平賀源内
平賀鳩渓肖像(木村黙老画/『戯作者考補遺』表紙絵/慶應義塾図書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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平賀源内 ひらがげんない( A.D.1728〜A.D.1779)

本草学者・科学者・戯作者。讃岐さぬき高松の人。長崎遊学後、江戸で寒暖計・エレキテル(摩擦起電器)・石綿による火浣布かかんぷ(不燃布)を制作。洋画にも優れ『西洋婦人図』を描く。戯作げさくにも没頭し、浄瑠璃作家としても活躍。

平賀源内

本草学者・科学者・戯作者。讃岐さぬき高松の人。長崎遊学後、江戸で寒暖計・エレキテル(摩擦起電器)・石綿による火浣布かかんぷ(不燃布)を制作。洋画にも優れ『西洋婦人図』を描く。戯作げさくにも没頭し、浄瑠璃作家としても活躍。

エレキテル(摩擦起電器):静電気を発生させる摩擦起電器具。1776年、平賀源内が製作したものが有名。

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多芸多才で人々を驚かせたキテレツ学者

自由を求めて故郷讃岐から脱藩

平賀源内は下級武士の子として讃岐に生まれ、22歳で家督を継ぐ。そのかたわら儒学や俳諧、本草学などに興味を示し、仕官5年で妹婿に家督を譲り、大坂に遊学。その後、江戸の本草学者田村藍水たむららんすいに学び、その合間に林家で儒学も学んだ。師の藍水は、源内の発案により湯島で薬品会を開催した。これは有用な動植物や鉱物を展示し知識を交流するという日本最初の物産会で、やがて源内が主催者となる。こうした源内の活動に高松藩も注目し、四人扶持銀十枚の薬坊主格に任命して藩領内で薬種の探索に従事させた。

平賀源内
平賀源内肖像(中丸精十郎画/早稲田大学図書館蔵)© Waseda University Library, 1996-. All Rights Reserved.

しかし、自由を欲する源内は宮仕えに嫌気がさして高松藩に辞職を願い出る。許可されるが、脱藩後は他藩への仕官禁止という条件がつけられたため、源内はこれ以後浪人として生きていくことになった。主宰していた薬品会は脱藩後も実施し、規模も大きく出展者も全国に及ぶようになった。しかし、藩士としての定期収入を失った源内は、さまざまな手段で収入を得ることを余儀なくされた。この頃は鉱物資源開発の仕事に精を出した。伊豆での芒硝ぼうしょう採取に続いて、秩父山中で石綿を発見し、これを火浣布(不燃布)に加工して幕府に提出している。鉱山だけでなく、源内は毛織物の製造にも力を入れたが、こうした事業化の試みは、いずれも失敗。のちには「山師」という悪評が残されてしまった。

土用の鰻:夏場の暑い日、熱い蒲焼が売れず困ったうなぎ屋に相談された源内は、「本日土用丑の日」というのぼりを店頭に立たせ、客の注意を引いて店に呼び込み大繁盛させたという。

一方、源内は文化面でも才能を開花させる。風来山人ふうらいさんじんの筆名で発表した『根南志具佐ねなしぐさ(前編)』と『風流志道軒伝ふうりゅうしどうけんでん』は当時のベストセラーとなり、明治時代まで版を重ねるほど評判となった。画家としても活躍し、とくに秋田藩士小田野直武を門人とし、長崎仕込みの洋画の技法を伝受。秋田蘭画のきっかけをつくった。こうして江戸の文化人として有名になった源内だったが、その最期は悲惨であった。設計図を盗んだとして2人の男を殺傷し、小伝馬町の牢屋に入れられ獄死したのだ。友人の杉田玄白は、「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」と、その死を悼んだ。

多彩多芸な源内
  • 物類品隲ぶつるいひんしつ』:1763年刊行。薬品会の出品解説書。付録には砂糖の製造法も書かれている。
  • 源内焼:図柄に地図が用いられた焼き物。東半球と西半球の2皿があった。
  • エレキテル(摩擦起電器):源内は「人の体より火を出し、病を治す器」として用いた。
  • 薬箪笥と薬研:源内は薬学(本草学)にも長け、漢方医学にも詳しかったという。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

幕藩体制の動揺

化政文化

化政美術

化政文化 化政美術

浮世絵多色刷りの浮世絵の版画(錦絵)として興隆。鈴木春信すずきはるのぶ(1725-70)
喜多川歌麿きたがわうたまろ(1753-1806)
東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらく(生没年不詳)
葛飾北斎かつしかほくさい(1760-1849)
歌川広重うたがわひろしげ(1797-1858)
文人画明・清の南画の影響を受け、文人や学者が余技に描く池大雅いけのたいが(1723-76)
蕪村
谷文晁たにぶんちょう(1763-1840)
田能村竹田たのむらちくでん(1777-1835)
渡辺崋山わたなべかざん
写生画円山派:客観的な写生を重んじ、洋画の遠近法を採用。
四条派:文人画と円山派の長所を取り入れ日本画の有力な流れに
円山応挙まるやまおうきょ(1733-95)
ごしゅん
西洋画日本人による油絵平賀源内ひらがげんない(1728-79)
司馬江漢しばこうかん(1747-1818)
亜欧堂田善あおうどうでんぜん(1748-1822)
小田野直武おだのなおたけ(1749-80)

西洋画も、近世初期に南蛮人がもたらしたのち、一時途絶えていたが、蘭学の興隆とともに西洋画の技法や油絵具が長崎を通して伝えられて復興し、日本人による油絵の作品も生まれた。平賀源内ひらがげんない(1728-79)、『不忍池図』の司馬江漢しばこうかん(1747-1818)、『浅間山図屏風』の亜欧堂田善あおうどうでんぜん(1748-1822)、秋田藩士の小田野直武おだのなおたけ(1749-80)らが代表である。

化政美術
西洋婦人図(平賀源内画/神戸市立博物館/画像出典:神戸市立博物館
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