最上徳内
最上徳内(川原慶賀画/フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト『日本』第1巻(1826)/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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最上徳内 もがみとくない( A.D.1755〜A.D.1836)
北方探検家。出羽の生まれ。江戸で本多利明に天文・測量・航海術などを学ぶ。1785年、幕府の千島列島探査に参加。以後、数回蝦夷地を調査した。シーボルト事件の関与を疑われるが無罪。

最上徳内

北方探検家。出羽の生まれ。江戸で本多利明に天文・測量・航海術などを学ぶ。1785年、幕府の千島列島探査に参加。以後、数回蝦夷地を調査した。

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蝦夷地探検のスペシャリスト

北方探検家。出羽国の農民の生まれ。江戸で本多利明に天文・地理・測量術などを学ぶ。31歳のとき、幕府の千島列島探査に参加。以後、8回にわたり蝦夷地を調査する。国後、択捉、ウルップの各島や樺太にも回る。シーボルト事件の関与を疑われるが無罪。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

幕藩体制の動揺

幕府の衰退

列強の接近

ロシアの南下により、蝦夷地の処置が課題となった。幕府が直轄して開発する田沼時代の政策は、寛政の改革の開始とともに撤回されたが、1789(寛政元)年にクナシリ・メナシのアイヌが、場所請負商人による不正と搾取に抵抗して蜂起した事件(クナシリ・メナシの蜂起)は、幕府に大きな衝撃を与えた。寛政の改革では北国郡代 を新設して北方の防備にあたらせる計画が立てられたが、松平定信の老中辞職とともに実現しなかった。1796(寛政8)年から翌年にかけて、イギリス人ブロートン(Broughton 1762-1821)が蝦夷地の絵靭えとも室蘭)に来航し、日本近海の海図を作成するために測量する事件がおこった。これを契機に、幕府は1798(寛政10)年、近藤重蔵(1771〜1829)や最上徳内らに千島を探査させ、その翌年に東蝦夷地を直轄地とし、1802(享和2)年に箱館奉行を設けた。

北方探査要図
北方探査要図 ©世界の歴史まっぷ
青森か三厩みんまやに郡代を新設して南部藩と津軽藩に警護を命じ、北辺の防備と俵物の集荷や蝦夷地渡海の商戦の取締りにあたらせようとした。
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