弥生土器
弥生時代後期 吉野ヶ里遺跡 弥生土器 Source Wikipedia

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弥生土器
縄文土器のあとに続き,古墳時代の土師器はじきや須恵器より古い土器。弥生時代を通じて製作,使用された。現在の東京都文京区弥生から発見された壺形土器にちなんで名づけられた。当初は「弥生式土器」と呼ばれたが,総括的名称である縄文土器にならって弥生土器と呼ばれるようになった。一般的に,壺形,甕形,高坏など,用途によって異なる器形をもち,胎土は精選されていない。前期,中期,後期に3大別され,さらに細別されている。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

弥生土器

紀元前5世紀頃から紀元前3世紀の時期を弥生時代と呼ぶが、弥生時代は土器の変遷や大陸よりもたらされた青銅器の年代などから、前期(紀元前5〜紀元前2世紀)、中期(紀元前2世紀〜紀元1世紀)、後期(1〜3世紀)の3期に区分される。水田稲作が始まった縄文時代晩期の紀元前5世紀を弥生時代早期とする意見もある。

弥生文化の成立

弥生土器が縄文土器と異なるのは、高さ30㎝を超える大きな壺形つぼがた土器がたくさん作られるようになったことで、それは米などの貯蔵に用いられた。
壺形土器は、煮炊きに使う甕形かめがた土器、物を盛る高坏たかつき形土器や鉢形土器などとセットで用いられた。
弥生土器は、深鉢と浅鉢の組み合わせが基本である縄文土器よりも、種類が豊富になった。弥生土器には朝鮮半島の無文土器の影響も認められるが、直接弥生土器の祖形になる土器は無門土器に認められないので、農耕生活の影響を受けて縄文土器を変化させ、弥生土器を生み出したと考える人が多い。

最古の弥生土器

最古の弥生土器は、板付遺跡から出土した土器によって名付けられた板付I式土器である。これには、縄文土器の伝統を受け継いだ夜臼ゆうす式土器が伴う。これらは壺形土器・甕形土器・浅鉢形土器・高坏形土器からなるが、大半を壺形土器と甕形土器が占める。板付I式土器は壺形土器と甕形土器が2対1の割合で構成され、夜臼式土器の壺形土器と甕形土器の割合はおよそ1対2である。
それ以前の縄文土器には壺形土器はほとんど用いられていないので、弥生土器の成立とともに、壺形土器が重要な役割を担うようになったと言える。
その役割としては、種籾たねもみといった穀物などの貯蔵が考えられよう。弥生土器の成立した時点で、縄文土器の伝統を受け継いだ土器が伴っているのは、北部九州ばかりではない。
伊勢湾地方でも、この地方で最古の弥生土器である遠賀川おんががわ式土器に、縄文土器の伝統を受けて貝殻の縁などで粗い文様をつけた条痕文じょうこんもん土器が伴う。
関東地方などでは、伊勢湾地方の条痕文土器が影響を与えて弥生土器が成立するので、縄文土器の伝統は西日本に比べて根強い。縄文土器から弥生土器への変化は、地域差があり、複雑である。

弥生土器と弥生時代

弥生土器 弥生貝塚
最初に見つかった弥生式土器(東京大学総合研究博物館/重要文化財)
1884(明治17)年、東京本郷の弥生町(現文京区弥生2丁目)の向ヶ岡貝塚から一つの壺形土器が発見された。薄く堅く、明るい色に焼かれた文様が少ないこの土器は、それまでに発見されていた縄文土器と違う特徴をもつことから、「弥生式土器」と呼ばれた。
その後、弥生土器は縄文土器の上の層から出土したり、青銅器とともに出土することが確かめられ、弥生土器が用いられた時代という意味で、弥生時代が設定された。
しかし、縄文土器と弥生土器とは製陶技術の点からいうと、轆轤ろくろを用いず、野焼きであるなど本質的な変化はなく、明確には区分できない。
したがって、時代を分ける指標にはふさわしくないことが主張された。そこで縄文時代と弥生時代は、採取経済化農耕経済かという経済基盤の違いを元に気分されるようになり、それぞれの時代の土器を、縄文土器、弥生土器と呼ぶのが一般的となった。

吉野ケ里遺跡時代別出土土器

前期(紀元前5〜紀元前2世紀)

弥生土器
弥生時代前期 吉野ケ里遺跡 弥生土器 Source Wikipedia

中期(紀元前2世紀〜紀元1世紀)

弥生土器
弥生時代中期 吉野ヶ里遺跡 弥生土器 Source Wikipedia

後期(1〜3世紀)

弥生土器
弥生時代後期 吉野ヶ里遺跡 弥生土器 Source Wikipedia
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