源頼朝 みなもとのよりとも ( A.D.1147〜A.D.1199)
義朝よしともの子。平治の乱で伊豆に配流となる。1180年、以仁王の令旨に応じて挙兵、鎌倉を拠点に東国武士の支持を集めた(鎌倉殿)。1184年に弟範頼のりより義経よしつねを遺して源義仲よしなかを倒し、翌年、平氏を滅ぼす。1185年、義経よしつねとの不和を機に朝廷に守護・地頭の設置を認めさせ、武家による全国支配の端緒をつくった。1190年、右近衛大将に任じられた(直後に辞任)。1192年征夷大将軍に就任。

源頼朝

義朝よしともの子。平治の乱で伊豆に配流となる。1180年、以仁王の令旨に応じて挙兵、鎌倉を拠点に東国武士の支持を集めた(鎌倉殿)。1184年に弟範頼のりより義経よしつねを遺して源義仲よしなかを倒し、翌年、平氏を滅ぼす。1185年、義経よしつねとの不和を機に朝廷に守護・地頭の設置を認めさせ、武家による全国支配の端緒をつくった。1190年、右近衛大将に任じられた(直後に辞任)。1192年征夷大将軍に就任。

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鎌倉幕府を開き関東に武家の政権を築く

初陣で父と兄を失い蛭ヶ小島へと流される

流人として京を発った頼朝は13歳であった。前年の1159年(平治1) 12月、父の源義朝みなもとのよしとも平清盛たいらのきよもりの留守をねらって兵を挙げたが、都に帰った清盛と戦って敗れたのである(平治の乱)。このとき初陣の頼朝は、父とともに東国へ落ちる途中、雪道ではぐれ、平氏方に捕らわれた。

父義朝は尾張で殺され、兄の源義平みなもとのよしひらも再び都を狙うが果たせず殺害される。京へ連れ戻された頼朝も殺されるはずだった。しかし、幼い頼朝を見た池禅尼いけのぜんに(清盛の継母)が哀れに思い懇願したため、死をまぬがれたのだ。

頼朝は伊豆の蛭ヶ小島ひるがこじまに流された。清盛から信任を受けた伊東祐親いとうすけちかは、頼朝の監視にあたっていた。ところが、若者となった頼朝と祐親の娘が恋仲となり、男子が生まれる。祐親は激怒し、2人の仲は引き裂かれ、子は捨てられてしまう。身の危険を感じた頼朝は、北条時政の館へと逃れた。

弟の義経との出会い蜜月から破局まで

伊豆に流されること20年。読経ざんまいの生活を送り、北条時政の娘北条政子と結婚した頼朝は時期の到来を待ち続けた。

そして1180年(治承4)、以仁王もちひとおうの令旨を受け取った頼朝は、ついに挙兵する。石橋山の戦いに敗れはしたが、平氏に不満をもっていた坂東武者たちが次第に集まり、鎌倉に入ったときには大軍に膨れ上がっていた。頼朝の挙兵を知った平清盛は、ただちに平維盛たいらのこれもりを大将軍とする追討軍を派遣した。

追討軍は富士川をはさんで、頼朝の大軍と向かい合った。しかし、平氏軍は士気が低下しており、源氏軍の移動に驚いて富士川の水鳥がいっせいに飛び立ったのを源氏軍の夜襲かと驚き、一戦も交えず、京に逃げ帰った。頼朝と弟の源義経みなもとのよしつねが初めて対面したのは、富士川の戦いの翌日のことである。このとき義経は22歳、頼朝は34歳であった。

その後、頼朝は、弟の源範頼みなもとののりよりと義経を派遣し、一の谷・屋島で平氏を撃ち破り、ついに壇の浦で平氏を滅ぼす。この間、頼朝は鎌倉を動かず、幕府の政治体制を着々と整備していた。

義経の戦功はめざましかったが、義経が頼朝の許可なく、朝廷の検非違使けんびいし左衛門少尉さえもんのしょうじょうに任官し、京の警備に当たるようになったことは、頼朝の怒りを招いた。これでは義経は鎌倉幕府を離れて、後白河法皇の側近になってしまうからである。頼朝は義経を討つ決意をかためた。

義経が法皇から頼朝追討の院宣を得ると、頼朝は逆に法皇から義経迫討の院宣を引き出し、義経を捕らえるために諸国に守護・地頭を置くことを認めさせた。これを機に、幕府の支配は全国的に及ぶようになった。義経は奥州の藤原秀衡ふじわらのひでひらのもとに逃れる。秀衡の死後、その子藤原泰衡ふじわらのやすひらは頼朝の圧力に耐えきれず、義経を討った。頼朝はこれまで泰衡が義経をかくまってきたのを責め、早速自ら出陣して奥州藤原氏を攻め減ぼした。

鎌倉幕府の2つの権利、東国支配権と諸国守護権

頼朝(鎌倉幕府)は2つの面をもっていた。ひとつは頼朝が挙兵し、東国を実力で支配し、のち朝廷にその支配権を正式に認められたことである。そのため東国支配権は、特別に強かった。いまひとつは、頼朝が朝廷のもとで、御家人を率いて日本の軍事・警察を担当する権限で、これを諸国守護権という。鎌倉幕府は東国支配権と諸国守護権とで成り立っていた。

6年にわたる内乱を終結させた頼朝だったが、1199年、前年の落馬事故がもとで没した。

源義経の首:義経が自害したのは1189年閏4月30日。頼朝が亡母のために建てた塔の供養が済むまで鎌倉入りが許されず、首が届いたのは6月13日。約1ヶ月半後の首実検であり、見る人々は涙を流したという。

中世社会の成立

院政と平氏の台頭

保元・平治の乱
承平・天慶の乱 源平の進出年表
源平の進出年表 ©世界の歴史まっぷ

やがて院政を始めた後白河上皇の近臣間の対立が激しくなり、1159(平治へいじ元)年には、平清盛と結ぶ藤原通憲ふじわらのみちのりに反感をもった近臣の一人藤原信頼ふじわらののぶより源義朝みなもとのよしともと結び、平清盛が熊野詣にきかけている留守をねらって兵をあげ、藤原通憲ふじわらのみちのりを自殺させた。だが武力に勝る平清盛は、京都の六波羅邸ろくはらていに帰還すると、藤原信頼ふじわらののぶよりらを滅ぼし、東国に逃れる途中の源義朝みなもとのよしともを討ち、その子の源頼朝みなもとのよりともを捕らえて伊豆に流した。これが平治の乱へいじのらんである。

この二つの乱を通じて、貴族社会内部の争いも武士の力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった。

鎌倉幕府の成立

源平の争乱

平清盛は後白河法皇を幽閉し、平氏の専制的政権を築きあげた。しかし貴族や大寺社、地方の武士たちの平氏への不満は強く、繁栄は長く続かなかった。1180(治承じしょう4)年、清盛が孫である幼い安徳天皇を位につけると、後白河法皇の第2皇子以仁王もちひとおう(1151〜1180)と源頼政みなもとのよりまさ(1105〜1180)は、園城寺おんじょうじや興福寺を味方にして平氏打倒の兵をあげた。
大寺社の僧兵の力が一つにまとまるのを恐れた清盛は、直ちに攻撃を加え、源頼政は宇治で戦死し、以仁王も奈良に向かう途中で討ち取られた。

しかし決起を呼びかける以仁王の令旨りょうじは諸国に伝えられ、これに呼応した武士(在地領主)たちがつぎつぎと立ち上がった。彼らは各地の国司や荘園領主に対抗して自己の所領の支配権を強化・拡大しようとしており、その障害となる平氏政権を否定したのであった。内乱は全国に広がり、5年にわたって戦いが続けられた。これが治承・寿永の内乱じしょう・じゅえいのないらんである。

治承・寿永の内乱

治承・寿永の内乱は、一般的には源氏と平氏の戦いといわれる。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動をおこすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏、肥後の菊池氏らである。彼らは平氏の施政に反発したのであって、初めから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層の存在があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ちあがったのである。

彼らの動向をまとめ上げ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲みなもとのよしなか源行家みなもとのゆきいえ、あるいは平宗盛たいらのむねもりにも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよくこたえたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。なお、当時の合戦についてであるが、軍記には、例えば富士川の戦いは平家軍7万騎・源氏軍20万騎などと記されている。これは大変な誇張であり、保元の乱のときの平清盛軍300騎・源義朝軍200騎、という数字を参照すると、実数は10分の1以下であったろう。

平氏に反する勢力のうち、とくに強大だったのは源頼朝みなもとのよりとも(1147〜1199)の勢力である。頼朝は源義朝みなもとのよしともの子で、平治の乱のあと伊豆に流されていた。以仁王の令旨りょうじを叔父源行家から伝えられ、1180(治承じしょう4)年8月、妻政子の父北条時政ほうじょうときまさ(1138〜1215)らと挙兵した。

石橋山の戦いでは平氏方の大庭景親おおばかげちからに敗れて海路阿波国に逃れたものの、代々源氏に使えていた東国の武士が続々と馳せ参じ、早くも10月、頼朝は源氏の根拠地であった鎌倉に入った。平清盛は孫の平維盛たいらのこれもりを大将として頼朝追討の大軍を東国に派遣したが、平氏軍は駿河国の富士川で源氏の軍に大敗して京都に逃げ帰った。水鳥の飛び立つ音に驚き、源氏の夜襲と間違えて敗走したといわれる。頼朝は配下の武士たちの要望を入れてあえてこれを追いかけることをせず、鎌倉に帰って東国の経営に専念した。東国平定に失敗した平氏は、建設中の摂津福原京を放棄してやむなく京都に帰り、以仁王に加担した大寺社を焼き討ちし、近江・河内の源氏の一族を討伐して畿内の支配を固め、諸国の動乱に対処しようとした。

だが、1181(養和元)年閏2月の清盛の死と同年の畿内・西国の大飢饉(養和の飢饉)が、平氏に深刻な打撃を与えた。

福原京遷都

以仁王もちひとおうが敗死した翌6月、平清盛は安徳天皇・高倉上皇を奉じて摂津の福原京に遷都した。平家の指導力を高めるための措置であったが、貴族たちの反発は激しく、南都・北嶺の僧兵や近江・河内の源氏の反平氏の動きも活発になった。そのため清盛はやむなく新都造営を中断し、11月には都を京都に戻すことにした。

源頼朝の従弟いとこ源義仲みなもとのよしなか(1154〜1184)は、頼朝より1ヶ月ほどのちに信濃国で挙兵した。徐々に近隣の武士を従え、1181年6月、平氏の命を受けた越後の豪族城氏じょうしの攻撃を退けて北陸道に進出した。北陸道諸国には反平氏の気運が高まっており、義仲の勢力は急激に大きくなった。

1183(寿永2)年、平氏は再び平維盛たいらのこれもりを大将として軍勢を北陸に派遣したが、越中にいた義仲は加賀と越中の国境砺波山となみやま倶利伽羅峠くりからとうげで迎え討ち、これを撃破した。牛の角にたいまつを結んで夜襲をかけたと伝えられる一戦である。義仲は敗走する平氏軍を追って加賀国篠原でも勝利し、そのまま京都に攻め上がった。畿内の武士や寺社勢力も一斉に平氏に反旗を翻し、同年7月、平氏一門はついに京都から追い落とされた。

治承・寿永の内乱 源平の争乱 源平の争乱(治承・寿永の内乱)地図
源平の争乱(治承・寿永の内乱)地図 ©世界の歴史まっぷ

都での義仲は政治的配慮に乏しく、後白河法皇の反感をかい、反平氏勢力の掌握に失敗した。彼が平氏を打つべく中国地方に滞在する間に、法皇は頼朝の上京を促した。頼朝は弟の源範頼みなもとののりより源義経みなもとのよしつねを大将として東国の軍勢を派遣した。義仲は急ぎ防戦したが、味方となる武士は少なく、1184(寿永3、元暦元)年1月、近江国粟津あわづで戦死した。

源氏が相争っているうちに、平氏は勢力を回復して福原に戻り、京都帰還の機会をうかがっていた。後白河法皇は平氏追討の院宣を源頼朝に与え、源氏軍はただちに平氏の拠点一の谷を攻撃した。1184年2月の源平両氏の命運を賭けた戦いは、源義経の活躍を得て源氏側が勝利した。頼朝はこののち各地に有力な武士を派遣し、平氏や源義仲の勢力を掃討させた。平氏の基盤である四国・九州の武士も頼朝に臣従するようになった情勢をみて、1185(文治元)年2月、源義経は讃岐国屋島に平氏を急襲し、さらに長門国壇ノ浦に追い詰めた。源義経との海戦に敗れた平氏一門は、同年3月、安徳天皇とともに海中に没した。

源頼朝の勢力増大を恐れた後白河法皇は、軍事に優れた源義経を重く用い、頼朝の対抗者にしようと試みた。頼朝は法皇の動向を警戒し、凱旋する義経を鎌倉に入れず、京都に追い返した。法皇は義経と叔父源行家に九州・四国の武士の指揮権を与え、頼朝追討の命令を下した。しかし武士たちは頼朝を重んじて法皇の命令を聞かず、義経は孤立し、奥州平泉の豪族藤原秀衡ふじわらのひでひらのもとに落ち延びた。秀衡の死後、その子の藤原泰衡ふじわらのやすひらは義経を殺害して頼朝との協調をはかったが、頼朝は自ら大軍を率いて奥州に進み、藤原氏一族を滅ぼした。1189(文治5)年のことである。これにより、武家の棟梁としての頼朝の地位を脅かすものは誰もいなくなったのである。

鎌倉幕府

源平争乱のおり、源頼朝は関東を動かず、新しい政権の樹立につとめた。根拠地に選んだ鎌倉は東海道の要衝であり、南は海に面し、三方を丘陵に囲まれた要害の地であった。また、源頼義が源氏の守り神、石清水八幡宮を勧請かんじょうして鶴岡八幡宮を建立するなど、源氏ゆかりの土地であった。

頼朝は1180(治承じしょう4)年の富士川の戦いの後、侍所さむらいどころを設け、長官である別当には三浦一族の和田義盛わだよしもりを任じ、頼朝と主従の関係を結んだ武士である御家人ごけにんを統制させた。1184(元暦元)年には公文所くもんじょ問注所もんちゅうじょを開いた。公文所はのちに整備されて政所まんどころと改称された。その長官である別当には朝廷の練達な下級官吏であった大江広元おおえひろもとを任じ、一般の政務や財政事務を管掌させた。問注所の長官は執事と呼ばれ、やはり下級官吏であった三善泰信みよしのやすのぶを京都から招いて裁判にあたらせた。

鎌倉幕府と朝廷1
鎌倉幕府と朝廷1 ©世界の歴史まっぷ

一方、頼朝は常陸国の佐竹氏・大掾だいじょう氏、下野国の(藤原姓)足利氏、上野国の新田氏らを討伐し、あるいは降伏させながら、実力で関東の荘園・公領を支配し、御家人の所領支配を保証していった。

1183(寿永2)年10月には、源義仲との対立に苦しむ後白河法皇と交渉し、東海・東山両道諸国の支配権の公的な承認(寿永二年十月宣旨)を手に入れた。ついで1185(文治元)年、法皇が源義経に頼朝追討を命じると軍勢を京都に送って強く抗議し、追討令を撤回させるとともに、諸国に守護、荘園や公領には地頭を任命する権利、田1段あたり5升の兵粮米ひょうろうまいを徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心に頼朝の支配権は広く全国に及ぶことになり、武家政権としての鎌倉幕府が成立した。

将軍と幕府

征夷大将軍とは蝦夷征討の軍の総大将に与えられた職名であるが、まだこの時代には、武家の棟梁と将軍職とが不即不離ふそくふりの関係にあるわけではなかった。源頼朝は当時はもっぱら敬意を込めて鎌倉殿と呼ばれていたが、やがていくつかの候補(例えば近衛このえ大将・鎮守府将軍など)の中から義仲も任じられたこの官職をを選択し、武家の棟梁の指標としたのであった。頼朝以後、征夷大将軍、あるいは単に将軍といえば、すなわち武人の代表者という認識が定着していく。

また征夷大将軍の居館を幕府と呼ぶが、幕府とは中国の語で、出征中の将軍の幕で囲った陣営を意味していた。それが転じて日本では近衛大将の居館の意に用いられ、さらに将軍の館の意になった。これが武家政治の政府のを指すようになるのは、はるか後世になってからである。

守護は各国に1人ずつ、主として東国出身の有力御家人が任命された。その任務は、規定によれば大犯三カ条、すなわち大番催促・謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕に限られていたが、実際は治安を維持するために国内の御家人を指揮して警察権を行使し、戦時には御家人を統率して戦闘に参加した。また、守護は地方行政にも関与した。鎌倉時代にも朝廷の国司は依然として任命されていたが、実際の国の行政はもっぱら現地の有力者である在庁官人が司っていた。在庁官人には武士が多く含まれており、彼らのなかには幕府の御家人になる者もあった。守護は在庁官人への命令権を行使し、次第に国衙の支配を進めていった。とくに東国では、最も有力な在庁官人=国内で最も有力な武士、という図式が定着しており、さらにその武士が御家人となって守護に任じられたから(相模国の三浦氏、下総国の千葉氏、下野国の小山氏など)、国衙の機能はほとんど守護のいる守護所に移され、守護は強力な地方行政官として働いたのである。

鎌倉幕府 守護の配置(頼朝の奥州平定)地図
守護の配置(頼朝の奥州平定)地図 ©世界の歴史まっぷ
大犯三カ条

誤解されやすいので繰り返すが、大犯三カ条の三つは「守護の任務のうちでとくに重要なもの」なのではなくて、「守護が行使を許された権限のすべて」である。ただし守護は、謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕を口実として任国内の警察権全般を手中にしようとしたし、平時の大番を管轄する権限は戦闘時の軍事指揮権にあたるとして、任国内の御家人たちの統率につとめた。そのため、鎌倉時代後期になると、守護と主従関係を結ぶ在庁武士たちが現れてくる。

各国の荘園や公領に置かれた地頭には、御家人が任命された。任務は年貢を徴収して荘園領主や国衙に納入すること、土地を管理すること、警察権を行使して治安を維持することなどであった。給与には一定の決まりがなく、各地域における先例の遵守が原則であった。ただ、承久の乱後に定められた新補率法しんぽりっぽうによっておおよその見当をつけることができる。

もともと地頭とは土地のほとり、すなわち「現地」を指す言葉で、平安時代後期から荘園の名称として用いられた。平氏政権下でも、武士が地頭に任じられている例をわずかながら見出すことができる。頼朝は地頭の職務を明確化するとともに、任免権を国司や荘園領主から幕府の手に奪取した。それまで多くは下司げすの地位にあった武士=荘官は、頼朝の御家人になって改めて地頭に任じられた。御家人たちの在地領主制は、幕府によって保証されることとなったのである。

在地への影響力の低下を恐れる荘園領主たちは、当然この事態に反発し、地頭のあり方をめぐって朝廷と幕府の間で何度か交渉が行われた。その結果、地頭の設置範囲は平氏とその関係者・謀叛人の所領だけに限られることとなったが、やがて幕府の力が大きくなるにしたがって、次第に全国に及ぶようになる。

鎌倉幕府と朝廷2
鎌倉幕府と朝廷2 鎌倉幕府職制(初期) ©世界の歴史まっぷ

1186(文治2)年、頼朝は京都に京都守護をおいた。妹婿である貴族一条能保いちじょうよしやすがこれに任じられ、京都の警備と在京の御家人の取締りにあたった。九州の大宰府には鎮西奉公ちんぜいぼうこうを、奥州には奥州総奉公をおいて地方の御家人の統率を命じた。朝廷では九条兼実くじょうかねざねが頼朝の後援を得て摂政の地位についた。兼実は貴族の合議を重視する人物で、後白河法皇の専制に対抗した。また幕府に好意的で、鎌倉と京都との協調につとめた。

1190(建久元)年、頼朝は上京を遂げて右近衛大将になり、1192(建久3)年、法皇の死後に征夷大将軍に任じられた。以後、この職は江戸時代の末にいたるまで長く武士の第1人者の指標となった。頼朝が将軍に就任し、ここに鎌倉幕府は名実ともに成立するにいたったのである。

鎌倉幕府の成立時期

鎌倉幕府の成立時期をいつに求めるべきか、この問題をめぐって、これまで以下の6説が主張されてきた。見解の対立は、論者の幕府観の相違によってもたらされている。

  • ① 1180(治承4)年末 頼朝が鎌倉に居を構え、侍所を設け、南関東・東海道東部の実質的支配に成功したとき。
  • ② 1183(寿永2)年10月 頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けたとき。
  • ③ 1184(元暦元)年10月 公文所(政所まんどころ)・問注所を設けたとき。
  • ④ 1185(文治元)年11月 守護・地頭の任命権などを獲得したとき。
  • ⑤ 1190(建久元)年11月 頼朝が右近衛大将に任命されたとき。
  • ⑥ 1192(建久3)年7月 頼朝が征夷大将軍に任命されたとき。

⑤, ⑥、とくに⑥は幕府という語の意味に着目した、いわば語源論的な解釈であり、古くから主張されている。これに対しほかの4説は、軍事政権としての幕府が成立してくる過程を問題にしており、中では④が最も重要な時点であるとして、現在ではこれを支持する学者が多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配政権としての性格を強調するべきだとすれば②説が有力になり、軍事力による実力支配を重くみれば①の見解が主張されることになる。

幕府と御家人

源平の争乱が始まると、関東地方の武士たちは源頼朝を自らの権益を守る者として認識し、競ってその従者となった。頼朝の勢力が拡大するにつれ、彼に服属する武士は全国に広がっていく。将軍と直接の、また当時としては非常に強固な主従関係を結んだ武士は、とくに御家人ごけにんと呼ばれた。主君にしたがう従者を一般に家人けにんといったが、将軍への敬意から「御」の字が加えられたわけである。

頼朝は御家人に対し、主に地頭に任命することによって、先祖伝来の所領の支配を保証した。これを本領安堵ほんりょうあんどという。国衙や近隣諸勢力との争いに絶えず悩まされていた武士(在地領主)にとって、「一所懸命いっしょけんめい(一つの所に命をかける)の地」という言葉がしばしば用いられたほど大切だった本領の領地を認めてもらうことは、何物にもかえがたい御恩ごおんであった。御恩にはもう一つ、新恩給与しんおんきゅうよがあった。これは抜群の功績があったときに、新たな領地を与えられることをいう。

東国は頼朝が実力で平定した実質上の幕府の支配地域であり、そのほかの地方でも国衙の任務は守護を通じて幕府に吸収されていったから、守護・地頭の設置によって、日本での封建制度は、初めて国家的制度として歩み始めたと考えられる。

将軍である頼朝は関東知行国関東御陵を所有していた。関東知行国は頼朝の知行国で、関東御分国ごぶんこくともいわれ、最も多いときは9カ国を数えた。頼朝は知行国主として国司を推挙し、国衙からの収入の一定額を取得した。関東御陵は頼朝が本家・領家として支配した荘園や国衙領である。将軍の直轄地であり、鎌倉時代初めには平家没官領もっかんりょうといわれる平氏の旧領約500カ所と源氏の本領とから成り立っていた。知行国といい荘園といい、将軍はほかに例をみないほどの巨大な領主であり、この膨大な所領が幕府の経済基盤をなしていた。この事態は、幕府が荘園・公領の経済体制のうえに築かれた権力体であったことを如実に物語っている。御家人への土地給与が土地自体の給与ではなく、地頭職という土地への権利の給与であることも、幕府と荘園制の密接な関係を裏付けている。幕府は確かに封建的な政権であった。しかし荘園制を否定することのできない、未熟な政権でもあった。それゆえに幕府と朝廷とは、併存し得たのであった。

幕府の経済的基盤

関東知行国は、将軍が知行国主である国をいう。将軍は一族や有力御家人を朝廷に推薦して国司とし、目代を派遣して国衙を支配し、国衙領から税を徴収した。頼朝は9カ国を知行したが、源実朝の時代には4カ国に減少した。以後、幕末まで4〜6カ国を数えたが、時代を通じて分国であり続けたのは駿河・相模・武蔵の3カ国にすぎない。

関東御陵は将軍の直轄領である。すなわち将軍が本家・領家として支配した荘園や国衙領である。地頭職は御家人に給付され、この土地からの税は幕府の主要な財源になった。これを歴史的由来によって分類すると、①源氏の本領、②平家旧領、③承久没収地となる。
①と②は源平の争乱後に頼朝が獲得したもので、合わせて500カ所にのぼる。③は承久の乱の勝利によって幕府が得た京方貴族・武士の所領3000カ所である。

幕府と御家人 東国の範囲と関東知行国地図
東国の範囲と関東知行国地図 ©世界の歴史まっぷ

関東御陵の支配にあたっては、幕府の政所がこれを統轄し、税を徴収した。鎌倉時代中期以降、政所は北条氏の掌握するところとなり、御陵の多くはしだいに北条氏の所領と化していった。

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