国民公会
国民公会でのロベスピエールの打倒(マックス・アダモ Max Adamo 画/旧国立美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

国民公会


立法議会

総裁政府

国民公会 ConvemionNarionale ( A.D.1792〜A.D.1795)

フランス革命期の立法議会に続くフランスの憲法制定議会。1792年8月10日事件後、普通選挙により議員が選ばれ、国民公会が成立。王政廃止と共和政(第一共和政)の樹立を宣言した。①ジロンド派公会(92.9.21~93.6.2) ②山岳派公会(93.6.2~94.7.27) ③テルミドール派公会(94.7.28~95.10.26)。テルミドールのクーデタ後、1795年憲法を制定し、5人の総裁から成る総裁政府に行政権をゆだね、解散した。

国民公会

立法議会に続くフランスの憲法制定議会(1792.9.21~95.10.26)。普通次の3時期に区分される。

  1. ジロンド派公会(92.9.21~93.6.2) 右翼にジロンド派、左翼に M.ロベスピエール、G.ダントン、J.マラーの山岳派、中間に平原派が位置する。第一共和政の宣言直後からジロンド派と山岳派の対立が激化し、特に国王ルイ16世の裁判が両者の戦いを妥協不可能にした。国王の処刑(93.1.21)により、ヨーロッパのほとんどの国がフランスと戦争状態に入り、国内では経済危機が生れてパリでアンラジェ(過激派)の暴動が起り、バンデーでは王党派の大規模な反革命内乱が勃発し、ジロンド派の無能ぶりを前に、多くの共和主義者が山岳派に移った。 1793年5月末日から6月2日にかけてジロンド派は公会から追放された。
  2. 山岳派公会(93.6.2~94.7.27) 革命の危機のなかで山岳派は民衆の支持をバックにブルジョア民主主義革命の貫徹を目指した。 93年6月に採択された共和暦第一年憲法(山岳派憲法 )は民主主義の本質的な特徴を規定し、7月17日の法令は領主制の無償廃棄を規定した。他方、アッシニア紙幣の下落は食糧危機を深化させたため、7月に買占め禁止法、9月には一般生活必需品の最高価格法を布告。しかし、全国境で共和国軍隊が退却し、バンデーの反乱が新たな進展を示し、マラーが暗殺されると(7月)、国内外の危機克服のために公安委員会の独裁と革命裁判所が強化されテルミドール九日(94.7.27)のロベスピエールの失脚まで恐怖政治が断行された。
  3. テルミドール派公会(94.7.28~95.10.26) 山岳派支配の崩壊とともに、ブルジョアジーの政治的支配が再建される。政治的反動に精神的反動が伴い、快楽に対する欲求が強まった。94年末に経済統制と最高価格法が廃止され、アッシニア紙幣の暴落、物価の高騰、商業投機がもたらされた。 95年春「パンと93年の憲法を」というスローガンを掲げてパリの民衆が蜂起したが失敗。この年には共和暦第三年憲法が制定され、5人の総裁から成る総裁政府に行政権がゆだねられることになり、国民公会は 95年10月26日に解散した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018

欧米における近代社会の成長

フランス革命とナポレオン

立憲議会の成立と戦争の開始
戦争と共和制図 ©世界の歴史まっぷ
立憲議会の成立と戦争の開始

7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュバイク公はコブレンツで宣言を発し、フランス国王に危害が加えられればパリ市を破壊する警告した。この宣言は王政の瓦解を早める結果となった。ジャコバン=クラブとパリの各地区の市民は国王の廃位を要求し、8月10日パリ民衆と義勇兵は、テュイルリー宮殿を攻撃し、宮殿を警護していたスイス衛兵は惨殺された。民衆の圧力に屈し、議会は王権を停止し、普通選挙による憲法制定議会すなわち国民公会の招集を布告した(8月10日事件)。ルイ16世タンプル宮に幽閉された。

この8月の蜂起のとき、民衆の活動家によりコミューンが組織された。パリの実権はコミューンが握った。

コミューン:市民の自治組織で、パリの48区からそれぞれ代表を選出しコミューン総会を構成した。1792年8月10日事件では、それまでの公式のコミューンにかわり、サンキュロットを主体とする革命的コミューンが成立し、合法性をこえた革命的行動で国民公会に圧力を加えた。山岳党の勢力は、コミューンの支持を基盤とした。
第一共和制の成立と内外の危機

1792年8月末から9月初めに普通選挙により議員が選ばれ、国民公会 ConvemionNarionale が成立した。国民公会は王政廃止と共和政(第一共和政)の樹立を宣言した。立憲君主派は姿を消し、共和派のみとなった国民公会では議場の右のジロンド派と議場の左のモンターニュ派(山岳党)が敵対した。ジャコバン=クラブはモンターニュ派が支配していた。

穏健な中間グループは平原派 Plaine と呼ばれ、両派の間を揺れうごき情勢を左右した。国民公会で国王の裁判が始められた。国王は公的自由に対する陰謀と国家の安全の侵犯により、数名の棄権をのぞき満場一致で有罪とされた。モンターニュ派の提案した国王の死刑は可決され、ジロンドが提案した死刑執行延期は否決された。1793年1月、革命広場(のちのコンコルド広場)でギロチンによるルイ16世の処刑がおこなわれた。

革命軍の攻勢とルイ16世(フランス王)の処刑は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の革命への敵意と警戒心を強めた。イギリスのピット首相(小ピット Pitt, 1759〜1806)の呼びかけで、1793年第1回対仏大同盟が結成された。イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどが参加した。国内ではヴァンデ県で王党派が指導する農民の反乱がおこり、インフレと買い占めと食糧難から民衆の不満が高まった。国民公会のモンターニュ派は、反革命を抑えるため革命防衛のための改革を進めた。革命裁判所・監視委員会・国民公会の委員で構成する公安委員会などが設置された。公安委員会は行政の活動の監視・促進をめざすものであったが、しだいにその権限を強めた。

ジロンド派はこのような措置に反対したが、モンターニュ派は1793年6月パリのサンキュロットの武装兵力に国民公会を包囲させ、ジロンド派議員を追放し、独裁権を握った。ジロンド派の議員や大臣の多くは逮捕され、処刑された。

モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治
革命暦
革命暦
革命暦 部分(1794年カレンダー/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

革命暦は1793年10月5日国民公会で採用が決定された。第1年第1日は、共和国成立の年までさかのぼり、1792年9月22日とした。秋分の日から始まる革命暦は、12ヶ月に四季それぞれに応じ次のような名前をあてた。

  • [秋] ヴァンデミエール(ブドウ月)、ブリュメール(霧月)、フリメール(霜月)
  • [冬] ニヴォーズ(雪月)、プリュヴィオーズ(雨月)、ヴァントーズ(風月)
  • [春] ジェルミナール(芽月)、フロレアール(花月)、プレリアール(草月)
  • [夏] メッシドール(収穫月)、テルミドール(熱月)、フリュクチュドール(実月)

1ヶ月は10日ずつの3旬に分割され、第10日を休日とした。しかし、この旬日制は実施されなかった。1ヶ月を30日とすると1年で5日残るが、これはサンキュロティードという革命祭日として年頭におき、閏年にはこれに1日を加えた。革命暦は1806年のグレゴリウス暦復帰まで用いられ、公文書も、革命暦で記載された。

テルミドールのクーデタと総裁政府

革命政府が国外・国内で勝利をえた1794年の段階で、モンターニュ派の指導者間の対立と不信が表面化した。パリのサンキュロットの間に支持者が多かったエベール Hébert (1757〜1794)派は、民衆の過激な行動を扇動してきた。また、非キリスト教運動を進め、銀行家の逮捕など過激な主張をくりかえしてきたが、国民公会に対する蜂起計画を告発され、逮捕・処刑された。一方、ダントン派は恐怖政治の緩和を要求したが、ダントンの汚職が摘発され、処刑された。公安委員会を指導するロベスピエールが独裁権を握った。恐怖政治は一層強化された。革命裁判は迅速化がはかられ、1794年6月プレリアール法(草月)により、弁護・証人・予審を省いておこなうことができるようになり、処刑者の数は激増した。

しかし革命戦争の勝利は恐怖政治の正当化を困難にしていた。ブルジョワジーは経済活動の自由を要求し、労働者は賃金の統制に不満をもち、他方で恐怖政治は腐敗と結びついた。土地をえた農民は革命のそれ以上の進展を望まず、保守化する傾向をみせた。

公安委員会でもロベスピエールの独裁への反感が生まれ、国民公会ではロベスピエールにより告発されることを恐れる腐敗分子が反ロベスピエール派を形成した。

1794年7月27日、革命暦でテルミドール Thermidor (熱月)9日、国民公会はロベスピエールを告発、ロベスピエール派の逮捕を決定した。ロベスピエールらはいったん支持者により釈放されたが、国民公会も部隊を集め、ロベスピエール派を襲撃して逮捕し、裁判をへずにただちに処刑した(テルミドールのクーデタ)。

このテルミドールのクーデタで恐怖政治は終止符が打たれ、国民公会では穏和派が主導権を握った。公安委員会の権限は縮小され、プレリアール法も廃止された。革命裁判は改組され、ジャコバン=クラブも閉鎖された。しかし、革命政府は安定性、権力の集中性、反革命勢力の鎮圧力を失った。統制が撤廃され経済活動の自由が認められたが、買い占めや投機により物価は高騰した。これに反対する民衆(サンキュロット)運動は抑えられた。反革命派や王党派が勢いづき、恐怖政治の報復として、白色テロが横行した。

1795年、国民公会は新憲法を制定し、秩序の安定をはかった(1795年憲法)。財産額によって資格が制限された選挙で選ばれる二院制の議会と、5人の総裁により構成される政府がつくられることとなった。10月に成立した総裁政府 Directoire は共和制維持と社会秩序の回復を宣言した。しかし、総裁政府は左右両勢力の攻撃により動揺する不安定な政権であった。

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議場

第1回議会はテュイルリー宮殿の大広間で開催され、それ以後は立法議会の議場と同じ屋内馬術練習場に戻った。1793年5月10日からは大人数を収容できるテュイルリー劇場に議場が移された。

参考 Wikipedia

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