後三条天皇
後三条天皇 (御歴代百廿一天皇御尊影) ©Public Domain

後三条天皇


後冷泉天皇

白河天皇

後三条天皇ごさんじょうてんのう A.D.1034〜A.D.1073
在位1068〜1073。父は後朱雀天皇ごすざくてんのう、母は禎子ていし内親王(三条天皇皇女)で、藤原氏と外戚関係がなく、藤原頼道と対立、24年間皇太子のままであった。異母兄の後冷泉天皇ごれいぜいてんのう後嗣こうしなく没すると即位し、親政を行った。延久の荘園整理令を発し、その徹底を図るため、記録荘園券契所きろくしょうえんけんけいじょを設けた。

後三条天皇

在位1068〜1073。父は後朱雀天皇ごすざくてんのう、母は禎子ていし内親王(三条天皇皇女)で、藤原氏と外戚関係がなく、藤原頼道と対立、24年間皇太子のままであった。異母兄の後冷泉天皇ごれいぜいてんのう後嗣こうしなく没すると即位し、親政を行った。延久の荘園整理令を発し、その徹底を図るため、記録荘園券契所きろくしょうえんけんけいじょを設けた。

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院政期系図 延久の荘園整理令と荘園公領制
院政期系図 ©世界の歴史まっぷ

中世社会の成立

院政と平氏の台頭

延久の荘園整理令と荘園公領制

藤原頼道の娘には皇子が生まれなかったことから、ときの摂政・関白を外戚としない後三条天皇が即位した。すでに壮年に達し、「たけき御心にておはしまし」と称されるほどに個性の強かった天皇は、大江匡房おおえのまさふさらの学識に優れた人材を登用し、摂関家にはばかることなく国政の改革に取り組んだ。

とくに荘園の増加が公領を圧迫しているとみた天皇は、1069(延久えんきゅう元)年に厳しい内容の延久の荘園整理令を出した。全国的な荘園整理令は、醍醐天皇の902(延喜2)年に初めて出され、その後、1045(寛徳かんとく2)年などにしばしば出されていたが、その実地が国司に委ねられていたため不徹底であった。

そこでこの整理令は国司任せではなく、中央に記録荘園券契所きろくしょうえんけんけいじょ(記録所)を設けて徹底的な審査を行った。審査にあたる弁官べんかん寄人よりうどには天皇の側近をあて、審査に際しては、荘園領主から証拠書類を提出させ、国司からも報告を取り寄せて、その二つを合わせて審査したのである。年代の新しい荘園や書類不備のものなど、基準に合わない荘園を停止しており、摂関家の荘園も例外ではなく、この整理令はかなりの成果をあげた。例えば石清水八幡宮寺領では、34カ所の荘園のうち、21カ所だけが認められ、残りの13カ所では権利がすべて停止された。

記録所

この時の記録所は、寄人が国司と荘園領主から提出された荘園の書類審査にあたり、その結果を上申するのみであったが、その後、荘園の訴訟を裁く機関として重視されるようになり、保元・建久年間に荘園整理令が出されて記録所がおかれると、荘園の整理ばかりではく、訴訟期間としての機能が強まり、さらに鎌倉時代末期には訴訟期間として常設されるにいたった。

こうした整理が可能だったのは、摂関の前に「あけくれひざまづきありく」といわれていた受領の要求を天皇が受け入れつつ、天皇が主導権をもって行ったからである。整理令のほかにも、天皇家の経済を確立するために意を注ぎ、また国家公定のますを定めた。これは枡の大きさを一定にしたもので、宣旨枡せんじますといわれ、枡の基準として後世まで広く用いられた。

この整理によって、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領国衙領)とが明確になっていった。現地には使者が派遣されて国の在庁官人とともに土地の調査が行われた。荘園とそれ以外の国司の支配下にある公領(国衙領)との境に榜示ぼうじが打たれ、荘園の田畠の量や家の数、桑・粟などの有用樹木の数量などを記載した報告書が作成され、正式に荘園として認められたが(立券荘号)、その際に荘園の絵図が作成されることもあった。
これにともなって、国司も支配下にある公領への支配を整えていった。公領に力を伸ばしてきた豪族や開発領主に対し、国内を郡・郷・保などの新たな単位に再編成し、彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。また国衙では、田所・税所などの行政機構を整備し、代官として派遣した目代の指揮に従って在庁官人が実務を取る体制が取られるようになった。

郡司・郷司

律令の制度では、地方の行政区画は国・郡・里とわけられたが、里は8世紀の初めに郷と改められた。郷は50戸を単位とする行政区画であり、郷がいくつか集まって郡を構成していた。それが10世紀以後になって、人に対する支配から土地をつうじての支配にかわるにつれ、これまでの郡と郷は地域的な区分として編成し直された。その結果、別名べつみょうということで郡と郷も地域的な徴税の単位として同格のものとなった。また郡と郷とは別に、国衙から特別に設定されたのが保である。この郡・郷や保における税の徴収を請負う役人として任命されたのが、郡司・郷司・保司である。彼らはその地方の有力者で、国衙の在庁官人を兼ねており、その地位を世襲するものが多かった。

やがて国司が現地に赴任しなくなったこともあって、国司・郷司や在庁官人らは、公領をあたかも彼らの共同領地のように管理したり、また荘園領主に寄進したりしたため、かつての律令制度のもとで国・郡・里(郷)の上下の行政区分で構成されていた一国の編成は、荘・郡・郷・保などと呼ばれる荘園と公領で構成される体制(荘園公領制)に移行した。

これにともなって大田文おおたぶみが作成され、荘園と公領の領主や田畠の数量を把握するようになり、荘園と公領に共通して一国平均役いっこくへいきんやくなどの課役をかけるようになった。内裏の造営や伊勢神宮の造営費用などには主にこれが当てられた。

整備された荘園や公領では、耕地の大部分はみょうとされ、かつての田堵たとなどの有力農民に割り当てられ、彼らは名の請負人の立場から権利を強めていき名主みょうしゅと呼ばれた。名主は、名の一部を下人などの奴隷農民に、またほかの一部を作人と呼ばれる農民などに耕作させながら、年貢・公事・夫役などを領主に納め、農民の中心となった。

年貢は主に米・絹などで納め、公事は糸・布・炭・野菜などの手工業製品や特産物を納入し、労役を奉仕するのが夫役であった。名主に割り当てられた年貢・公事・夫役などは、国司が名を請負う田堵に課税した官物・臨時雑役の系統を引くものであった。

院政期の文化

11世紀には、藤原明衡ふじわらあきひらが『新猿楽記しんさるがくき』を著して、さまざまな階層の人々の生態を記し、後三条天皇や白河上皇の近臣であった大江匡房おおえのまさふさは『傀儡子記くぐつしき』や『永長田楽記えいちょうでんがくき』などを著して、芸能に関わる人々の動きに注目している。田楽などの庶民的芸能は貴族の間に大いに流行しており、奈良時代に中国から伝来した散楽さんがくに由来する猿楽さるがくも親しまれた。

院政の開始

後三条天皇は子の白河天皇(在位1072〜1086)に位を譲って院庁いんのちょうをおいたが、病気のため早く亡くなった。その国政改革の意思を受け継いだのが白河天皇であり、1086(応徳おうとく3)年、弟の輔仁親王すけひとしんのうへの皇位継承を嫌ってにわかに幼少の堀河天皇ほりかわてんのう(在位1086〜1107)に譲位したのち、上皇じょうこう(院)として院庁を開き、ついで天皇を後見しながら政治の実権を握る院政いんせいを行うようになった。

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