北元 朝貢貿易 14世紀の東アジア 明(王朝) 明初の政治 アユタヤ朝 朝貢体制の動揺 明代のアジア(15世紀半ば) 地図
明代のアジア(15世紀半ば) 地図 ©世界の歴史まっぷ
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朝貢貿易 (勘合貿易, 日明貿易)
自らを世界の中心であると考えていた中国は、周辺諸国を文化的に遅れた夷狄と見なし(中華思想)、このため周辺諸国との交易は、中国君主の徳を慕った諸国が「貢物」を献上し、君主はこれにこたえて「回賜」を与えるという、恩恵的な朝貢形式が行われていた。朝貢は中国君主が認めた諸国に限り、さまざまな制限が設けられているのが常であった。明も、日本や南海諸国に対して勘合符を与えて朝貢貿易を行なったが、16世紀から来航したポルトガルをはじめ、スペインなどのヨーロッパ諸国に対しても、朝貢貿易の形式を強制した。続く清朝もヨーロッパ諸国との交易を、従属国からの朝貢と同一であるとの姿勢を崩さず、来航地・品目・数量などを一方的に制限した。こうした交易体制は、19世紀の南京条約まで続けられた。

朝貢貿易

東アジアの海洋世界

7世紀のイスラーム教の成立はイスラーム帝国の興隆をもたらした。アラブやイランのムスリム商人たちは8世紀以後、海上に進出し、中国の沿岸に達した。唐代・宗代の時期には貿易港であった広州や泉州には外国人の居留地として盤坊ばんぼうが設けられた。

一方で、中国人も10世紀から盛んに海上に進出した。この背景には中国の経済発展があった。農業生産の拡大は、広範な流通と手工業特産品をもたらし、対外交易の重要な品目となった。これには、各地で機業が起こって生産が拡大した絹製品、商業の発達に対応して膨大な量が鋳造された銅銭、そして、宋代に躍進を遂げた青磁・白磁などの陶磁器などがあった。これらを、中国商人はジャンク船を利用して各地に輸出し、各地の一次産品を輸入した。その交易範囲は東シナ海から南シナ海、インド洋に及んだ。陶磁器を交易品の中心としたこのルートは、陶磁の道(セラミック・ロード)とも呼ばれる。

元朝も海上交易を奨励し、特に泉州は世界有数の貿易港に成長した。元は2度にわたり日本に出兵したが、日元間の交易は盛んに行われ、貿易船を利用した僧侶の往来も多かった。このように宗・元の時代には海の道による交易の著しい発展が見られ、政府も港に市舶司しはくしを設置して関税の徴収や貿易の統制を行なった。

14世紀半ば、元朝の力が衰え、日本でも南北朝の騒乱の時期になると、私貿易が盛んに行われるようになった。この中で東シナ海で倭寇の活動が活発化し、朝鮮半島や中国の沿岸で交易とともに、食料や人間の略奪を行なった。この14世紀を中心とする倭寇を前期倭寇と呼ぶ。

明王朝で靖難の役に勝利した永楽帝が即位した時期は、朝鮮半島では李成桂が朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国し(1392)、日本では室町幕府3代将軍・足利義満が南北朝の合一(統一)を実現(1392)した直後であった。永楽帝は、洪武帝が目指した海禁朝貢貿易を基礎にした中華帝国による秩序の再編の意図を継承し、拡大した形で推進した。朝鮮と日本は、明の冊封を受けることで、これに加わった。これ以後、倭寇は次第に禁圧された。永楽帝による鄭和ていわの南海遠征も海洋を通じての秩序再編とその維持のためのものであった。

朝貢国の施設であることを確認するために発給された勘合符を用いたので、勘合貿易と呼んでいる。勘合符は明から50余国に発給された。日本では諸大名、寺社、境や博多の商人が実質的に勘合貿易を担った。

南海遠征終了後も継続された海禁政策のもとで中国人の海上進出は停滞した。この間に、東シナ海交易圏と南シナ海交易圏の接点に位置する琉球王国が、明との朝貢関係を利用した中継貿易で繁栄した。

琉球が明に入貢した回数は171回におよぶ。入貢回数2位の安南は89回であり、朝鮮は30回、日本は19回であった。

首里城を中心とする琉球王国は、沖縄本島が北山・中山・南山にわかれて勢力を争っていた中の中山王・尚巴志しょうはしにより1422年に統一して成立した。以後、琉球船は東南アジア各地で活発な貿易活動を進め、港の那覇を中心として交易品を東アジアにもたらした。那覇には福建から多くの中国人が移り住んで交易活動を支えた。海の道の発展 諸地域世界の交流 – 世界の歴史まっぷ

明初の政治

洪武帝は、対外的には、中国人の海外渡航を厳禁して、民間貿易を制限するとともに、朝貢貿易以外の外国との取引を禁止した。こうした海禁政策は明代中期以後まで続き、倭寇(後期倭寇)の発生を引き起こす原因となった。

明朝の朝貢世界

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鄭和の南海遠征もあって、明に対する朝貢貿易は、東アジアからインド洋にわたる広範囲にかけて活発に行われた。

琉球

明朝への重要な朝貢国のひとつが琉球りゅうきゅうであった。現在の沖縄県を中国で「琉球」と呼ぶようになったのは洪武帝時代からである。当時の琉球には北山ほくざん中山ちゅうざん南山なんざんの3国が鼎立しており、それぞれが明に朝貢していた。15世紀初めに中山王尚氏しょうし(第一尚氏)が他の2国を統合して琉球の代表となり、中国文化を取り入れる一方で、明への朝貢を続け、それによって得た物資を用いて他国との交易を行なった。その結果、琉球は東シナ海と南シナ海とを結ぶ交易の要となっていった。

マラッカ王国

14世紀末ころマレー半島西南部に建国されたマラッカ王国は、当時タイのアユタヤ王国に従属していたが、15世紀前半に鄭和の南海遠征が行われるとその拠点となり、15世紀半ばには国王がイスラーム教へ改宗してイスラーム世界との結びつきを強めていった。その後マラッカ王国はアユタヤ王国から独立し、明への朝貢貿易を継続しながら、インド洋と東南アジアとの中継地点である地の利を活かし、15世紀中頃以降16世紀初期にポルトガルの進攻を受けてを受けて滅亡するまでの間、ジャワのマジャパヒト公国にかわって東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。

朝鮮

李氏朝鮮では15世紀初めの第3代太宗(朝鮮)の時、明の制度を取り入れて集権官僚国家体制を整えた。さらに高麗時代からの仏教勢力を排除して朱子学を国家の指導理念とした。次の第4代世宗(朝鮮)は、当時さかんとなった金属活字による印刷術の発達によって、高麗王朝の歴史書である『高麗史』をはじめとして多くの書籍を出版させた。また世宗は、
朝鮮語を漢字で表記するのには不便があったので、1446年、新しい音標文字である訓民正音(19世紀以降ハングル文字と改称)を制定し、文化の普及と発展に役立てた。

太宗(朝鮮)の命によって1403年に鋳字所が作られ、多量の銅活字が製造され、書物の印刷がさかんに行われた。日本へは豊臣秀吉の朝鮮侵略の際持ち帰られ、慶長活字版や徳川家康の駿河版の基となった。

日本

明朝は日本の室町幕府に対して倭寇の取り締まりを要求した。さらに明は1402年、第3代将軍足利義満に国書を与え、「日本国王」に封じた。これを受けて義満は、1404年に遣明船を派遣して勘合貿易を開始した。このため、倭寇の活動は減少した。

ベトナム

ベトナムでは陳朝が国内の混乱で滅ぶと、永楽帝は陳朝復興を口実に軍を派遣してベトナムを一時支配した。しかしベトナム人は抵抗を続け、陳朝の武将であった黎利れいりは明軍を破ることに成功し、1428年ハノイ(東京トンキン)において即位し(太祖 位1428〜1433)、黎朝れいちょう(1428〜1527, 1532〜1789)を開いて国号を大越だいえつとした。明から独立した黎朝ではあったが、改めて明と朝貢関係を結び、朱子学をはじめとして明の制度を取り入れ、支配を確かなものとしていった。

モンゴル

1368年、洪武帝によって中国を追われた元朝の最後の皇帝である順帝(トゴン・テムル)は、モンゴル高原に退き、その後、一族は北元(1371〜1388)として残った。北元は、高麗や雲南地方に残るモンゴル勢力と連絡して中国の奪回をはかった。しかし順帝の子昭宗(アユルシリダラ)のとき、洪武帝の攻撃を受けて1388年に滅んだ。
その後、明の内部では靖難の役がおこり、そのためモンゴルに対する圧力が弱まると、モンゴルでは東に北元系のタタール部、西北にオイラト部がおこり、互いに勢力を争った。両者の対立をうまく助長してモンゴルの統一を妨げようとした永楽帝は、5回のモンゴル遠征を行なった(1410〜1424)。最後の遠征の帰還途中に永楽帝は死亡するが、このモンゴル親政は一時的な効果を上げた。

ところが、15世紀中ごろオイラト部にはエセン・ハーン(?〜1454)が現れ、全モンゴルを従え、強大な勢力を背景になんかして明に交易を要求し、北辺に侵入した。このため第6代正統帝(英宗(明)位: 1435〜1449, 1457〜1464)は、自ら軍を指揮して討伐に向かったが、明軍は土木堡どぼくほで全滅し、正統帝は捕虜となった(土木の変 1449)。
明は新たに弟を即位させ(景泰帝 位: 1449〜1457)、北京防衛に努めた。エセン・ハーンはその後北京まで迫ったが、容易に落とせないと見ると和議を結び、正統帝を釈放して引き上げた。
正統帝の復位を巡って朝廷内部は対立したので、明の対外政策は守勢に転じ、北方の長城を改修してモンゴルの侵入に備えるなど、その政策はますます消極化していった。

明は、オイラト部の侵入以降、長城を増築・整備して北方民族の侵入に備えた。この時の長城が現在のもので、東の山海関から西の嘉峪関までの間には、二重に長城が張り巡らされたところもあり、その全長は述べ2400kmに及び、さらには一定の距離を置いて望楼(見張り台)や砦が配置されている。

アジア諸地域の繁栄

清代の中国と隣接地域

清代の社会経済と文化
対外政策

明の洪武帝は海禁政策をおこなったが、つづく永楽帝は鄭和を南海に派遣し、一時南海交易が積極的におこなわれた。しかし永楽帝の死後、再び海禁政策が復活した。明は、朝貢国に対して勘合符を与えて正式な朝貢船の証明とし、広州・泉州・寧波ニンポーに市舶司をおいて朝貢貿易を管轄するとともに、中国人の海外渡航を禁止した。

1517年、ポルトガル人が広東カントン付近に来航したのを契機に、その後スペイン・オランダ・イギリスの商人が相ついで来航したが、明朝は朝貢貿易の姿勢をくずさなかった。このように厳しい海禁政策がおこなわれていたが、しかし広東・福建などの民衆は海禁を犯して、東南アジアへ移住する者が現れ、のちの南洋華僑のもととなった。

1644年の明滅亡後に北京に入り中国支配を進める清朝は、台湾に根拠地を移して反清運動を続ける鄭成功に対し、中国船の渡航を厳禁する政策をとり(遷界令せんかいれい)、大陸との交通を断ち独立させようとした。この政策は鄭氏一族を滅ぼした1684年に解除された。さらに1685年には広東・福建などに海関かいかん(税関)を設け、海外貿易を統制した。当初の貿易相手は、すでに明朝末から来航していたポルトガル・スペイン、さらにその後に来航してきたオランダ・イギリスなどであった。イギリスは18世紀になるとポルトガル・スペインなどを圧倒して、中国貿易を独占した。そして東インド会社をとおして中国の生糸や陶磁器・茶などを輸入したが、その代価は銀で支払われ、その額は巨額にのぼった。このためがいっそう中国内に流入した。

乾隆帝は、康熙帝時代の典礼問題などもあって、1757年、ヨーロッパ人との貿易を広州(広東)の1港に限定し、藩属国の朝貢貿易と同じように品目・数量・来航数などを一方的に制限し、さらに公行こうこうと呼ばれる少数の特許商人に貿易管理のいっさいを任せた。こうした制限された交易や公行による貿易の独占に対してイギリスは、18世紀末から19世紀前期にかけてマカートニー(1737〜1806)やアマースト(1773〜1857)を派遣して、制限貿易の撤廃を求めたが失敗し、こうした体制はアヘン戦争後の南京条約(1842)まで続けられた。

清代の社会経済と文化 – 世界の歴史まっぷ

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